26 影に立つ者たち
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平泉では、誰もが心の内に秘密を秘めて、沈黙しています。
その沈黙こそが、この地に迫りつつある運命の前触れなのかもしれません。
杉目小太郎行信の姿を見た瞬間、月子の胸がひやりと冷えた。
――来てしまった。
そして、その背後に立つ美野の存在が、月子の心に重くのしかかっていた。
美野は、義経の北の方である。
そして同時に、河越重頼の娘でもあった。
行信は、大物浦から船出する際、美野を川越にある実家に送り届ける役目を言い遣っていた。
その後の行信と美野の行方を、義経はずっと知らずにいた。だから、月子も知らないふりをした。史実は、義経にとって残酷だったから。
美野の父・河越重頼は、その嫡子・重房とともに、頼朝に滅ぼされている。
理由は、あまりにも理不尽だった。
――源義経の舅であった、ただそれだけ。
月子は、思わず拳を握りしめた。
この時代では、それが「罪」になり得る。頼朝にとって、義経につながる血縁は、すべてが危険で、切り捨てられ、消される存在だったのだ。
美野は、父も、兄も、家も……すべて失っている。
――この人もまた、未来を奪われた一人なのだ。
義経に河越氏の滅亡を伝えたのは、彼らより数ヶ月前に平泉にたどり着いた、美野の守り役・増尾十郎兼房だった。
その話を聞いたときの、義経の辛そうな表情を、月子はありありと思い浮かべることができる。
美野が名ばかりの妻であることは気づいていた。けれども、それは美野の罪ではない。
義経としても、妻として愛せなくても、それなりの情はあったのだろう。父である河越重頼と、兄、重房は、ともに屋島や壇ノ浦の戦を戦った戦友でもある。
その二人が、自分のせいで亡くなったと聞いて、平常心ではいられないのは当然のことだ。
忠信も、義経同様、二人の死を悼み、行信と美野の無事を願い、彼らが平泉にたどり着くことを心待ちにしていた。
だが、月子はその話を聞いたとき、行信が平泉に来なければいい……と考えていた。
行信が来れば、自分は彼を「影武者」にしてしまうかもしれない。そして、そんな自分自身を怖ろしいと思った。
この時代の人間にとっては、行信が「影武者」として死ぬことは当たり前……むしろ名誉なのかもしれない。しかし、二十一世紀を生きていた月子には、これは許せないことのはずだった。
けれども、一瞬だったが、その非情さを当然と考えていた。歴史に挑戦しようという気持ちが強いあまり、行信を一人の人間として見ることを忘れてしまっていたのだ。
行信も義経も、命の重さは同じだということを思い出させてくれたのは、美野だった。美野が行信を見る目は、愛情にあふれていた。そして、上手に隠してはいるが、行信もまた美野を愛しているのではないか……と感じていた。
大物浦で別れてから、二年の月日が流れているのだ。その間に二人が愛し合ったとしても、不思議はない。
いや、もしかしたら、京にいる頃から秘かに愛し合っていたのかもしれない。義経は、常に静御前の小館で夜を過ごしていた。口にこそ出さなかったが、頼朝から押しつけられた妻という反発もあっただろう。
そんな苦しい立場にいる美野が、義経以外の人間を好きになったとしても、無理のないことだ。
* * *
「なにこれ、まさに悲恋じゃない」
朋人は、思わずつぶやいていた。
行信と美野の愛情は、月子の目を通して見る画像でもはっきりとわかる。
美野は「可愛い」という表現がぴったりの女の子に見える。年齢も、義経の妻と呼ばれた三人の中で一番若い。だからこそ、行信に対する愛情が隠しきれない。
「かわいそう……」
朋人がつぶやいたとき、画面にノイズが走った。
久しぶりのことに戸惑いながら、見逃すまいと目をこらす。
『恋のパワーが、変える』
何度も繰り返された文字だった。
「なによ、今さら……」
文句を口にしたとき、朋人ははっと気づいた。
「もしかして、美野ちゃんたちの恋も…?」
この二人の悲恋も、パワーとして消費されてしまうのだろうか?
