9 壇ノ浦前夜
お読みいただきありがとうございます。
今回は屋島の戦いの場面から始まります。
どうぞお楽しみください。
朋人は、コンピュータの画面で、有盛の恋が成就する瞬間を見た。
有盛は朋人の「推し」で、ずっとその恋を応援していた。その願いが叶ったはずなのに、なにか、ひっかかるものがある。違和感……というよりは、なにかを忘れている、そんな感覚だった。
* * *
年が明けても、知盛は屋島に帰ってこなかった。有盛も同様に児島に留まっている。
一月十日、ついに義経が京都を進発。それを受けて、屋島ではふたたび軍議が開かれていた。
「源氏の軍は、海を渡って近くの浦々に上陸すると思われる。ゆえに、讃岐、阿波の北部あたりに、五十騎から、百騎ずつ配置すればよいと考えるが……」
宗盛が言った。月子が言わなければならないことは、ただ一つ。
「義経は、一ノ谷の時のように奇襲に出るかもしれません。どうか、陸からの奇襲にも備えて下さい」
「陸から? いったいどこから来るというのだ?」
「阿波方面に上陸し、屋島の背後から」
それを阻止するのは難しいが、ある程度予測できていれば、なんとかなるかもしれない。そして、なんとかできなければ、勝機はないと考えていた。
「何をばかな……」
そう言って笑ったのは、教経だった。
「義経は渡辺津にいるのだろう? それを何故わざわざ阿波まで廻る必要があるのだ。阿波を廻り陸路を来たら、どんなに急いでも五日はかかる。そんな困難な道を通らずとも、播磨灘から屋島に向かう方が理に適う」
教経の言うとおり、義経の軍艦・梶原景時の率いる本隊は、その海路でやってくる。しかし、景時が到着したとき、平氏はすでにそこにはいない。
義経の奇襲によって屋島を追われているからだ。……月子の知っている歴史では。
「本隊は確かに、そう攻めてくるでしょう。しかし、義経の搦手軍は……」
教経は、みなまで言わせなかった。
「仮に陸路を来ても、本隊より早く着くはずがない。しかも、小数……何もおそれることはない! 戦のことなど何もわからぬ、女が口出しすることではない!」
教経は怒鳴った。教経は「毘沙門の遣い」を信じていない数少ない武将だった。そして、周りの者は、「毘沙門天の遣い」と「能登守教経」を秤にかけて、後者を採った。
知盛か、あるいはせめて有盛でもいてくれれば、意見を言うことができたかもしれない。だが、宗盛や教経に逆らってまで、月子をかばってくれる者はいない。月子の意見は聞き入れられないまま、軍議は終わってしまった。
そして、平氏は義経に不意をつかれた――歴史通りに。
背後からの不意の攻撃に狼狽するだけの平氏軍。月子は、義経軍の数が少ないことを知っている。なぜなら、自軍の少なさに気づかれないため、義経は火を放ったのだから。
けれど――。
月子が声の限りに踏みとどまるよう叫んでも、浮足だった平氏の武士たちの耳には届かなかった。
やがて、海上に逃げた平氏軍と陸の源氏軍との戦いが始まる。
その頃、月子は、安徳天皇や建礼門院の乗る御座船の中にいた。
「月子、どこへ?」
船底を出ていこうとすると、母・領子が声をかけた。
「様子を見てきます」
「危ない」と止める母の言葉を背に、甲板に上がった。そこには、教経を始め何人かの武士がいた。対岸の屋島には、黒煙が上がっていた。ほんの数刻前まで平氏が住んでいた屋島内裏は、炎に包まれていた。
「おまえは未来が見えるのか?」
声をかけたのは、教経だった。
「いいえ」
炎を見つめながら答える。
「では、何故義経の急襲を、あれほどまでに正確に予見した?」
「そういうこともあり得る……と思っただけです」
「腹立たしく思っているのであろう。おまえの意見を聞き入れなかった我々を」
腹立たしいとは思わない。ただ、自分の非力が情けないだけだ。
「義経は、どこに?」
「あれだ。黒い馬の……」
炎を背に義経はいた。黒い馬にまたがるその姿は、史料通り小柄だった。赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧。金の鍬形を打った兜の下には、色白で細面の顔。
