八話 異世界の味
俺はカウンター越しに、宿屋の主人へ声をかけた。
「すみません。ひとつお願いがあるんですが―― 食事を作りたいんです。料理をする場所を少し、お借りしてもいいでしょうか?」
主人は目を瞬かせ、あからさまにうろたえた顔をした。
「そ、そんな……! 貴方様は……どう見ても、貴族のお方ですよね……? どうして、そのようなことをなさる必要が……。 食事なら、こちらでご用意いたしますが……」
「うん。僕とギュスターの分は、ぜひお願いしたいんだ。」
俺は穏やかに笑って続けた。
「でも、グランさんは――たぶん、普通の食事はうまく取れないと思う。 だから、その人用のものを作るときだけ、手を貸してほしいんだ。」
「は、はぁ……」
主人は言葉を探すように口を開けたり閉じたりし、しばらくしてから、恐る恐る尋ねてきた。
「えっと……失礼を承知でお聞きしますが…… その……グランという方は……いったい何者なんですか?」
俺は、迷いなく短く答えた。
「知らない。」
「へ……?」
間の抜けた声が漏れる。
「えっと……“知らない”とは……?」
「そのまんまの意味だよ。知らない。」
俺は主人の目をまっすぐ見据えた。
「どこの誰かも、本当はわからない。 でも――あの人を、このまま放っておくわけにはいかないだろう?」
主人はぽかんと口を開けたまま、俺を見つめていた。 その表情には、理解と困惑が入り混じっている。
やがて、苦しげに視線を伏せ、小さく呟いた。
「その……とても言いづらいのですが…… あの方は……そんなに長くは、もたないかと……」
「そんなことは、とっくにわかってる。」
俺は即座に言い返す。
「だから、俺がここにいるんだよ。」
その一言に、主人の目が大きく揺れた。 まるで胸のどこかを強く叩かれたかのように、言葉を失っている。
「えっと……」 彼は喉を鳴らし、意を決したように顔を上げた。 「貴方様のお名前をうかがっても……?」
「リオン。」
俺は簡潔に名乗った。
「リオンだ。 家名なんてものは、もう無い。 だから、僕を“貴族”だと思わなくていい。」
「は、はぁ……なるほど……」
主人はまだ戸惑っているようだったが、それでも深く一礼した。
「……わかりました。 では、こちらが厨房になります。」
案内された扉をくぐると、そこには小さな調理場が広がっていた。
壁際には鍋やフライパンが整然と並び、梁には乾燥させた香草が束ねて吊るされている。
棚には見慣れない形の野菜や果物、肉の塊、香辛料の瓶がぎっしりと並んでいた。
俺は思わず息を呑んだ。
(……すごいな。 見たこともない食材ばかりだ。)
丸いのに片側だけ妙に尖った根菜。 細長くねじれている豆のようなもの。 そして、一際大きく、厚い皮に包まれた瓜のような実――
「ごめん。」
俺は主人に振り向く。
「これらの野菜について、ざっくりでいいから教えてもらえるかな? 使い方とか、どの部分を食べるのかとか。」
棚の一角にあった赤い皮の大きな実を指差す。
「とくに、これ。 どうやって切ればいいんだ?」
そのとき――厨房の奥から、エプロン姿の女性がひょこりと顔を出した。 主人の妻だろう。髪をざっくりと後ろでまとめ、手には布巾を持っている。
「あなた、どうかなされて――」
俺の姿を目にした瞬間、彼女の瞳に驚きと警戒が同時に浮かんだ。
「えっと……貴方様は……? お料理をなさったことは……?」
「あるよ。」
俺は頷く。
「ただ、ここにある食材については、わからないものだらけなんだ。 だから、少しだけ――料理しているところを見学させてもらえないかな?」
妻は一瞬だけ夫と視線を交わし、困ったように眉を寄せた。
「これらの食材は、庶民である私たちには見慣れたものばかりなのですが…… 貴族の方には、あまり馴染みがないでしょうね。」
それから、観念したようにため息をつき、柔らかく微笑んだ。
「……わかりました。 では、くれぐれも火傷なさらないように。 少し離れたところでご覧ください。」
「ありがとう!」
俺は邪魔にならない位置まで下がり、調理台の向かい側からじっと様子を見つめた。
妻は、さきほど俺が指さした大きな瓜のような実――彼女いわく「リュリ」と呼ばれる野菜を手に取る。 太い包丁を構え、手際よく縦に割ると、中から真っ赤な果肉が顔を出した。
(……カボチャ、みたいだな。)
そう思ったのも束の間、 中身はカボチャとはまるで違っていた。 種の周りの果肉は固く、鮮やかな赤――というより、暗い紅色に近い。 包丁を入れるたび、ざく、ざく、と鈍い音が響く。
妻は木のスプーンを使って種をくり抜き、そのあと果肉を大きめの角切りにしていく。 一片一片が拳より少し小さいくらいのサイズだ。
大鍋にたっぷりと水を張り、火にかける。 水がふつふつと泡立ち始めたところで、切り分けたリュリを鍋に落とした。
ぐつぐつ、ぐつぐつ――
やがて、赤い果肉からじわりと色が溶け出し、湯は薄く朱色を帯びていく。
そのあいだ、妻は別の野菜を取り出した。
細長く、淡い緑色の皮をした根菜。
それを迷いなく刻み、今度は平たい鉄のフライパンを火にかける。
油をひとまわし。 刻まれた野菜がフライパンに落ちると、じゅうっと心地よい音が響いた。
香ばしい匂いが、油の熱とともに立ち上る。 その上から、粉末状の香辛料を数種類、指先でつまんではぱらぱらと振りかけていく。
刺激的な香りと、野菜の甘みの混ざった匂いが、鼻腔をくすぐる。
(……うわ。うまそうだな、これ。)
俺は思わず唾を飲み込んでいた。
妻は塩加減を確かめるように何度か味見をし、 ちょうどいいところで火を弱める。 フライパンの中では、刻まれた野菜がしっとりと油をまとい、きらきらと光っていた。
鍋の中のリュリは、角の部分が少し崩れ、表面が柔らかくなっている。 竹串のような道具を刺した妻が、小さく頷いた。
「はい。これで、リュリの煮物と、野菜炒めがひとつ、ですね。」
彼女は満足げに笑みを浮かべた。
簡素だが、力のこもった家庭の料理――
その匂いだけで、胃の奥がきゅう、と鳴る。
(……これなら、グランさんにも何とか形を変えて食べてもらえるかもしれない。)
俺はそっと息を吐き、もう一度、煮えかけのリュリを見つめた。
異世界の味。
この世界の暮らし。
その一端に、ようやく触れられた気がした。




