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蒐集家という名の棋士について  作者: 夜明けの語り手
第二章 一年後

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20話 ひとつの打ち方

道場を出ると、外はもう暗くなっていた。

看板の灯りが路地に滲み、足音だけがはっきりと残る。


日向はコートのポケットに手を入れたまま、歩いた。

行き先を決めていたわけではない。

ただ、気づいたら、そこに近づいていた。


古い会館の一階。

今も変わらず、将棋連盟の掲示板が入口に立っている。


日向は立ち止まった。

ここに来るのは、一年ぶりだった。


扉を開けると、

空気の匂いが変わらないことに気づく。

畳と紙と、ほんの少しの金属。


廊下の奥から、駒音が聞こえた。

一定の間隔で、迷いのない音。


――いる。


その確信だけで、足が動いた。


対局室の端。

背中を向けて座っているのが、佐伯だった。


白髪は増えている。

だが、背筋は昔のままだ。


「……久しぶりです」


声は、思ったよりも普通に出た。


佐伯は振り返らなかった。

駒を一枚指し終えてから、ようやく顔を上げる。


「来たか」


それだけだった。


歓迎でも、拒絶でもない。

ずっとそこにあった言葉。


「師匠」


その呼び方に、佐伯の眉がわずかに動く。


「もう、門下じゃない」


「……分かってます」


沈黙が落ちる。

盤の上では、局面が少し進んでいる。


「教えてるそうだな」


「ええ」


「向いてるか」


日向は、少し考えた。


「分かりません」


正直だった。


佐伯は小さく息を吐く。

それは、笑いに近かった。


「向いてるかどうかを考えるようになったら、

 もう前とは違う」


日向は何も言えなかった。


「逃げたとは思っていない」


佐伯が、盤から目を離さずに言う。


「だが、止まったままだとも思っている」


その言葉は、刃物のように正確だった。


日向は、反論しなかった。

できなかった。


「終わっていない局があるな」


佐伯の指が、盤の中央を叩く。


日向の視線が、そこに吸い寄せられる。


「……あります」


「指せないか」


「指せます」


即答だった。


佐伯は、そこで初めて日向を見た。


「なら、なぜ指さない」


答えは、分かっていた。

それでも、口に出すのは初めてだった。


「……指したら、

 あの対局が終わってしまうからです」


言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。


佐伯は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。


「終わらせられない将棋は、

 教えることもできない」


日向は息をのんだ。


「だがな」


佐伯は、盤の駒を一枚、音を立てて置く。


「終わらせる覚悟ができるまで、

 盤の外に立つのも、ひとつの打ち方だ」


日向は目を伏せた。


許されたわけではない。

責められたわけでもない。


ただ、

まだ盤に戻る道が、閉じられていないと知った。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな」


佐伯はもう、盤に向き直っていた。


「終わらせたくなったら、また来い」


日向は、深く一礼した。


扉を閉めると、廊下が静まり返る。

それでも、胸の奥では、あの局面が動き始めていた。


まだ指さない。

だが、もう、逃げてはいない。


日向は外へ出る。

夜の空気が、少しだけ軽く感じられた。

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