8 揺れる心
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静かな時間が少しずつ動き出します。
しばし、源平の世をご一緒いただければ幸いです。
「もう半年になるのね、月子が、向こうに行ってしまってから…」
画面の日付を見て、朋人がつぶやく。月子が向こうの世界に行ってすぐの頃は、睡眠もろくに取らずに画面に釘付けだった朋人だったが、さすがに半年も経つと、そこまでの熱心さはなくなっていた。
朋人も大学の職員なのだから、仕事には行かなければならない。仕事から帰ればすぐに地下室に降り、月子の体調をチェックし、その日一日録画してあった映像にひととおり目を通す。
「大丈夫よ、月子。あなたの体調管理はちゃんとしてあげるから、気がすむまで、平安の時代で生きなさい」
朋人は、微笑むように眠っている月子に、話しかける。そして、コンピュータの画面に目をやる。そこでは、「平月子」が、軍議の席で平氏の武将たち相手に、必死に語りかけていた。最近、月子は一部の武将たちから、密かに「毘沙門天の遣い」と、呼ばれている。これは、意図的に流された噂だった。流したのは、平知盛。知盛は、月子の不思議な力をいち早く察した。そして、その月子の言葉に説得力を持たせるために、「月子は『毘沙門天の遣い』だ」という噂を流した。
おかげで、以前より、軍議の席で話しやすくなったと、月子は喜んでいたが、朋人は気に入らなかった。知盛は、月子に不思議な力――予知能力と考えているのだろう――があるとわかっている。そして、その力を利用しようとしている。
彼は平氏のことを考えてそうしているのだろう。ただ、それだけとは思えなかった。月子の戦術は、彼らにとっては思いも寄らない大胆なもの。失敗するリスクも大きい。万が一失敗したとき、すべての責任を月子に押しつけ、平氏内の自分の地位は守ろうとしているのではないだろうか? つまり、月子はスケープゴートにされる可能性がある――朋人はそう思っている。
「男って、ずるいからねぇ……」
一方、有盛は、平氏内での立場の悪さに苦しみ悩みながらも、一途に月子を思っている。片恋だとわかっていながら、心が通じ合える日を信じて、必死に恋している。
「ワタシは、断然、有盛クン推しよ」
駆け引きも打算もない一途な恋……。そんな有盛の恋を、朋人は、コンピュータの画面越しに応援していた。
「月子……有盛クンの気持ちをわかってあげてね」
聞こえていないのよね……と思いつつも、朋人は、月子の耳元に囁いていた。
* * *
二月の末、後白河法皇は平氏に和平を申し出るが、この和平は成立しなかった。
三月には、義経軍が屋島を襲うという噂が流れた。しかし、義経は京都を動かなかった。
源氏が攻めてこないまま、季節は夏になっていた。軍議の席で、月子は言った。
「年が明けなければ、源氏は攻めてはきません」
確信をもって言う月子に、宗盛は食ってかかるように言った。
「何故そんなことが分かる? 明日にも京都を出発するかもしれないではないか!」
「源氏は、今水軍を集めているはずです。我々の水軍を上回るだけの数を集めるためには、それなりの時間が必要なはず……それがおそらく、年明けだと……」
すると、知盛が言った。
「月子には、不思議な力が宿っているようです。月子に言うことを聞いていれば、まず間違いがない」
「知盛どのともあろうものが、そんなことを言うとは」
軽蔑したように言ったのは、教経だった。
「確かに、いくつか月子どのが予言のように言ったことでその通りになったことはあるが、それは偶然に過ぎない。それをさも神託のように受け取るのは、危険きわまりない」
