三話 この体を知る。
遠くの方から、低く落ち着いた声が響いた。
「リオンお坊っちゃま――!!」
その声に驚いて振り向くと、
そこには立派な執事服を身にまとった年配の男性が立っていた。
彼は息を切らしながら、こちらへ駆け寄ってくる。
「……リオンお坊っちゃま?」
その名前に、俺は一瞬きょとんとした。
聞き慣れない――けれど、なぜか自分のことを呼ばれている気がして、
思わず緊張した声で答えてしまう。
「は、はいっ!!」
執事の男は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに優しく微笑み、言った。
「お坊っちゃま……ようやくお見つけしましたぞ。
一体どこへ行かれたのかと心配いたしました。」
俺は頭をかきながら、戸惑い気味に言葉を返した。
「え、えっと……ごめんなさい……その……じいや……ここはどこ?」
気づけば自然と、彼のことを“じいや”と呼んでいた。
その瞬間、執事――じいやの表情が一変した。
目を大きく見開き、感極まったように震える声で言う。
「お坊っちゃま……!
ついにこの老いぼれのことを“じいや”と呼んでくださるとは……
しかも謝罪まで……!」
なぜか感動して涙ぐむじいや。
俺は戸惑いながらもう一度尋ねた。
「それで……ここはどこなの?」
じいやは優しく微笑み、静かに答えた。
「ここはデアハート家の裏手にある花園です。
カルネ様が心を込めて手入れされている大切な場所でございます。
このままでは叱られてしまいますぞ。さあ、戻りましょう。」
俺の内心は焦っていた。
――やばい。さっき、そこの茂みで小便したんだが……!
カルネという名前を聞き、すぐに悟る。
おそらくこの体の持ち主――リオンの母か姉にあたる人物だ、と。
「じ、じいや……わかった。僕を……屋敷まで連れてってくれる?」
じいやは目頭を押さえながら、深くうなずいた。
「はいっ!もちろんでございますとも! さあ、参りましょう!」
そうして俺は、広大な花園をじいやに案内されながら歩いた。
花々が風に揺れ、やがて視界の先に見えてきたのは――
信じられないほど立派な屋敷だった。
「……ど、どんだけ広いんだよ、ここ……」
思わず心の中でツッコミを入れる。
そして理解した。
――俺は今、
この世界で“とんでもない大富豪の息子”として生きているのだと。屋敷に足を踏み入れた瞬間、
俺は空気の異様さに気づいた。
――これは、歓迎されていない。
むしろ、冷たい。
使用人たちの視線の一つひとつが突き刺さる。
それはこの家の子どもに向けるものではなかった。
そこにあったのは、敬意でも恐れでもなく――
ただの無関心と、軽蔑だった。
だが、じいやだけは違った。
彼は静かに俺の隣に立ち、優しく言った。
「お坊っちゃま、気にされることはありません。
私がそばにおりますので。」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
気づけば、俺はじいやの手をぎゅっと握っていた。
その手の震えを感じ取ったのか、
じいやの表情が一瞬で引き締まる。
「お前たち!! リオン様がお戻りになられたのだ!!
何をしている!!」
その一声で、
使用人たちは慌てて動き出した。
俺は驚いてじいやを見つめた。
「……この人、すげぇ……」
心から尊敬のまなざしを向けていた。
じいやは満足そうに微笑み、俺の手を握り返す。
「では、リオン様。
こちらのお部屋でお待ちください。
お食事の準備が整い次第、お迎えに上がります。」
「あ……ありがとうございます!! じいや!!」
俺がそう言うと、
じいやは今日一番、驚いた顔をした。
それもそのはずだ。
普段のリオンは、誰かに礼など言わない。
丁寧な言葉を使うことなど、一度もなかった。
じいやは理解した。
――お坊っちゃまはいつも強がって、
虚勢を張っていたのだと。
そうして彼は深くお辞儀をして、静かに部屋を出た。
去り際、小さく呟いた。
「……なんと、おいたわしい……」
その背中を見送りながら、
俺はただただ、じいやの完璧な所作に見惚れていた。
「すごいなぁ……
実物の執事って、あんな感じなんだ……」
好奇心のほうが勝って、胸が少し高鳴った。
部屋の中を見回すと、
金持ちの家にしてはあまりにも質素だった。
ベッドがひとつ、クローゼットがひとつ、
そして小さな机がひとつ。
「……なんか、使用人の部屋みたいだな……」
そう思ったが、そのときの俺は深く考えなかった。
――この家で自分が、
どんな扱いを受けているのかを、
まだまったく理解していなかったのだ。そのときだった。
廊下の向こうから、小さな足音が駆けてくる。
そして――コンコン、と扉が叩かれた。
「リオン!!いるの!?」
思わず俺は体をこわばらせ、反射的に敬語で返してしまった。
「は、はい!います!」
すると、返事を待つこともなくドアが勢いよく開いた。
そこに立っていたのは、自分よりも少し年下の少女だった。
明るい栗色の髪を揺らし、腕を組みながら眉を吊り上げている。
「リオン!!またみんなを困らせたでしょ!!
どこ行ってたの!?」
その声には、あきれと怒りが混ざっていた。
「レオンお兄様も、ニルネお姉様もがんばってるのに!
ほんとにリオンはどうしようもないんだから!!」
その言葉で、俺は悟った。
――この子は、リオンの妹だ。
俺は素直に頭を下げた。
「ご、ごめん……」
すると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。
「へぇ〜! ちゃんと謝れるんだ!
ちょっとだけ見直してあげる! で? どこ行ってたの?」
「え、えっと……カルネの庭に……」
その瞬間、妹はくすっと笑い、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「いっけないんだぁ〜!!
お母様にも、お兄様にも言いつけてやるんだから!!」
楽しそうに笑うその姿は無邪気で、でもどこか残酷だった。
「わかった。ちゃんと謝るよ。」
俺がまじめにそう言うと、
妹は鼻で笑い、冷たい言葉を放った。
「許してもらえると思ってるの!?
デアハート家の恥さらしのリオンが?」
そして、俺を馬鹿にするように大笑いした。
「今度こそ本当に追い出されちゃうかもね! アハハハ!!」
そう言いながら、彼女は笑い声を響かせたまま走り去っていった。
部屋にひとり残された俺は、
胸の奥が冷たく締めつけられるようだった。
――まだ何もしていないのに。
どうしてこんなにも見下され、笑われなければならないんだ……。
その瞬間、ようやく理解した。
この家で“リオン”という少年が、
どんな扱いを受けてきたのかを。
そして俺は、静かに呟いた。
「リオン……
僕が――君を……
立派にしてみせるから」




