24 平泉 ― 二年という約束
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月子と忠信が辿り着いた平泉で、運命は静かに、けれども確実に動き始めます。
月子と忠信は、平泉にいた。
一条能保の手を逃れ、京を脱出したのが九月。
平泉に到着したのは、翌年、三月のことだった。
その間、義経の立場は悪くなる一方だった。郎等の何人かが捕縛され、六回目の「義経追討」の院宣が出され、義経が庇護を受けていた寺院にも、鎌倉方から圧力がかけられた。
年が明けた文治三年一月、義経が安全に暮らせる場所は、奥州の藤原秀衡のもとしかないと判断せざるを得なくなってしまった。
二月……奥州に向かう義経に同行するとき、月子は、つらい旅を覚悟した。
しかし、そんなことはまったくなかった。
なぜならば、義経のとったのは海路だったから――。
よく言われる北陸道の経路ではなく、太平洋側を通る海路だった。
『安宅の関も勧進帳も、後世の創作なのか……』
当然、創作だろうと思っていたが、改めて確認すると、やはり感慨を覚える。そんなところは、まだ、歴史学者の『喜多見月子』なのかもしれない。
そして、船を調達できる伝手があることに、光を見いだした。
海路は、北行伝説を可能にする重要なアイテムだから。
義経=ジンギスカン説を信じていたわけではないが、船が用意できるのなら、それも夢物語ではないのかもしれない。
『どちらにしても、私は挑戦する。源義経を衣川で死なせはしない』
あらためて決意を固める。義経を救うことは、忠信を救うことと同じ意味だ。
京で忠信の命を救えたことで、月子は確かな手応えを感じていた。
そして、平泉に到着した三月。
当主である藤原秀衡は、義経をあたたかく迎えてくれた。
それは、十六歳から二十二歳までを、この地で過ごした義経に対して、わが子と同様の愛情を持っていたからにほかならない。
だが、一方では、対鎌倉との戦に備えて、戦略家としての義経の力を歓迎している面があることも否めないだろう。
義経は、衣川を背にして建つ高館という名の館を与えられた。これは、秀衡の正室の父に当たる藤原基成という人物が、かつて住んでいた館だった。
高館の南方には、政庁である柳の御所、秀衡の居館である伽羅の御所があった。また、衣川をはさんで北方に、義経の郎等の館が急遽建設された。
* * *
「なんか、すごい所ね」
月子の目を通して見える平泉の風景は、朋人にとって「すごい」というよりは「不思議」な都に見えた。
「京都とは違って、内も外も金ぴかだし……」
半年ほど前まで月子がいた京の都は、威厳があり、まさに「公家の都」という感じだった。
平泉の威厳は、京都に劣るものではないが、方向性が違う気がする。巨大な寺院群や、荘厳な仏像の数々が、そう感じさせるのかもしれない。
歴史書によれば、「浄土をこの世に再現する」思想が作った都、ということらしいが……。
「とてつもなく豊かだということだけはわかるわ」
その豊かさは、金山を有していることや、海外との貿易が盛んなことに起因しているのだろう。
当然、軍事力も高い。
「ワタシはびっくりだけど、月子は全然驚いていないわね。さすが歴史学者」
平泉については、きちんとした知識があったのだろう。
そして、それ故に、源頼朝が警戒していることも……。
「月子、頑張ってね」
届かないと知りつつも、朋人は、機械の隣で横たわる月子に囁かずにはいられなかった。
* * *
「月子、頼みがある」
忠信がそう言ったのは、夏を迎える頃だった。場所は、高館近くにある小さな小屋だった。ふたりだけの夜を過ごすために、忠信が建てさせたものだった。
「何だ?」
訊きながら、自分を抱きしめている忠信の手を身体からはなそうするが……。
「俺の館が、間もなく完成する」
忠信の手は、びくともしない。
手をはなさせるのはあきらめて、言った。
「そうか。それで?」
「高館を出て、俺の館に来ないか?」
月子は、高館に一室をもらっていた。義経は「月影」のために館を建設してもよいと言ったのだが、それは断った。北行伝説を現実のものにするためには、できるだけ義経のそばにいた方がいい。