「ダメ、そんなのかわいそう。月子、お願いよ、二人の恋を守って」
朋人は、機械の隣に横たわる月子ではなく、画面の中の月子にそう訴えていた。
* * *
行信と美野の愛が間違いではないと確信するのに、時間はかからなかった。
春になって、美野が女の子を出産したから……。
「雪野」と名づけられたその子を、義経はことさらのように「私の子だ」と言った。
生まれ月からみて、雪野が義経の子でないことは明らかなのに……。
表面上では、美野は義経の北の方として過ごしていた。
前後の事情はどうあれ、美野は義経の北の方なのだ。身分のさほど高くない行信が、主人の北の方と関係を持ったことが知られれば、ただではすまない。気づかないふりをすることが、義経の精いっぱいの思いやりだったのかもしれない。
行信は、以前と変わりなく「影武者」として、ひっそりと高館で暮らしていた。人と言葉を交わすこともなく、その存在を他の郎等が忘れてしまうほどに。
けれども、月子は行信の姿を何度も見かけていた。それは、美野と一緒に庭で雪野を遊ばせているときだった。
美野は、月子が女性であることを知っていた。義経が教えたのだ。高館には、下働きの人間以外、女性がいない。そんなこともあって、義経に「美野の力になってやってくれ」と頼まれていた。
美野と雪野と三人で庭にいると、必ず行信の姿を見かける。だが、美野は気づいていない。行信は、いつも物陰からこっそりと見つめていたから。
そんな時、月子と一瞬目が合うことがあった。なぜか、その時だけは、行信は視線を逸らさない。この時間だけが、自分が誰の影でもない、杉目小太郎行信というひとりの男だと思える瞬間なのかもしれない。
自分に対して挑むように向けられる視線に対して、美野や雪野に向けられる視線は、温かく優しい。そんなときの行信の表情は、ただただ切ない。
その表情を見たとき、決心をしたのだ。『杉目小太郎行信を、影武者として死なせてはならない』と。
その必要ができたときには、すでに亡くなっている人の死体を見つけてこよう。自分がそうしようと思いさえすれば、できるはずだ。
その日が近いと感じたら、捜せばよい。そして、館に火をつければよいのだ。焼け首になってしまえば、別人であることは分からないだろう。歴史通りなら、腐乱も進んでいるはずだ。
そして、できることなら、この二人の恋を実らせてあげたい……。
「月子……明日の軍議……おまえも出るのだろう?」
そう忠信が言ったのは、秀衡が亡くなった翌年――文治四年、春の夜だった。
いつもの小屋で、月子は忠信の胸の中にいた。
「御大将に、そう言われている」
一の郎等である忠信が出るのは、聞くまでもない。忠信がいれば、軍議で、孤立無援になることはないだろう。
安心感から、ふっと微笑むと、忠信は心配そうに訊いた。
「大丈夫か?」
「何が?」
「軍議というのは……」
「女の出るものではない……か?」
「そうじゃない。おまえは並みの女とは違う。だが、軍議に出るのは、俺たち、御大将の郎等だけではないんだ」
「心配するな」
忠信の胸に頬を寄せる。温かさが心地よい。
「軍議に出るのは、何もこれが初めてじゃない」
「初めてじゃないって……?」
忠信が、顔をのぞき込む。
「屋島や、彦島では、何度も……」
「まさか……」
忠信は、驚きの隠せない顔で言った。
「あれは、本当のことだったのか? 月子は、御大将の奇襲を、すべて予見していたというのは」
仕方なくうなずく。言いたくはないが、そう言った方が月子が軍議に出ることを心配している忠信は安心するだろう。
「信じられない。御大将の軍にいた俺たちでさえ予想もしていなかったのに、敵方にいたおまえが……」
