表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第一章 ライバル

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/85

1話 朝に残る手

目が覚めた瞬間、相川恒一は負けた将棋のことを思い出していた。


ただし、負けそのものではない。

終局の場面でも、頭を下げた瞬間でもなかった。


思い出したのは、

まだ勝ち負けが決まっていなかった、ほんの一瞬だ。


昨夜は見えなかったはずの一手が、朝の光の中で、当たり前のように浮かび上がっていた。

なぜ気づかなかったのか、とは思わない。

将棋では、見える時と見えない時がある。それだけだ。


相川恒一、二十七歳。棋士六段。


目覚ましは鳴る前に止める。

音があると、思考が濁る。


洗面所で顔を洗う。

冷たい水が頬を打つ。

鏡の中の自分は、負けた翌朝にしては落ち着きすぎていた。


盤を、頭の中に戻す。


形。

流れ。

相手の呼吸。


名前のある戦法かどうかは関係ない。

重要なのは、あのとき自分が「守ろうとした」という事実だった。


逃げる手ではなく、捨てる手があった。

理屈では説明できない。

だがその一手は、盤の上に自然に収まっている。


昨夜の自分には、そこが見えなかった。

いや、見ようとしていなかった。


恒一は、その一手を心の奥にしまう。

ノートは開かない。

書いてしまえば、そこで思考が終わってしまうからだ。


将棋は、理解した瞬間に使うものではない。

忘れかけた頃に、勝手に出てくるものだ。


朝食は取らない。

空腹のほうが、頭が静かになる。


窓を開けると、冬の空気が部屋に入り込む。

ひんやりとした感触が、盤の冷たさとよく似ている。


昨日の対局は負けた。

それ以上でも、それ以下でもない。


勝敗は記録に残る。

だが、恒一が残したいのは結果ではなかった。


残すのは、使える一手だけでいい。


道場へ向かう途中、佐伯師匠の顔を思い出す。

強い棋士だ。

強さを、ためらいなく振るう人間でもある。


昨日も、師匠は恒一より先に「結論」に辿り着いていた。

だが、結論はいつも最善とは限らない。

将棋は、早く終わらせればいいものではない。


恒一は、ゆっくりだ。


昔はそれが欠点だと思っていた。

今は違う。

これは、自分の将棋の速度なのだと受け入れている。


若い棋士がもてはやされる。

最年少。最速。史上初。

言葉はいつも、前へ前へと急ぐ。


恒一の将棋は、その少し後ろを歩く。

だが、歩いている限り、止まってはいない。


対局室に入ると、盤が置かれていた。

今日の相手は、昨日とは違う。

昨日の負けとは、何の関係もない。


それでも、朝に思い出した一手は、

恒一の中で静かに眠っている。


使うかどうかは分からない。

今日ではないかもしれない。

一年後かもしれない。


それでいい。


相川恒一は、欲のない棋士だと思われている。

勝ちに執着せず、記録にも興味がない。


だが、それは違う。


彼は、誰よりも欲深い。

将棋の頂点で、ただ一つ、タイトルが欲しい。


そのためなら、

今日の勝ちも、昨日の負けも、等しく使う。


盤に向かう。

駒の木目が、はっきりと見える。


思考は、もう目を覚ましている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