28 沈黙の代償
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月子はまだ知りません。この日失ったものが、取り戻せるのかどうかを。
秋になっていた。
月子は高館の自分の部屋で、地図作りをしていた。実測したわけでもないので正確さには欠けるが、何もないよりはましだろう。
三度目の旅を終えて、昨日高館に戻ってきたばかり。旅の疲れは抜けないが、制限時間は迫っていた。のんびりと休んではいられない。これまでの旅で、馬淵川の北方まで経路を確保していた。はるか北の海沿いだ。
山中に入ると、方向を見失うおそれがあるので、月子は海岸線を北行する道を選んだ。
途中、泊まることのできそうな神社や社寺を確認し、また、頼れそうな人物も捜した。
協力してくれそうな人を見つけるとそこに泊まり、去るときには必要以上の砂金などを置いていく。こうすれば、今度来たときに優遇してくれるだろう。
冬が迫っていた。旅は、あと一度が限界だろう。今度は、何としても十三湊まで行かなくてはならない。
十三湊を支配しているのは、安東氏と呼ばれる一族だった。当主の安東秀栄は、藤原秀衡の弟である。藤原氏の誰かに、紹介状を書いてもらえれば、会うことが容易になるはずだ。とはいえ、國衡や泰衡には頼めない。親義経派の忠衡か、頼衡に頼むしかないが、頼衡は幼すぎる。
『忠衡どのに頼んでみようか』
心の中でつぶやく。歴史的にも、最後まで義経に味方をしていたのは忠衡だった。伝説の中にも、確か、忠衡の叔父に当たる人が、義経の北行に協力したという話がある。
そんなことを考えながら、夢中になって地図作りをしていると、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
自然に微笑みが浮かぶ。足音の主は、断りもなく部屋に入ってきた。
「いつ、戻ってきたんだ」
忠信の声は、不機嫌さを隠そうともしていない。
ゆっくりと振り返る。
「そんなところに立ってないで、座ったらどうだ」
忠信は、荒々しく座った。
「訊いたことに答えろ」
「昨日の夜、遅くだ」
「帰ったなら、帰ったと……」
「言おうと思っているところに、おまえの方から来たんじゃないか」
話の腰を折られ、忠信は、ますます不機嫌になった。
「どこまで行っていたんだ?」
「地名を言っても、忠信には分かるまい」
「また、北か?」
「まあ、そうだ」
忠信は、机の上の地図を取り上げた。
「何だ、これは……」
月子は、笑って答えなかった。
「わけが分からない。これは、文字か?」
こういったものの字は、すべてローマ字を使っていた。
「いったい、何を考えている。春先から数えて、三度も旅に出て……それも、あとになればなるほど、帰りが遅くなる」
「そのうち、分かる……」
「そのうち、そのうち……。いつになったら話す? それとも、俺に話す気は最初からなかったのか? 俺は、それほど頼りないか?」
「頼りないと思ってはいない。ただ、忠信は正直だから……」
「正直? ずいぶん穏やかな言い方だな。いつもなら、ばかがつくくらい正直で、単純と言うくせに……」
忠信の言い方は、いつものような冗談めかしたものではなかった。二人の間で何度も繰り返された言い争いと同じ内容だったが、忠信はいつになく暗い表情だった。
そのとき月子は、それを深刻に受けとめていなかった。だから、からかうような口調で言った。
「たとえば、今、私が、仮に郎等の名前を一人挙げて、その者が鎌倉の間者に間違いない……と言ったら……」
「そんな奴がいるのか! 誰だ、それは?」
「ほら、もう顔色が変わっている。たとえ話だ。そんな者はいない。だが、私がそうやって名を挙げた人間に、忠信はいつもと変わりなく接することができるか?」
「それは……」
「だから、言わない。今は、非常に微妙な時期なのだ。少しの手違いも許されない。だから……」
「もういい。分かった」
「分かってくれたか……」
忠信に微笑みかける。しかし、忠信はにこりともしないで立ち上がった。そして、月子を見下ろして言った。
「最初からそうだった」
「何が?」
「おまえはいつも冷静だ。俺は、そんなおまえの一言に、驚かされたり、喜んでみたり、怒らされたり……おまえは、世の中のこともすべてお見通しで……それと同じように、俺の氏素性はおろか、心の中まで見通しているのに、俺はおまえのことは何一つ分からない」
「忠信……」
さすがにうろたえた。忠信がここまで思い悩んでいるとは、思ってもみなかった。
立ち上がり、忠信の腕に手をかけようとした。しかし、
「さわるな!」
という激しい拒絶の言葉に、思わず手を引っ込めていた。
「確かにおまえは、夜は俺と過ごしてくれる。だけど、勘違いしないでくれ。本気で惚れた女なら、男が欲しいのは身体じゃない。一番欲しいのは、心だ」
「忠信……」
「すまなかったな……」
忠信は、月子の方を見ずに言った。