「そんなことはありません。月子どのの言うことは、確かです」
そう言ったのは、有盛だった。
「戦いもせず、三草山から逃げ帰った者が、何を言うか」
教経に言われ、有盛は唇をかんだ。月子が抗議の言葉を口にする前に、知盛が言った。
「戦いもせずに逃げ出したのは、何も有盛だけではない」
宗盛の頬がさっと赤くなった。真っ先に逃げたのは、頭領である彼なのだ。
「過ぎてしまったことをあれこれ言ってみても始まらない」
知盛は続けた。
「月子は、どうすればいいと思っている? おまえの考えを述べてくれないか」
居住まいを正し、言葉を選びながら言う。
「源氏が、攻めてこないのは、彼らが水軍を持っていないからです。一ノ谷で、彼らが勝利をしたのは騎馬戦だったからです。騎馬戦は源氏のほうが上かもしれません。けれど、海戦は平氏のもの。『海の平氏』を取り戻せば、必ず平氏の勝利となります!」
月子はそれを、できるだけ力強く、そして、神託めいて聞こえるように言った。
すると、月子に対して否定的だった教経さえ、かすかにうなずいたのが見て取れた。
「具体的には?」
知盛がうながした。
「源氏は今、水軍を編成しているのでしょう。少しでも多くの水軍を、我々の味方に引き入れなければなりません。特に、熊野水軍を」
「熊野水軍?」
「はい。熊野水軍は、最強最大……彼らが源氏についたら、勝ち目はありません」
「その心配はないだろう」
宗盛が口をはさんだ。
「平治の乱より、熊野水軍は我ら平氏の味方だ。熊野別当湛増は、一ノ谷の戦で亡くなられた忠度どのの妻の兄。現に、以仁王の乱の時も…」
月子は、宗盛の言葉を遮った。
「安心はできません!」
平氏が滅亡する壇ノ浦の戦では、熊野水軍は源氏方につくのだから。
「まあ、とりあえず、使者を送っておくにこしたことはあるまい」
知盛は言ったが、彼にしても熊野水軍が裏切るとは思っていない様子だった。しかし、あまりにひとつのことに拘泥して、知盛や宗盛と気まずくなるのは得策ではない。
熊野水軍が源氏につくのは壇ノ浦の戦の時なのだから、まだ時間的余裕はあるだろう。
「知盛さまは長門に向かって、門司の関を押さえて下さい。それから、備前にもどなたか出向いて、児島あたりに城郭を。長門、備前、屋島、この三カ所を押さえれば、制海権は我々平氏のもの」
「大した策士だ。知盛どのが一目置くだけのことはあるのか」
そう言ったのは、教経だった。教経が認めたことによって、宗盛も月子の言葉に従わないわけにはいかなくなった。
この軍議のあと間もなく知盛は長門に発ち、備前児島には行盛が派遣された。
知盛が出発する前日、月子は言った。
「年が明ける頃には、この屋島にお戻り下さい」
「何故?」
知盛は訊いたが、月子は答えなかった。
「源氏が攻めてくるのは年が明けてから……確か、そう言っていたな」
知盛はひとり言のように言った。
「わかった。年が明けたら、屋島に戻ってくる」
屋島の戦いの時、知盛は長門の国にいて参加していない。知盛さえいれば、勝てたかもしれないという説もある。だから、戻ってきて欲しいと言ったのだが…。
源範頼の軍が鎌倉を発ったとの知らせが届いたのは、八月の末のことだった。
範頼軍は、山陽道を西下し、安芸から周防、長門へと進軍してきた。だが、途中教経率いる平氏の軍にさえぎられ、長門に着いたのは十一月のこと。
長門彦島には、知盛が城郭を築いていた。範頼は九州に渡ることもできず、また、兵糧の補給もできずに完全に立ち往生しているとの知らせが、月子の元に届いていた。