忠信は、義経の一の郎等とはいえ、もともとは秀衡の親戚筋にあたるので、郎等たちの中でも一番立派な館が用意されていた。
「何だ? 私に佐藤四郎忠信の郎等になれと言うのか?」
「ばかを言うな!」
忠信は大声で言うと、今度は声をひそめてささやいた。
「おまえに住んでほしいのは、北の対だ」
忠信の言いたいことは、すぐ分かった。「北の対」は館の主の正室が住む場所。女に戻り、忠信の妻として暮らしてほしいということだ。
「それは……できない」
「何故だ?」
「……私には、源義経の郎等として、まだしなければならないことがある」
「月子……」
忠信は抱きしめていた手をはなし、月子の顔を自分の方に向かせる。
「確かに、おまえの力は認める。京でのおまえの活躍には、驚かされるものがあった」
「結局、何の役にも立たなかったがな……」
できたのは、忠信の命を救うことだけ。もちろん、それができたのは大きな成果だと思うが、もう少し、政治的な働きができたのではないかという後悔もあった。
それができれば、奥州に逃げ帰るのではなく、別の道があったはずだ。
自分の口調が、自嘲的すぎることに、月子が戸惑っていると、忠信は首を横にふった。
「それは違う。あれだけ長い時間、御大将が京近くに潜伏できたのは、公家を味方に引き入れたおまえの力だ。それがなければ、この奥州まで無事に逃げられはしなかったろう」
忠信にしてみれば、自分の命が救われたことなど気づきもしないのだから、それが最大の成果だと思っているのだろう。
「忠信にしては、めずらしく気の利いたことを言うじゃないか」
からかいに、忠信は動じなかった。
「まじめに聞け。御大将は、もう奥州まで来たのだ。この地は安全だ。仮に頼朝が攻めてきても、御大将の戦略と藤原氏の財力、軍力があれば、負けることはない。だから、おまえももう女に戻ってもいいのではないか」
「そう、うまくいけばよいが……」
月子の知る未来なら、忠信の考えのようにはいかないのだ。
秀衡の命がもっと長ければ、それも可能だったろう。現に、彼は鎌倉攻めを考えているだろう。しかし、それが実行に移される前に、秀衡は病死してしまう。おそらくは、今から半年後に……。
跡を継いだ泰衡には、秀衡ほどの度量も才覚もない。彼は、頼朝の再三の威しに屈し、義経を攻め滅ぼしてしまう。
その上、義経に味方していた、自身の弟の忠衡も殺す。それほどまでにして守ろうとした奥州の支配者の地位も、頼朝の力の前に露と消える。
「どうした?」
自然と、暗い顔になっていたらしい。忠信は心配そうに訊いてきた。
「まだ安心ではないと、おまえは考えるのか?」
うなずくしか答えはない。
「どうしてだ?」
「今は、言えない……」
それを言えば、間違いなく泰衡の悪口になってしまう。泰衡は、忠信にとって主筋にあたる。人一倍信義に厚い忠信が、それを快く聞くとは思えなかった。
「月子……」
忠信は、悲しげな顔をした。その顔を見て、心が揺れるのを感じる。
このまま、忠信の妻となってしまったら、どんなにか幸せに暮らせるだろう。仮にあと二年足らずであったとしても、二人で幸せに暮らし、そして衣川で義経とともに死んでもいいのではないか……一瞬そんな考えが、頭をよぎる。
「忠信……」
忠信の胸に顔をうずめた。あたたかさが伝わり、心臓の鼓動が聞こえた。
「忠信……私を……」
『妻にしてくれ』という言葉を、寸前で飲み込む。そして、自分の心に鞭を打った。この心臓の鼓動を、あと二年足らずで止めてはならない。
「待ってくれ……あと……あと……二年」
「二年?」
忠信の手があごにかかる。無理矢理顔を向けさせられる。
「どういう意味だ? 二年後に、何かあるというのか?」
「たぶん……」
忠信はしばらく考えていたが、やがて言った。
「分かった。おまえがそれほどまでに言うには、何かわけがあるのだろう。俺は、待つよ」
「すまない」
うつむくと、忠信はもう一度顔を上げさせて言った。
「下を見るな。俺は、顔を上げて堂々としている月子が好きだ」
笑いが、ふっと浮かぶ。
「おまえは私のことを分からないとよく言うが、おまえだって分からないやつだ」
「どこが?」