会いたかったのは義経だった。月子は、彼に会うために、危険を冒してここまで来た。それなのに、心は少しも弾まない。会えた! という感激もない。
彼は、もう、月子が生身の男性以上に恋い焦がれていた『源義経』ではなかった。
彼は、月子が所属する平氏一門にとっての『敵』――歴史との戦いを邪魔する最大の『障害』になってしまっていた。
そのことを少し残念に思う。彼に会うためにここまで来たのに、少しも感激できない自分に。歴史学者としての興味が完全に消えたわけではない。だが、限りなく恋心に近かったはずの憧れは、残っていなかった。
「なかなか、いい男だろう?」
教経が皮肉っぽく言った。
「有盛さまの方が、お美しいです」
今の自分は、平有盛の恋人。彼と同じだけの恋心は返せないが、せめて誠実ではありたい。
教経は大声で笑った。
「なるほど……うわさを聞いたときはまさかと思ったが……有盛の思いはかなったというわけか。はたで見ていても、哀れなくらい月子を恋い慕っていた」
それには答えずに言う。
「やはり、あまり兵の数は多くはありませんね」
「ああ。その通りだ。月子、見ていろよ。おまえの意見を聞かなかったのは、この教経の手落ち。その借りを返してこよう」
そう言うと、教経は月子の返事も待たずに走り去っていった。
間もなく、教経とその郎等を乗せた小舟が、対岸に向かって漕ぎ出していった。その手には、五人張りの強弓。まっすぐに義経をめざし、弓を引きしぼる。
矢が教経の手を離れた瞬間、義経の前にひとりの武士が立ちはだかった。思わず目をつぶってしまう。矢は、義経の郎等、佐藤三郎継信の喉を射抜いているだろう。
船底に戻った月子を支配していたのは、虚しさとも悲しさともつかない気持ち。
史実通りに進んでいる現実は月子に重くのしかかり、船底で待っていた母に
「どうでした、戦の様子は?」
と訊かれても答える気力は残っていなかった。
日がようやく西に傾いたところで、しばし休戦になった。
海に落ちる夕日を見つめながら、月子は唇をかみしめた。少し前に、那須与一が扇の的を射ぬいたばかりだった。歴史は、音を立てて流れていく。
その夜、御座船の中で急遽、軍議が開かれた。
「夜討ちをいたしましょう! 月子の……『毘沙門天の遣い』の言葉通り、義経軍の数は少ない。こちらが総攻撃をかければ、勝てない相手ではない!」
教経は、目を血走らせて叫んだ。
このときばかりは、月子も教経に賛成をした。明日になれば、源氏に味方する在地武士はますます増える。やがて、梶原景時率いる源氏の本軍が屋島に到着する。屋島の戦いで勝利をおさめようとするならば、今夜、夜襲をかけるしかない。
ためらいを見せたのは宗盛だった。
「我々の軍勢の半分は長門彦島にある。ここで全滅してしまえば、長門の者たちはどうなるのだ? それよりも、いったん長門に退き、そこで全勢力をあげて戦った方が……」
「彦島近くには、範頼軍がいます。我々が長門の軍と合流するということは、義経の軍も範頼軍と合流するということです。今、ここで義経を倒しておけば、長門での戦も、有利になるのです」
義経を倒すこと……それしか、平氏に勝機はない。二十一世紀を生きていた頃、あんなにも憧れていた「源義経」を、月子は闇に葬り去ろうとしている。彼の唯一の存在価値である、屋島、壇ノ浦での勝利さえ、彼から奪おうとしている。
けれども、それもまた、義経のためになるかもしれない……そんな言い訳を自分にする。必ずしも、夜襲で義経が死ぬとは限らない。あまりにも鮮やかだった屋島、壇ノ浦の勝利がなければ、名将としての名は残せなくても、命は長らえるかもしれない。
それが、平氏のためであり、義経のためにもなるのだ、と。
宗盛はうなずかなかった。
「主上(安徳天皇)が、長門におわすのならば、我々が決死の覚悟で戦ってもよい。しかし、ここで全滅すれば、主上も、三種神器も源氏の手に落ちる」
