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蒐集家という名の棋士について  作者: 夜明けの語り手
第一章 ライバル

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12話 恒一

盤の中央を、恒一は見ていなかった。

正確には、見ようとしていなかった。


意味が生まれてしまう前に、触れてしまうのが怖かった。

一度でも「これはこういう将棋だ」と名づけてしまえば、

その瞬間から、手は目的を持ち始める。


目的を持った手は、早く腐る。


恒一はそれを、もう何度も経験していた。


時計の音が、遠い。

盤の外で誰かが息をしている気配も、輪郭を失っている。

今ここにあるのは、木の盤と、木の駒と、

その間に流れる、まだ形を持たない時間だけだった。


日向の手は速い。

だが、速さのあとに必ず間がある。

それは迷いではない。

相手の呼吸を探すための間だ。


――若いのに、嫌な打ち方をする。


そう思いながら、恒一は何も感じていなかった。

評価でも、警戒でもない。

ただ、そういうリズムがあると知っているだけだ。


恒一の指が、自然に動く。

考えた記憶はない。

だが、考えていないわけでもない。


昨日の夜、

もっと前の負けた将棋、

研究会で誰にも拾われなかった一手、

それらが、言葉にならないまま沈んでいる。


――まだだ。


恒一は、内心でそう呟く。

それは我慢ではなく、確認だった。


今ここで出せば、効く。

効いてしまう。

効いてしまった手は、もう次から使えなくなる。


恒一にとって、将棋は「勝つための道具」ではなかった。

勝ちは、結果として起きるものだ。

狙って取りに行くものではない。


盤面が、少しずつ窮屈になっていく。

選択肢は減り、言い訳も減っていく。

それでも、まだ核心には触れない。


日向の指が止まる。

長い長考。


恒一は、その時間を受け取る。

急かさない。

詰めない。

ただ、そこにあるものとして置いておく。


――負けてもいい。


ふと、そんな考えが浮かぶ。

逃げではない。

予防線でもない。


むしろ逆だ。


ここで勝ってしまえば、

自分が何を溜めてきたのかを、

自分自身が誤解してしまう気がした。


勝ちたい。

誰よりも。


その欲は、恒一の中に確かにある。

だがそれは、

「今日この一局で満たされる種類の欲」ではなかった。


もっと奥にある。

もっと遅く、もっと深い場所に届くまで、

何局でも使い捨てにできる種類の欲だ。


恒一は、顔に出さない。

出す必要がない。

欲は、隠すものでも、抑えるものでもなく、

ただ、寝かせるものだった。


日向が指す。

盤面が、わずかに傾く。


恒一は、その傾きを見ていない。

ただ、全体がどちらに倒れたかだけを感じている。


まだ眠っている。

まだ出せない。


それでいい。


この将棋は、

始まっていないまま、

確実に「次の段階」へ向かっている。


恒一自身だけが、

そのことに、まだ気づいていなかった。


盤の中央に、

まだ意味はなかった。


だが、

意味が生まれる場所だけは、

もう、逃げ場を失っていた。

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