5 滅びに抗う
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静かな時間が少しずつ動き出します。
しばし、源平の世をご一緒いただければ幸いです。
武将たちがすべて出ていった部屋の中で、月子は地形図を食い入るように見つめていた。知盛に少しだけ貸してもらったのだ。この時代、実測地図はない。絵に近い物だったが、そのわりには正確だ……と、記憶の中にある日本地図と比較して思う。
「月子どの……」
不意に声をかけられ、文字通り月子は飛び上がった。一心不乱に地形図に見入っていたので、彼が部屋に入ってきたことにさえ気づかなかったのだ。
有盛は月子の向かいに座り、地形図をのぞき込んだ。
「一ノ谷。確かに、よい場所です。……教経どのは、何をすると言ったのですか?」
何を訊かれたのか、一瞬わからなかった。
「教経どのに、何も知らない若造と言われてしまいました。悔しかった。けれど、本当にわからないのです。教経どのが何をしようとしているのか」
この人は、本当にわからなかったのだ……と思うと、ふと有盛にいとおしさのようなものを感じた。自分の心を冷静に分析してみる。おそらくは、力弱い弟をかばう姉のような感情。
「ご覧下さい」
月子は、地形図の上にそっと指を置いた。
「一ノ谷は守りやすい場所です。ここなら大丈夫と誰もが思うでしょう」
有盛もそれはわかっている。正面から攻められる限り、この陣は堅固だ。
――けれど。
月子は知っている。誰も思いつかなかったやり方でこの断崖を駆け下りる武将の存在を。
「京を攻める時に、一番怖いのは背後です」
あえて、淡々とそれを口にする。
しかし、心の中では、叫び出したい思いが渦巻いている。
勝敗を決めたのは、義経の奇襲。
義経の奇襲さえ止めることができれば……!
そんな月子の胸の内など思いも寄らない有盛は、熱心に話を聞いている。
「淡路、讃岐、あるいは伊予、安芸あたりの武士の裏切りに遭い、京からの源氏と挟み撃ちされれば、どれほど堅い陣でも持ちません」
だからこそ、と月子は続ける。
「教経さまはこのあたりで戦って、地盤を固めておく……そういうおつもりなのでしょう。瀬戸内を押さえ、背後を断つのです」
なるほど、と有盛は頷いている。
教経の判断は間違っていないし、実際瀬戸内付近で六連勝している。
だから、問題はそこではないのだ。
問題は――。
『奇襲をどう止めるか』
その一点なのだが、その答えを、月子は見つけることができていない。
「情けない」
まるで、月子の心を読んだように、有盛が言った。
「私には、何もわからない、何もできない……」
うつむいた有盛の固く握りしめた拳に、ポタリと涙が落ちる。
涙で濡れた有盛の手に、月子は自分の手を重ねた。
「そんな気弱でいて、どうします。次の戦には、有盛さまも大将として出陣なさるのですよ。勇気を持って、堂々となさらなくては。あなたは、小松少将平有盛なんですから」
* * *
「寿永三年っていうと……1184年か……」
朋人は、手に入れた歴史の本を開きながら確かめた。あまり日本史に詳しいほうではなかったが、月子が今の状態になってから、源平時代についての本を買い込み、基本的な出来事は把握できるようになった。
月子の心が、平安時代に飛んでしまってから約一か月が過ぎていた。時間は、こちらも平安時代も、同じ早さで流れている。月子の「今」は、木曾義仲が源義経に倒され、一ノ谷の戦がある年だ。
* * *
年が明け、寿永三年を迎えた。平氏は屋島から福原へと本拠地を移動、月子も福原へと移った。
――間に合わなかった。
月子は、この言葉を何度も繰り返した。
本当なら、寿永二年のうちに福原に移り、義仲が京にいる間に都を奪還するはずだった。だが、移動に思っていた以上に時間がかかり、すべてが一歩ずつ遅れた。
そして、歴史は、月子の知っているとおりに動き始める。
源範頼は勢多から、義経は宇治から京に攻め込む態勢を取る。義仲はわずかな手勢で京を守るが――力及ばず、敗走する。
宇治川、勢多、そして近江粟津――。
すべての戦いが歴史通りに進み、それを耳にするたび、月子の心はキリキリと痛む。
義仲は逃げ切れず、流れ矢に倒れた。
福原の行宮でその知らせを聞いた時、月子は人知れず唇をかんだ。
すべて知っていたはずなのに……何もできなかった。
歴史を変えることの難しさは、高い壁となって、月子の前に立ち塞がっている。
一月二十五日、福原の平氏のもとに、院――すなわち後白河法皇から使者が来た。
「もしかしたら、戦わずにすむかもしれない」
そう、知盛は言った。その言葉で使者の内容を察することができてしまった。
「三種の神器ですね?」
「月子には、何でもお見通しなのだな」
天皇の印である「神鏡・神剣・神璽」の三種の神器は、安徳天皇とともに平氏のもとにある。院は、どうしても三種の神器を取り戻したいと願っているはずだ。
「近く、静賢法印という者が和平の使者として福原を訪れるというのだ。神器を持って平氏が平和に京都に入ることができれば…」
「法皇さまを信じてはいけません!」
月子は思わず叫んでいた。この使者が、福原に来ることはない。語気の激しさに、知盛は驚いていたが、どうしてもそれは阻止しなければならない。後白河法皇に振り回されていては、平氏に勝機はない。月子は、知盛の驚きを無視して続けた。
