1話 朝に残る手
目が覚めた瞬間、私は負けた将棋のことを思い出していた。
正確には、負けそのものではない。終局図でも、投了の瞬間でもなかった。盤の中央に残された、あの形だ。銀が進む前の、ほんの一呼吸。昨夜は見えなかったはずの一手が、朝の光の中で自然に浮かび上がっていた。
相川恒一、二十七歳。棋士六段。
目覚ましは鳴る前に止めた。鳴られると、考えが散る。
洗面所で顔を洗う。冷たい水が頬を打つ。鏡の中の私は、負けた翌朝の顔をしているはずだったが、意外なほど落ち着いていた。歯ブラシを動かしながら、私は盤を頭の中に戻す。
角換わり。中盤。八筋の歩。
そうだ。あのとき、私は守ろうとした。
逃げる手ではなく、捨てる手があった。理屈では説明できない。ただ、その一手は盤に自然に収まっている。昨夜までの私には、そこが見えなかった。見えなかったというより、見ようとしていなかったのだと思う。
私はその手を、心の奥にしまった。ノートは開かない。書いてしまえば、考えはそこで止まる。将棋は書いた瞬間に、私の手から離れてしまう。
朝食は取らない。空腹のほうが、頭が静かだ。窓を開けると、冬の空気が部屋に入り込む。盤の冷たさと、よく似ている。
昨日の対局は負けた。事実はそれだけだ。勝敗は記録に残るが、思考は残らない。残すのは、手だけでいい。
昼前、道場に向かう途中で、佐伯八段の顔を思い出した。あの人は強い。強さを、ためらわずに使う人だ。昨日も、私より先に結論に辿り着いていた。だが、結論はいつも最善とは限らない。
私は、ゆっくりだ。
そのことを、最近ようやく受け入れられるようになった。
若い棋士が騒がれる。最年少、最速、史上初。言葉はいつも速い。私の将棋は、その後ろを歩く。だが、歩いている限り、止まってはいない。
対局室に着くと、盤が置かれていた。今日の将棋は別の相手だ。昨日の負けとは、関係がない。それでも、朝に思い出した一手は、私の中で静かに眠っている。
使うかどうかは分からない。今日ではないかもしれない。
それでいい。
私の目標は、新しい手を指すことではない。
この将棋を、どこまで連れて行けるかを見ることだ。
盤に向かうと、駒の木目がはっきり見えた。
思考は、もう目を覚ましている。