「何が?」
「昔の恋人が忘れられなくてもかまわないとか、いつまでも待つとか……俺は言ったけれど……」
忠信の涙が、床に落ちるのを見た。
「俺にはできない……」
そう言うと、忠信は部屋を出ていった。
月子は、追いかけることもできずにしばらく部屋にたたずんでいた。
* * *
「月子、何してんのよ、追いかけなくちゃ、ダメじゃない!」
朋人は、画面の中の月子に向かって叫んだ。
ずっと心配していた。月子が、北行伝説を真実にするための調査にのめりこみすぎていると。
確かに、義経の命を救うためには必要なことなのだろう。だが、あまりにも平泉を留守に……忠信をほったらかしにしすぎていると、感じていたのだ。
朋人は、危惧もしていた。
今の月子は、「平月子」より「喜多見月子」が勝ってしまっているのではないかと。
「歴史に挑戦して、伝説を真実に変える」――歴史学者として、こんなにやりがいのある仕事はないだろう。
月子の一番の目的は、恋人である佐藤忠信を守ることだったはずだ。それが、今では、二の次になってしまっている気がする。
だから、何度も旅を繰り返し、平泉にいるときでさえ調査結果をまとめるのに夢中で、忠信をないがしろにしている。
そして、そんな月子に忠信は不信感を抱いているのではないだろうか。
月子が思うほど、忠信は鈍感ではないし、強くもないと思う。恋人にすげなくされれば、不安にもなるし、放置されれば怒りもする。
それを、朋人から見れば信じられないほどの自制心で、忠信は押さえてきた。それに気づいていたから、いつか、爆発するのではないかと、心配していたのに……。
「まだ間に合うわ。きっと忠信クンは許してくれる。だから、月子、追いかけて」
朋人は必死で訴えたが、その声は届くはずもなく……月子はただ呆然と立ちすくんでいるばかりだった。
* * *
どのくらいの時間、そうやって過ごしていたのか、分からなかった。
我にかえったのは、
「月影、入るぞ」
と声をかけて、義経が部屋に入ってきた時だった。
「忠信が来ていたと思ったのだが、もう帰ってしまったのか?」
「はい」
上の空で返事をしながら、座りこんだ。身体中の力が、抜けてしまったような気がしていた。そばに、義経がいることも分かってはいたが、それを意識するだけの気力が残っていなかった。
「どうした?」
義経も座りながら、尋ねた。
「忠信と、けんかでもしたのか?」
「いいえ」
反射的に答えながら、思った。これは、けんかではない。けんかだったら、どんなによかったか。忠信は、もう自分から去っていってしまったのだ。
目の前の地図が見えなくなっているのに気づく。目には、涙があふれていた。
「月影?」
義経の声が合図だった。とたんに、月子は、声を上げて泣き始めていた。
泣き止んだときには、すっかり日も落ち暗くなっていた。
義経は、黙って見守ってくれた。一度だけ、暗くなり始めたときに燭台に明かりをつけたとき以外は立つこともしなかった。
「申しわけありませんでした」
泣き止んでみればさすがに決まりが悪く、目を合わせないようにして頭を下げた。
義経は微笑んだ。
「もうそろそろ、私には教えてくれてもいいのではないか?」
義経は、地図を取り上げて見ながら言った。
「おまえの考えていることを」
「はい」
覚悟を決め、居住まいを正す。
「國衡どのたちの、鎌倉侵攻作戦はどうなっていますか?」
「進んではいない。國衡どのや忠衡どのは乗り気だが、泰衡どのがうなずかない。当主がうなずかなければ、進軍はできない」
「御大将は、どうにお考えですか?」
義経は、悲しげに微笑んだ。
「私は、もう自分ではどうしようとは考えていない」
「御大将……」
義経は、もう生きる気力さえなくしてしまったのだろうか。
「そんな顔をするな」
義経は笑った。
「投げやりになっているわけではない。泰衡どのが鎌倉を攻めると決心なされば、私はそれに従う。しかし、それを無理強いしようとは思わない。自分から進んで、兄を滅ぼそうという気持ちにはなれないからだ」
「もし、泰衡どのが鎌倉攻めを取りやめになさったら?」
「それでも、兄は頼朝は奥州を攻めてくるのだろう?」
「おそらく……」
「そうなれば、やはり戦わなければならないだろう。平泉を戦場にしたくはないが……」
義経の目をまっすぐに見つめる。
「御大将、私が以前にお話しした、もう一つの道をおぼえておいででしょうか?」
「北へ逃げるというのだろう? しかし、國衡どのたちは、私に戦の大将になることを望んでいる。逃げ出すのは、裏切るようで……」
「ですから、お待ちになればよいのです。泰衡どのが決心なさるのを……泰衡どのが、鎌倉との戦を選べば……」
「私は、大将となって戦う」
「泰衡どのが、それを選ばなかったときは……」
地図を義経の前に差しだした。
「偽首を差し出して、北へ逃げろと?」
「はい」
「それは困る。私は、杉目を死なせるつもりはない」
義経は、地図から目をそらした。