「平氏には和平をもちかけ、その一方では源氏に平氏追討の院宣を出す……そんなお方です、法皇さまは」
知盛の表情は曇った。知盛には、そこまで法皇を疑う気持ちはとうてい持てないのだろう。仮にも天皇であった人、神と同等の位置にいた人なのだから。
何としてでも考えを変えさせたかったが、三十も過ぎた男の考えを変えるということは、いかに信頼されているとはいえ、年下の女には難しい。
知盛と月子のどちらが正しかったのか……その答えは、次の日に出てしまった。法皇の裏切りを告げる知らせが、福原に届いたのだ。ついに、平氏追討の宣旨が頼朝に出されたのだ。福原の平氏の武将たちは騒然となった。彼らは、前日の院からの使者の言葉を信じていた。和平が成立するものと、信じて疑っていなかった。怒鳴る者、泣きわめく者、当たり散らして暴れる者、そんな中で、知盛だけが冷静だった。
「月子の言うとおりになってしまったな」
知盛は、微笑みをくずさずに言った。だが、その表情にはどこか自嘲的な色が見えた。
月子は内心で歯噛みする。やはり、あの時点で何としても知盛の考えを変えさせるべきだったのだ。そうすれば、ここまで皆を絶望させることも、知盛のプライドを傷つけることもなかった。
「月子には、未来を見る力があるのか?」
不意に言われ、うろたえた。これから起こることをすべて言い当てれば、月子は「予言者」として崇拝されるかもしれないが、自分の知っている歴史とは、違う歴史を作りだそうとしているのだ。予言はできても、その通りになってはいけないのだ。「未来を知っている」という能力を隠しながら、平氏をうまく導かなくてはならない。
「未来など、私にはわかりません。それは誰しも同じこと。今回のことは、法皇さまならそんなこともやりかねないと思っただけです」
「となれば、平氏で見える目を持っているのは、月子ひとりだったということになるのか」
知盛は、実質的な平氏の総帥。その知盛が自信を失ってしまったら、平氏滅亡を防ぐどころか、滅亡を早めてしまう結果になる。
「そんなことはありません」
知盛に自信を取り戻させなくてはならない。
「単に月子が、疑い深い性格だったというだけのこと。それに、戦になったとしても今の勢力はおそらく平氏の方が勝っていましょう。範頼、義経の軍は、義仲との戦いで疲弊しているはず。しかも源氏は騎馬軍団。陸戦には慣れていても、海戦には素人です。こちらは、海の平氏。陸戦にこだわらず、上手に海を利用すれば、勝てない相手ではありません」
知盛は、じっと月子を見つめた。
「いったい、いつの間にそんな知識を得たのだ、月子は」
何と答えたらいいだろう。必死に考えを巡らす。しかし、幸いなことに、知盛はそれ以上追及はしなかった。
「くよくよしていても、仕方がない。ともかく、近いうちに軍議をひらき、策を練らねばいけないな。もちろん、軍議には出てくれるな? 月子」
強すぎる視線に、少しだけたじろぐ。こんな風に熱い男を、月子は知らなかった。現代を生きる男達に、この熱さはない。いや、いたのかもしれないけれど、月子の周囲にはいなかった。だからこそ、義経に憧れたのだが……。
今、月子は、知盛に、自分が理想としていた「義経」に通じるものを見ている。
「うん? どうした? 軍議には出てくれるのだろう?」
すぐに返事をしない月子に、知盛が再び問いかける。
求めていたのは、こういう熱い男。
月子は、心が沸き立つのを感じながらも、それをうまく隠し、冷静に言ってのけた。
「もちろん、軍議には出させていただきます」
* * *
「ちょっと~、こんなおっさんを好きにならないでよ」
画面を見つめたまま、朋人は苦笑してつぶやいた。
「あなたには、有盛クンがいるでしょ?」
言いながら、自分でもおかしいと思う。恋の相手が誰かなんて、今はどうでもいいはずなのに。
月子は、恋愛に関しては臆病だし、驚くほど鈍感だ。
仕事や研究のことならば、ダメモトでなんでもやってみるのに、恋愛にその度胸は発揮されない。
「『恋』が力になる……ね」
口にしてみても、実感がわかない。
成就した恋もなければ、告白さえしたことがない。そんな月子の『恋』が、歴史を変えるほどの力を持つなど…信じられない。
その時、朋人はふとひとつの恋を思い出した。
高校生の時だ。はじめて好きになった相手には、なにも言えなかった。恋心を必死で隠し、友だちのふりをした。
その時の胸の熱さは、今でもはっきりと憶えている。
叶った恋よりも、失うことすらできなかった恋のほうが、ずっと強かったと思う。
「…片思い…」
その言葉が、朋人の胸に落ちる。
画面の向こうでは、月子が懸命に走り回っている。誰かを救うために…。自分でも気づかない感情を抱えたまま。
恋が力になるのだとしたら、一番強いのは始まるとき…そう思っていたけれど、違うのかもしれない。気づいた瞬間ではなく、気づく前が、一番強いのかもしれない。
朋人は、そっと息を吐き、再び画面に意識を集中した。
答えは、月子の行動が示してくれるだろう。
歴史は変わるのか。
それとも――変わらないのか。
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