9話 崩すための速さ
佐伯道場の朝は、静かだった。
畳の上に盤を並べ、駒箱を開ける音だけが響く。
相川恒一と日向 湊は、向かい合って座っていた。
「今日は、考えなくていい」
佐伯が言う。
「指せ。速く」
日向が、すぐに駒を動かした。
――早い。
恒一は、わずかに瞬きをする。
定跡でもない。
だが、悪くない。
日向は、止まらない。
一手、二手、三手。
息をつく間もなく、局面が進む。
恒一は受ける。
形を崩さない。
だが、どこか――乗れない。
「止まれ」
佐伯の声。
日向は、そこで初めて長考に入った。
盤を見つめ、動かない。
さっきまでの速さが嘘のようだ。
時間が伸びる。
恒一の呼吸が、自然と整えられる。
――来る。
恒一は、そう思った。
日向は、ゆっくりと指した。
また、速くなる。
速い。
遅い。
速い。
その切り替えが、妙に効く。
恒一は、気づく。
自分の時間が、日向に触られている。
佐伯は、黙って見ていた。
評価も、指示もない。
一局が終わる。
勝ったのは、恒一だった。
だが、盤面はいつもと違う。
「……もう一局」
日向が言う。
今度も、速い。
そして、止まる。
単純だ。
だが、対策が立たない。
速さは読みを浅くさせ、
長考は、相手の集中を削る。
リズムが、壊れる。
恒一は、少しだけ時間を使った。
長考ではない。
確認だ。
――崩されている。
三局目。
日向が勝った。
初めての勝利だった。
日向の胸が、わずかに熱くなる。
だが、顔には出さない。
佐伯が言う。
「いい」
それだけだった。
日向は、初めて自分の将棋を肯定された気がした。
一方、恒一は盤を見ている。
負けた局面を、もう一度なぞる。
悔しさはない。
焦りもない。
ただ、記憶に沈める。
――寝かせよう。
日向の将棋は、鋭くなった。
だが、それ以上に、いやらしくなった。
佐伯は思う。
この二人は、同じ場所に立っている。
だが、見ている時間が違う。
恒一は、未来を待つ。
日向は、今を奪う。
道場の空気が、重くなる。
ここは、地獄だ。
だが――
将棋に必要なのは、
この静かな地獄なのだと、
佐伯は知っていた。