忠信は、つぶやくように言った。
「毘沙門天の遣い……」
「やめてくれ!」
気づけば叫んでいた。
「その名は、聞きたくない。辛い思い出しかないのだ」
目に涙がにじむのを感じる。忠信はそれを見て、頭を自分の胸に抱えこんでくれた。
「すまない。おまえを傷つけるつもりはなかった」
髪を撫でられ、気持ちが落ち着く。
おそらく、忠信には尋ねたいことがたくさんあるのだろう。それでも、月子の心の傷を思って、それ以上を聞こうとはしない。そんな忠信に、心の中で感謝する。
忠信の腕の中で眠りに落ちながら、あんなふうに怒鳴ってしまったのは何故なのか……と考えた。自分の神経は、考えている以上に疲弊しているのかもしれない。
この世で、歴史を知る者は自分一人。それだけでも十分辛い。その上、その歴史に挑戦しなければならない。
ただ、挑戦すればいいというのではない。義経の心を傷つけず、忠信の命を守り、そして、さらに、杉目行信と美野の愛を実らせ、その子どもの雪野の幸せまで考えなければならない。
ぎりぎりまで追いつめられた精神。そんな状態のところに『毘沙門天の遣い』という言葉。おそらく、それがとどめを刺したのだろう。
『毘沙門天の遣い』は、歴史に挑戦し、負けたあの壇ノ浦を思い出させた。
月子は、忠信の胸で眠りながら、夢を見ていた。
夕陽に真っ赤に染まった海だった。だが、その赤は夕焼けの赤ではなく、血の色に似ている。その中で、次々と武士たちが入水していく。
この目ではっきり見たわけではないにも関わらず、その夢の中では、有盛が……そして知盛が、教経が、次々と海に身を投じていく。
そして、その武士の中に、やがて義経の姿が現れる。彼もまた、海に身を投じようとしているのだ。彼を止めるために走ろうとした。しかし、足は動かなかった。何とかそばに行こうともがいていると、行信や美野の姿も映り始める。
そして、ついに、一番怖れていた者の姿が現れた。船縁に、甲冑に身を包んだ忠信の姿を見つけたとき、自分の喉から絶望の叫びが漏れるのを聞いた。
「月子……月子!」
忠信の声が、意識を夢から現実に呼び戻した。心配そうにのぞき込む忠信の顔を見た瞬間、それが夢であることに気づいた。だが、身体はまだ小刻みに震えていた。
忠信は、そんな身体をしっかりと抱きしめて言った。
「月子…もう、やめてもいいんじゃないか?」
答えられずにいると、忠信は続けて言った。
「おまえが、何かをしようとしていることは分かる。しかし、それがおまえをこんなにも苦しめているのを、俺はもう黙って見ているわけにはいかない。もう、女に戻ってもいいのじゃないか? おまえのやろうとしていることは、俺が代わりにやってやる。俺だって、源義経の一の郎等。月子が何をしようとしているのかは知らないが、言ってくれさえすれば、俺がやる。だから、おまえは女に戻れ。そして、俺の館の北の対に住んでくれ」
忠信の言葉を聞きながら、心の緊張が解けていくのを感じた。まるで、陽ざしをあびた雪のように。
「月子……」
震えが止んだのに気づき、忠信は顔をのぞき込んだ。
忠信に微笑み返す。忠信の申し出は、受けるわけにはいかない。月子のやろうとしていることは、佐藤氏の嫡子である忠信にさせるわけにはいかないのだ。
「月子?」
忠信は、返事を待っている。
「忠信の言葉は嬉しい」
忠信の顔が、ぱっと輝いた。
「住んでくれるのか、北の対に?」
黙って首を横に振る。
「約束まで、あと一年ある」
二年待ってくれ……その約束をしてから、一年が過ぎていた。史実通りなら、今から一年後に衣川合戦がある。
しかし、一年後に自分や忠信、そして義経がどうなっているのかは、誰にも……月子にも分からない。
