24話 夜のラン
夜の空気は冷えていた。
日向はイヤホンもつけず、街灯のリズムだけを頼りに走っていた。靴底がアスファルトを叩く音が、やけに大きく聞こえる。
さっきまでいた喫茶店の匂いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。少し苦いコーヒーと、古い木のテーブル。新聞を半分に折ったまま、読んでいなかった佐伯師匠の横顔。
「歳を取るとさ、ああいう声が遠くなる」
その言葉を思い出して、呼吸が一拍ずれた。
遠くなる、という表現が妙に正確で、胸の奥に引っかかっている。
信号を一つ越える。赤だったはずなのに、気づけば青に変わっていた。時間は、走っているときだけ、勝手に進む。
「走ってるだろ」
あの一言も、今さら効いてきた。見抜かれた悔しさより、気づいてもらえていたことの方が大きかった。
ふいに、師匠の短い笑い声が脳裏によみがえる。
――はは。
あの、研究会の帰り道で聞いたのと同じやつだ。
「……っ」
日向は、思わず息と一緒に笑ってしまった。
夜道で一人、理由もなく笑う自分が少し可笑しい。
走る速度は落とさない。
将棋から離れているわけでも、戻っているわけでもない。ただ、今は前に進んでいるだけだ。
街灯の下を抜けながら、日向は思う。
盤を閉じる夜も、走る夜も、どちらも自分だ。
そして、あの喫茶店に戻れる場所がある限り――
まだ、迷っていてもいい。
足音だけが、夜に続いていった。