宗盛の意見は、一見理があるように見える。だが、それは彼の憶病な心から出たものにほかならない。そう考えているのは、月子ひとりではないはずだ。しかし、月子に味方をする者は現れない。おおかたの者は、屋島内裏を焼かれたことにより戦意を失ってしまったのだろう。しびれを切らした教経が、
「私は行く! 従う者はついてこい!」
と、叫んでも、従う者は誰ひとりいなかった。
翌日は、両軍とも海をはさんで対峙したまま動かなかった。
平氏は義経に倣って、背後からの急襲を計画したが…。屋島奪還作戦は、失敗に終わってしまう。平氏の味方であった阿波教能が源氏に寝返り、平氏は海上に逃げ去らねばならなかった。
梶原景時が三十艘の兵船を率いて屋島に姿を現した時、平氏は屋島奪還をあきらめ、長門彦島へ移動した。
このことにより、瀬戸内海の制海権は源氏のものとなった。そう歴史書には書いてあったし、事実そうであった。
戦わずして逃げ帰った宗盛たちを、彦島の知盛は静かに受け入れた。彼は、昨年の秋にこの地に来てからというもの忙しく動きまわり、それなりの成果を上げていた。
そんな知盛から見れば、屋島での戦はふがいないの一言につきるだろう。だが、知盛は宗盛に対して何も言わなかった。ただ、月子には、
「大変だったな。これからは、私がついているから」
とだけ言った。軍議で、月子の意見を応援してくれる者がひとりもいなかったことを、誰かから聞いたに違いなかった。
一方、有盛は月子の前に姿を現さなかった。たまに見かけても、すぐに姿を消してしまう。三か月の間に、心変わりをしてしまったのだろうかという不安が月子の胸をふさぐ。
一人でくよくよしているのは、性に合わない。失恋するならするで、はっきりさせた方がいい。有盛の姿を見つけ、逃げる隙を与えずに声をかける。もう逃げられないと悟ったのだろう。有盛は、立ち止まった。うつむき、次の言葉を待っている。
「何故、私を避けるのですか?」
有盛は、うつむいたまま返事をした。
「備前児島でも、結局負けてしまいましたから」
「そんなことを、気になさっていらしたのですか?」
安心したのと同時に有盛の気持ちがわかった気がした。また面目を失ったと考えているのだろう。
「それだけではありません。屋島の戦い以来、教経どのでさえ月子どのに一目置くようになっている。私などには、月子どのは……」
有盛の顔をのぞき込むようにして尋ねる。
「私のことが、もうお嫌いになりましたか?」
有盛は強くかぶりを振った。
「この彦島に来てからというもの、何度月子どのの夢を見たか…」
「有盛さま、『夢』などと、さびしいことをおっしゃらないで…」
有盛には、月子の言っていることがわからなかったらしい。
「血の通った私が、今、ここにおりますのに。」
その言葉の意味が分かった瞬間、有盛は月子を抱きしめていた。
* * *
「よかった…」
画面の向こうの月子と有盛を見て、朋人はつぶやいた。
朋人は願っていた。月子と有盛の恋が一日でも長く続くことを。ここに来て、「歴史」は、月子が戦っている「敵」のように思えていた。
歴史はふたりの恋のパワーを利用するつもりだろうが――。そうであろうとなかろうと、朋人には、ふたりの恋はとても美しく、尊いものに見えたから。
* * *
屋島の戦いの後、平氏、源氏ともに、来るべき決戦に挑むべく準備を進めていた。
次の戦いが最後の決戦になる。誰もがそう感じていた。
一か月ほどが過ぎたころ、月子は知盛に呼び止められた。
「明日はおそらく、最後の軍議となるだろう。よろしく頼む。月子なら、よい案があるだろう?」
「私など……」
「どうした? 月子らしくもない。屋島の戦い以来、教経でさえ、月子には一目置いている。今では、平氏全体が、月子を『毘沙門天の遣い』とあがめているのだ」
それは、月子も知っていた。だからこそ、この一月というもの、何とか壇ノ浦の戦で勝てる方法はないかと考え抜いてきた。