これは、月子が知っている流れのままだった……今のところは。
そんな、ある夜――。
「月子どの……月子どの」
くぐもった声が、月子を起こした。
「有盛さま……こんな夜更けに……いったい」
月子は三草山に有盛が出陣する前夜のことを思い出していた。突然、心臓がビクンとなる。有盛の唇を――強引に月子の唇を奪っていった――を思い出したのだ。
「明日、備前へ発つことになりました」
「備前? 児島ですか?」
声の震えはなんとか隠せた。備前児島には、有盛のいとこである行盛が城郭を築いていた。そこを奪回するために、源氏の軍が派遣されるという知らせが今日入っていた。
たしか藤戸合戦と呼ばれている戦で、源氏が勝利する。小競り合いといった程度の戦で、勝敗は、平氏の興亡に深く関わると言うほどのことではない。
とはいえ、負けは負けだ。有盛は、また負け戦を経験しなければならないのだろうか。そう考えると、胸が痛む。
「どう戦えばよいか、教えて下さい」
有盛は唐突に言った。
「どうと言われても……」
「三草山の時には、教えて下さったではありませんか。あのとき、月子どののおっしゃった通りにしていれば、一ノ谷の戦に負けずにすんだかもしれない。それなのに、私はそうしなかった。同じ過ちは繰り返しません。どうか、お教え下さい」
三草山ほど有名な戦でない藤戸合戦については、詳しい史料がない。どんな戦だったかも分からないのだ。ましてや、勝つ方法など……。
けれども、有盛は、すがるような目で月子を見ている。見捨てるわけにはいかない。
「おそらく、源氏軍は数ではこちらを勝るはず。あまり深追いせずに、不利になったらなるべく早く海上へお逃げ下さい」
しかし、「逃げる」という言葉は、有盛にとっては心の傷を抉るものだったらしい。たちまち瞳の色が曇る。けれども、取り消したりしたら、ますます事態を悪くする。月子は、有盛の目の曇りを見ないふりで続けた。
「児島の城郭は確かに大切ですが、陸戦で兵を失って困るのは、我々の方です。いたずらに兵の数を減らせば、きたる決戦で不利になるばかり。相手の数が勝っていたら、すぐにでも船にお戻り下さい」
「船で、どこへ?」
急いで考えをめぐらせる。今は十二月。年が明ければ、範頼は豊後に渡ってしまう。児島は守れないにしても、何とかそれを阻止できないものだろうか?
「長門彦島へ。知盛さまのお力になってさしあげて下さい」
有盛の表情は、ますます暗くなる。
「月子どのは、それほどまでに知盛どのがご心配か?」
その言葉で、表情の翳りの理由が嫉妬であることに気づく。確かに知盛と頻繁に話していたが、それは、彼が実質の平氏の大将であったから。そして、今、合流を頼んだのは、純粋に、長門彦島を守りたかっただけだ。誤解は解いておかなくてはならない。嫉妬の感情は有盛にとって益にはならないし、平氏内での内輪もめなど、論外だ。
「心配なのは知盛さまではなくて、長門彦島の陣地です」
「月子どの」
名前を呼ばれると同時に、抱きしめられた。唐突ではあったが、乱暴な動きではなかった。そして、有盛の腕の暖かさを、月子は経験済みだった。
「月子どの……」
囁きが耳に吹き込まれる。それさえも暖かく、安心感を抱かせた。有盛の愛が、素直に月子の心に染みてくる。このまま、暖かさに身をゆだねてしまいたくなるが……それでいいのだろうか? 有盛は、心から月子を愛してくれている。けれど、月子自身はそうではない。不安な気持ちを落ち着かせる、暖かい毛布を求めているようなものだ。同じ熱をもてないのに、愛を受け入れるのは不誠実ではないのだろうか?