義経が決心をした鎌倉侵攻作戦がうまくいけば、日本で暮らしていける。
北行伝説が真実なら、北へ逃避行の最中かもしれない。
そのどちらでもなければ、命はないだろう。
忠信は、がっかりとした表情を隠さずに言った。
「おまえに、館に閉じこもっていろとは言わない。おまえがやりたいことなら、何をしてもいいから……俺の館に住んで……俺の妻だと……」
「まだ……だめだ」
「何故? 御大将はご存じなのだし……他の郎等たちだって……おまえが女だからといって、急に態度を変えたりはしないだろう」
「女と分かれば、軍議に出られなくなる」
「軍議に?」
「そうだ。軍議には、泰衡どのをはじめとする、藤原の御兄弟が出席するのだ。彼らは、女が出るのを喜ぶはずがない」
「……それほど大切なことなのか、軍議に出ることが?」
黙ってうなずく。
「俺には分からない」
忠信はため息をついた。
「あんなに苦しんでいるのに、なぜ、こんなことを続ける? 俺だって……正直、辛い」
「辛い?」
「……俺は、隠し事は苦手だ」
無理もないかもしれない。
正直で、まっすぐな性質の忠信には、こういう二重生活は耐えられないのだろう。
そう思った瞬間、あることを思い出して、くすっと笑った。そして、笑える自分を感じて、まだ大丈夫だ……と思った。
「何を笑っている?」
忠信が不機嫌そうに尋ねた。
「伊勢三郎が、私に言ったのだ。『忠信が月影を見る目は普通じゃない。女を寄せ付けようともしないし、気をつけた方がいい』と」
くすくすと笑いながら答えると、忠信はますます不機嫌になって言った。
「伊勢は、俺にも言ったよ。『いくら美しくても、月影は男だぞ』ってさ」
笑いは止まらない。さっきまでの心の緊張が、嘘のように溶けていく。忠信には――本人は気づいていないが――月子を立ち直らせるだけの力が備わっているのだ。
「おい、俺にとっちゃ、笑いごとじゃないんだぞ……」
困り果ている忠信の表情がおかしくて、また笑う。
「確かに、忠信に隠し事をしろと言うこと自体、無理かもしれないな……」
「そうなんだ」
そんなことを言っても、忠信は怒った様子は見せずに言った。
「最近は、両親もうるさいし……」
「ご両親が、何か?」
「なまじ、館なんか持ったものだから、北の対が空いているのは不自然だと、次々と縁談を持ってくる」
「確かに。忠信の年齢で、しかも、佐藤氏の嫡子が、いつまでも独り身というのもおかしいのだろうな……」
「そうなんだ。だから……」
「もらったらどうだ、北の方を……」
「月子!」
忠信は、怒鳴った。
「何を考えているんだ、おまえは?」
忠信は、月子を抱いていた手をはなした。
「確か、堀川館で言わなかったか? 俺が、他の女に心を移したら、俺を殺して自分も死ぬとか何とか……」
「よく、おぼえてたな」
「当たり前だ。あれは、うそか?」
「うそではない。けれど、おまえの希望に添えないのに、おまえの行動を縛るのは、私のわがままだ。だから、忠信がどうしても北の方を迎えたいと言うのなら……」
「俺が欲しいのは、北の方じゃない! おまえだ!」
忠信は本気で怒っていた。おとなしく頭を下げることにする。
「すまない……と思っている」
忠信はしばらく黙っていたが、やがてぽつんと言った。
「本当に、あと一年だな?」
「約束する」
忠信は月子の顔を上げさせ、その唇に自分の唇を合わせた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
人は、何かを守ろうとした瞬間から、すでに選択を終えているのかもしれません。
また次回も見守っていただければ幸いです。




