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ひらめきで勝つ天才と、時間で指す棋士―同門公式戦を境に成長した日向と、静かにタイトルだけを見続けた恒一  作者: 夜明けの語り手
第一章 ライバル

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0話 ある日の前日

その日の対局が始まったとき、相川恒一はもう、この将棋に勝つつもりがなかった。


負けると決めていたわけではない。

ただ、この一局に「欲」を持っていなかった。


盤の上では、駒がいつも通りに並び、相手は落ち着いた顔で手を進めていく。


恒一が見ているのは、勝ち負けではない。


——この将棋は、自分の中に残るか。


午前十時。

会場は静かで、時計の音だけがやけに大きい。

恒一は急がない。

相手が迷う時間を、ただ待つ。

その沈黙の中で、相手の癖や、思考の重さだけを感じ取っていく。


中盤、相手が一歩前に出た。

その瞬間、嫌な感触が指先に残る。

このままいけば、少しずつ不利になる。

恒一には、それが分かっていた。


だからこそ、あえて深く考えなかった。


勝とうと思えば、別の手もあった。

安全に逃げることもできた。

だが、それらはどれも「今だけの正解」だった。


恒一は一手、形だけの応手を返す。

最善ではない。

けれど、この将棋を終わらせるには十分だった。


終盤、時間が減る。

相手の動きが速くなり、会場の空気がわずかにざわつく。

恒一は落ち着いたままだ。

焦りも、恐怖もない。


負けが近いことを、静かに受け入れている。


やがて、相手の一手で流れは決まった。

詰みではない。

まだ指せる。

それでも恒一は、そこで頭を下げた。


——この先を続ける意味は、もうない。


控室に戻っても、記録は見返さない。

ノートも開かない。

今日の将棋を、すぐに理解する必要はなかった。


将棋盤を片づけ、外に出る。

冷たい風が頬を打つ。


恒一は、負けた将棋をすぐには考えない。

一晩、あるいは何日も、何年も、

そのまま心の奥に沈めておく。


そして、忘れかけた頃に、ふと思い出す。


——あのとき、指すべきだった一手を。


相川恒一は、欲のない棋士だと言われている。

勝ちに執着せず、記録にも興味がない。

だが、それは違う。


彼には、たった一つだけ欲しいものがある。


将棋の頂点で、タイトルを取ること。


そのためなら、今日の一局など、いくらでも捨てられる。


この敗北は、終わりではない。

ただの材料だ。


——この将棋は、いずれ別の盤上で、別の形として現れる。


それを、恒一だけが知っている。

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