それに、有盛は、まだ若い。ここで自分に拒絶されれば傷つきはするだろうが、それでも、傷ついた心は時が癒やしてくれる。もう少し大人になり、その時、本当の相手と巡り逢い、真実の恋を……。そこまで考えて、月子は自分の愚かさに気づいた。有盛にそんな時間はない――今のままでは。歴史を変えることができなければ、あと三か月あまりで平氏は滅びてしまう。有盛も壇の浦で入水するはずだ。もう、他の女性に恋する時間はない。
月子を抱きしめながら、有盛が震える声で言った。
「不安で仕方ないのです。今度は、明日の戦は、勇ましく戦えるだろうかと……この前のように、逃げ出したりせずにすむだろうかと」
月子の胸に、感じていた安心感とは別の感情が沸き上がってきていた。悲しみとも、同情ともとれない、なにか……。それでいて、温かさと安心感は消えない。
この、二十歳に満たない若者は自分の力以上の任務を負わされ、兄の失敗をも自分の責任のように感じ、それでもなお戦おうとしている。
「命を大切にすることは、決して恥ずかしいことではありません。もし、仮にまた有盛さまが逃げ出しても、それで生き延びることができるのなら……私はきっと、それをうれしく思うはずです」
有盛は不意に月子をはなした。そして、切羽詰まった表情で訴えた。
「教えてください!」
有盛は早口で言った。
「私は、どうなるのですか? 今度の戦で死ぬのですか? それとも?」
「……そんなこと、私には」
わかりませんと言おうとした言葉を言わせずに、有盛は言った。
「月子どのには、分かるはずです。みんなが言っています。月子どのには未来が見える。月子どのには、不思議な力が宿っている。月子どのは、平氏を勝利に導く『毘沙門天の遣い』だと……」
そんな噂が広まっていることは知っていた。知盛が意識的に流していることも。
「それを、有盛さまは信じていらっしゃるのですか?」
「信じています! 私だけではありません。皆が信じているからこそ、軍議に、月子どのが出られることを、誰一人反対しないのです」
その通りだった。いや、軍議での発言をしやすくなるために、噂を否定しないでいたのも事実だ。『女のくせに、何を』といった言葉も聞かれなくなって、ずいぶん楽になった、などと喜んでいたのだが……。
「教えてください。私の……小松少将平有盛の運命を!」
有盛の必死な瞳を見て、月子はその振る舞いは間違っていたかもしれないと気づいた。
平氏を守るためなら「毘沙門天の遣い」を演じてみせることも必要なのかもしれないが、未来を教えることは出来ない。
歴史通りなら、あと三か月で平氏は滅びてしまうけれど、それを変えようとしているのだから。結局、月子自身も、他の者たちと変わらない。明日がどうなるか、壇ノ浦の戦がどうなるか……なにひとつ見通せない。
「有盛さま……私には、未来を読む力などありません。私には、不思議な力などありません。有盛さまと同じように、一日先……いいえ、一刻先のことさえ分かりません」
それを聞いて、有盛の表情は突然和らいだ。
「がっかりしましたか?」
有盛は、首を横に振った。
「安心しました。何だか、月子どのが遠くへ行ってしまったような気がしていたのです。今までも、決して近い人ではありませんでしたが。手のとどかない、遠い存在になってしまったと、感じていたのです」
「……私は、ただの女です」
月子を抱く有盛の力が強まる。再び、温かさに包まれる。だが、ぬるま湯のようだったそれが、不意に熱いものに変わっていく。その意味に気づかないほど、月子は子どもではなかった。これ以上は……やめた方がいい。できるだけさりげなく有盛の腕から逃れようとする。けれども、有盛は、ますます、熱く月子を抱きしめる。耳元に囁きながら――。
「だめですか? 私では、だめですか?」
月子の心が、わずかに揺れる。この……おそらく、若くして死ぬであろう有盛に、自分は何をしてやれるのだろう。
不意に、心の中で声が聞こえたような気がした。これでいい……と。有盛の想いを受け入れるべきなのだと。誰かほかの人の声のようでもあったし、自分自身の声とも感じられた。この声に従っていいのだろうか? 月子は迷った。迷って、心が揺れた。
その心の揺れを、有盛は感じ取ってしまった。若者独特の敏感さで。そして、唇を寄せてきた。月子には、もう抵抗ができなかった。ただ、
「……私は、有盛さまより、五才も年上なのですよ。もっと若い、かわいい人がたくさんいるでしょうに……」
とだけ言った。
最後までお読みいただきありがとうございました。
月子の選択が、どんな未来に続いていくのか──
また次回も見守っていただければ幸いです。