けれど、どうしても答えは出ない。
壇ノ浦の戦で源氏が勝利した理由には、いくつもの説があった。
昔から言われてきた潮流説。瀬戸内海の潮の流れの変化が平氏の不利に働いたというもの。だが、近年の解析では、潮流は戦に影響を与えるほどではなかったと考えられている。 仮に潮流説が正しかったとしても、相手が自然では手のほどこしようがない。
次に、義経が当時の戦のルールを破って、非戦闘員である漕ぎ手めがけて矢を射たためという説。できれば、漕ぎ手の命も守ってあげたいけれど、どうしようもない。舟を改造する技術も、漕ぎ手のために鎧をそろえる財力も、今の平氏にはないのだから。
一番有力な説は、水軍の裏切り。平氏の舟は、すべて平氏一門というわけではない。寄せ集めの水軍は、いわば、雇われの海賊のようなもの。戦況が悪くなれば離れていくのは当然で、それを責めることはできない。
つまり、平氏にはもう策はない。一ノ谷も屋島も、義経の奇襲だった。だが、壇ノ浦の戦は違う。正攻法による戦にもかかわらず、源氏は勝った。それは、平氏の力がもう尽きようとしている、残酷な現実――理性ではわかっているけれど、目の前に突きつけられると、その怖ろしさに震えがくる。
夕暮れの空を見上げる。胸が痛い。息が苦しい。
歴史を知っている学者であるはずなのに、なにひとつ打開策が思いつかない。
そんな月子の苦悩の表情を、知盛は読み取ってしまったらしい。
「……さすがの月子も、もう打つ手はないか……」
「そんなことはありません! そんなことにしてはいけないのです! 何とかしなければ」
その言葉が虚しく宙に浮いているのが、知盛に分からないはずがない。
「気持ちはうれしいが、人間にはさけられない運命というものがあるのかもしれない」
静かで、まっすぐな声だった。
「まだ、あきらめたわけではない。皆のために、まだ幼い帝のために、私はできる限りのことはする。それでもだめなら――」
その言葉は、月子の胸の最奥に届いた。
知盛という人間の大きさ。
そして、自分の小ささを。
なまじ歴史を知っているから、あがいている。運命に逆らい、無駄な抵抗を繰り返す。
歴史など知らないはずの知盛が、すでに未来を見据え、受け止めようとしているのに。
――その静かな強さで。
真剣だった知盛の表情が、ふっと笑顔に変わる。知盛はいたずらっぽい目をして言った。
「さて、もう行くことにしよう。さっきから、有盛がこっちをにらんでいるから」
振り返ろうとする月子を、知盛が止めた。
「見ない方がいい。嫉妬に狂った表情など、恋しい人には見られたくないだろう」
頬が朱に染まっていくのは止められなかった。
「しかし、女とは大したものなのかもしれない。あの、不安定だった有盛が、最近では自信に満ちて落ちついている。これも、月子のおかげだろう」
知盛はそう言うと、返事を待たずに去っていった。ただ、有盛の前で立ち止まり、何かをささやいているのは見えた。
その夜、月子は有盛に尋ねた。
「昼間、知盛さまは何と言っていたのです?」
有盛は微笑んだ。
「私をからかわれたのですよ。『毘沙門天の遣い』を、少しだけ借りた。あまり独り占めしていると、皆から恨まれるぞ……と」
「私は『毘沙門天の遣い』なんかではありません」
「私にとっては、その方がいいかもしれません。あなたを独り占めできるから……」
そう言うと、有盛は月子を抱きしめた。温かさに包まれ、辛かった心がほぐれているのを感じる。この温もりがあと少しで失われてしまうことを、月子は知っているけれど……。
それでも、今はただ、有盛の優しさに包まれていたかった。
そして、月子は決心した。自分にでも出来る、ただ一つのこと。壇ノ浦の戦で、有盛は死ぬだろう。だが、有盛一人を死なせはしない。
有盛の不安と、月子の迷い。
歴史の大きな流れの中では小さく見えるかもしれませんが、
ふたりにとっては、かけがえのない時間です。
この想いが、どこまで運命に抗えるのか――次回も見守っていただけるとうれしいです。




