23話 師弟
夕方の喫茶店は、時間が少し緩んでいる。
佐伯師匠はいつもと同じ席に座っていて、新聞を半分に折ったまま、もう読んでいなかった。
「久しぶりだな」
それだけ言って、師匠はカップを持ち上げる。日向は向かいに座り、メニューも見ずに同じものを頼んだ。
「最近、どうだ」
「ぼちぼちです」
それ以上、言葉は続かなかった。沈黙は気まずくない。むしろ、将棋盤の前よりも自然だった。
店の外を、学生が数人、笑いながら通り過ぎる。佐伯師匠はその背中を目で追ってから、ぽつりと言った。
「歳を取るとさ、ああいう声が遠くなる」
「遠く、ですか」
「聞こえなくなるわけじゃない。ただ、自分の中に届くまでに、時間がかかる」
日向は頷いた。自分も、最近そんな感覚を覚えていた。
「お前、走ってるだろ」
不意に言われて、日向は一瞬だけ目を伏せた。
「……夜に」
「やっぱりな」
佐伯師匠はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
「昔のお前は、何かあると黙って盤に向かった。今は、外に出る。悪くない」
将棋の話ではなかった。でも、将棋から逃げているわけでもない。そう言われている気がした。
コーヒーが冷め始める。佐伯師匠はカップを置き、しばらく考えるように天井を見上げた。
「俺な」
前置きだけして、言葉を探す。
「最近、ようやく分かってきた。教えるってのは、強くさせることじゃない。戻ってこられる場所を残すことだ」
日向は何も返さなかった。ただ、その言葉を胸に置いた。
しばらくして、佐伯師匠がふっと息を漏らした。
「……はは」
短く、でも確かに気持ちのこもった笑いだった。昔、研究会が終わった後に見せていた、あの笑い方。
「お前がな、こうして普通に座ってるの見たら、なんか安心してな」
照れ隠しのように、視線を外す。
「それだけだ」
日向は、少しだけ背中の力を抜いた。
盤はない。
でも、この時間は、確かに師弟だった。