「私も、そんなつもりはありません。杉目行信は、力のある郎等。これからも御大将のお役に立ってもらわなくては」
「では、どうするのだ?」
「死体を見つけてきます」
「そんな物で、ごまかせるのか?」
「館に火をつけ、焼け首にしてしまえば……」
「なるほど……」
義経は、地図を取り上げじっと見た。
「これは、北へ逃げる道筋か?」
「はい。経路と、泊まれるような社寺。頼りにできそうな人物を見つけてあります」
「春から三度も旅をしていたのは、このためか。それで、調べは全部済んだのか?」
「もう一度、行けば済みます」
「いつ発つ?」
「なるべく早くと思っています。冬になる前に……」
「今回よりも長くなるのか?」
義経は、眉をひそめた。
「はい。十三湊まで行こうと思っていますから」
「十三湊?」
地図を指し示して言った。
「このあたりです」
義経は、月子をまじまじと見つめる。
「何か?」
「おまえは、平時忠の娘。京生まれの京育ちのはずなのに、なぜこのあたりの地理が分かる?」
「あ……」
言葉に詰まる。心の中で『しまった』と思いながら、言い訳を考えていた。
しかし、義経はそれ以上は追及しないでくれた。
「十三湊は、確か安東氏の……」
「そうです。秀衡どのの弟の安東秀栄どのの領地」
「十三湊で何をするつもりだ?」
「船の手配をお願いいたします」
「船?」
義経はしばらく考え込んでいた。
「本気だったのか……蝦夷が島まで渡るというのは」
「本気です。蝦夷が島のことだけではありません。できますなら、さらに西の大陸へ……」
「なぜ、そこまでしてこの義経のことを?」
「それは……」
続きは言えなかった。『佐藤忠信を生かすために、歴史に挑戦しているのだ』とは。
「まあ、いいだろう」
義経は、強いて訊こうとはしなかった。
「私に手伝えることはないか?」
「それでは……安東秀栄どのにわたす紹介状を書いてもらえないでしょうか……できれば、藤原忠衡どのにでも……」
「そうだな。頼めるのは、忠衡どのくらいしかいない……分かった」
義経はうなずいた。
「……しかし、私はともかく、なぜ忠信にまで旅をする理由を黙っていた?」
「秀衡どのの御遺言は、源義経を大将軍として鎌倉を攻めよというものでした。御大将がそれをせずに北へ逃げるのは、ある意味では裏切り行為です。事前に藤原の御兄弟にそれが知られてしまったら、大変なことになります。月影という郎等の一人が勝手に準備を進めているのなら、御大将には傷がつきません。ですが、忠信は御大将と同じ立場です。佐藤氏は、藤原氏と親戚関係。もしこの計画に関わっていたと思われたら、忠信だけでなく、その家族にまで責めが及ぶかもしれません」
義経は、ふっと笑った。
「月影は、確かに頭が切れる。だが、男の気持ちというものが分かっていない」
「え?」
「もし、おまえの言うようになって、おまえが罪に問われようとしたとき、忠信が『月影一人がしていたことで、自分には関わり合いがない』と言うと思うか?」
言われて、はっとした。確かに、その通りかもしれない。
「おそらく忠信はこう言うだろう。『これは、自分が計画して、月影にやらせたこと。だから、罪は佐藤忠信一人にある』とな」
返す言葉がなくて、唇をかんだ。自分は忠信の気持ちをまるで分かっていなかった。『忠信の心の中はよく見える』などと不遜なことを言っておきながら……これでは、忠信に去られてしまっても、仕方がない。
ふたたび浮かんできた涙に気づいて、義経は言った。
「おまえが旅に出ている間、忠信は本当に心配していた。特に、今回の旅は帰りが遅かったから……最近では、食事も喉に通らないくらいだったらしい。もう少し、忠信を信頼してやってくれ。あれは、信頼するに足る男だと思うが……」
「はい」
素直に頭が下がった。
「ご心配をおかけしました。ありがとうございます」
義経はうなずき、立った。
ふと思いつき、義経を見上げる。
「今回の十三湊への旅ですが……忠信と一緒に行ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、かまわない」
義経は微笑んだ。
「その方が、私も安心だ」
そう言って、義経は部屋を出ていった。その言葉で、自分を心配していたのは義経も同様だったのだと悟った。
月子は今の今まで、何もかもを一人でやって、それが正しいと信じていた。しかし、それは間違いだった。
義経にも、そして忠信にもすべてを打ち明けて、協力を願うべきだったのだ。人間は一人で生きているのではないのだから。
「忠信に、十三湊へ一緒に行ってくれと頼もう」
決意を声に出して言ってみる。けれども、心の中ではつけ加えていた。
『忠信が、私を許してくれるのなら』
最後までお読みいただきありがとうございました。
次話、月子は北へ向かう準備を整えます。
それは、義経のためだけではなく、自分自身の過ちと向き合う旅の始まりでもあります。




