11話 同門公式戦 前編
盤の中央に、まだ意味はなかった。
駒は並び、盤面は整っているのに、そこには勝負の気配だけが欠けていた。
日向は駒箱に指をかけ、外し、また戻した。
その仕草に理由はない。待っているわけでも、迷っているわけでもない。ただ、指してしまえば何かが決まってしまう気がしていた。
向かい側で、一直線に背筋を伸ばしているのが、恒一だった。
目は盤を見ているが、盤を見ていない。
この男がそういう目をするとき、時間だけが静かに沈んでいく。
「始めていいですか」
立会人の声は、少しだけ早すぎた。
二人は同時にうなずいたが、どちらの首の動きにも、始まりの重さはなかった。
初手が指される。
ごく普通の一手だった。
観る者がいれば、定跡の入口だと説明しただろう。
次の一手も、同じだった。
盤は滑らかに形を作り、予定調和の線をなぞっていく。
――知っている将棋だ。
日向はそう思い、同時にそれを否定した。
知っているからこそ、指せない。
知っているからこそ、ここではない気がする。
恒一もまた、同じ場所に立っていた。
若いころなら、もう一段深く踏み込んでいる。
だが今は、踏み込まないことを選んでいる。
盤面に現れた形は、互いの過去を映していた。
研究会で、道場で、負けた局と勝った局が、区別なく重なっている。
「……静かですね」
誰かがそう言った。
その言葉が、この場で一番浮いていた。
時計の音だけが、均等に刻まれていく。
一秒ごとに、まだ始まっていないことだけが確認される。
日向は、ふと気づく。
自分が「勝ちたい」と思っていないことに。
正確には、勝ち負けを持ち込めていない。
評価値も、作戦も、すべて盤の外に置いたままだ。
恒一の指が動く。
だがそれは攻めではなく、拒まないための一手だった。
受けでも、誘いでもない。
ただ、そこに置くべき駒を置いただけ。
盤はさらに整い、余白が消えていく。
なのに、核心だけが遠ざかる。
解説席がざわつき始める。
「慎重ですね」「様子を見ていますね」
言葉はどれも正しいが、どれも届いていない。
二人は、同じことを感じていた。
――まだ、連れてきてしまっている。
自分の名前。
自分の段位。
これまでの勝敗。
期待と評価。
それらが、駒より重く盤に乗っている。
日向は一瞬、盤から目を離した。
恒一の指先を見る。
年齢の割に、震えはない。
だが、迷いもないわけではない。
恒一もまた、日向を見る。
若さはある。勢いもある。
それでも、今ここでは、どちらも同じ場所に立っている。
時間が進む。
局面は深くなる。
それでも、将棋はまだ名乗りを上げない。
この対局は、
まだ、始まっていなかった。
――それでも、
ここまで来た以上、
何も起こらないままでは、済まないことだけは
盤の上が、静かに知っていた。