「女は、従順で、素直な方がいい……というようなことを言っていたくせに、顔を上げて堂々としろと言ってみたり……」
「それは……」
忠信は赤くなって口ごもった。
「それはだな……時と、場合による……ということだ」
「いい加減だな」
そう言って立ち上がろうとすると、忠信が手をつかんで引き戻した。
不意をつかれて、倒れ込む。床に落ちる寸前で忠信に抱き留められ、そのまま強く抱きしめられる。
その温かさが嬉しい。
「忠信……」
口には出せない想いを、忠信の背に手を回し、しがみつくことで伝える。忠信が笑い、その胸の動きが頬に伝わる。
「気丈なところも、頑固なところも、そして、こうやって俺にしがみついてくるかわいい月子も、俺は、全部気に入っているから……」
忠信はそう言うと、唇を唇でふさいだ。
その温かさに溺れてしまいたい気持ちを、理性で抑える。
「もう、遅い。帰らなくては……」
けれども、そんな弱々しい抵抗で、忠信の想いを止められるはずもなかった。
「星がきれい……」
急いで作らせたこの隠れ家の屋根は穴だらけなので、仰向けに寝たまま夜空が見える。
「ああ」
立ち上がって、小屋を出て行こうとすると、
「ちょっと、そのままでいてくれ」
と忠信が言う。窓から差し込む月明かりは意外に明るく、自分の姿は、忠信にはっきり見えているだろう。
「月子」
忠信は、じっと見つめて言った。
「おまえのすることにまず間違いはないと思うが……危ないことだけはするなよ」
黙ってうなずく。忠信は重ねて言った。
「それから、俺に手伝えることがあったら、何でも言ってくれ」
「分かっている」
忠信に向かって微笑んで見せた。その心の中には、笑顔とはほど遠い歴史への挑戦が隠されていることを、忠信に気づかせないために。
* * *
「いいわね、ラブラブで」
そう言ってみたものの、朋人の心は言葉ほどには明るくなかった。
机の上の歴史書は「衣川合戦」のページが開かれている。
そこに書かれている言葉が、朋人から笑顔を奪っている。
義経の郎等は、ことごとく戦死・自害。
義経は持仏堂に籠り……館に火を放って自害。享年31(満30歳没)。
「今は、文治三年……衣川合戦は文治五年。月子があと二年って言ったのは……」
朋人は、音を立てて歴史書のページを閉じた。
* * *
平泉での義経の生活は、表面的には平穏に過ぎていった。しかし、それは表に見える部分だけで、義経自身の心の中には深い葛藤があるはず。
そして、月子もまた……。
二年後の衣川での義経の死を阻止するためには、どう考えても方法は二つしかない。泰衡が裏切る前に、頼朝に決戦を挑むという方法が一つ。
もう一つは、伝説を信じて北へ逃れるという方法だ。
どちらにしても、一人の力ではできない。そして、どちらを選ぶかは、義経自身の判断に任せなくてはならない。
義経の判断を仰ぐためには、ありとあらゆる状況を義経に知ってもらう必要がある。
頼朝が奥州を狙っていること。あくまでも義経と和解する気持ちがないこと。泰衡が、やがて敵にまわること。そして何より、秀衡の命の灯火が燃え尽きようとしていること。
すべて、義経にとっては辛いことばかりなのだ。進言によって、義経が月子を疎ましく思う可能性もないとは言い切れない。
それがなくても、義経がその事実――義経には辛いばかりの――をどれだけ受け入れられるのか、予想もつかない。
『せめて、秀衡の死を確認してからにしようか』
そう思うこともあった。しかし一方では、秀衡なくして鎌倉との戦に勝てるという自信もなかった。
そんなある日、月子は義経に呼ばれた。部屋に入ってみると、義経が一人で待っていた。これは、めずらしいことだった。義経が何か話そうとするときは、必ず郎等の誰か――ほとんどの場合、忠信が―― 同席していた。
「失礼いたします」
前に座ると、義経はいきなり切り出した。
「相談がある」
「はい」
「今日、秀衡どの、基成どのとお会いした」
義経が、伽羅の御所を訪れていたのは気づいていた。
「どちらかを選択せよと言われた」
「どちらか?」
「つまり、こちらから鎌倉に侵攻するか、それとも、鎌倉からの進軍を待って迎撃するか……」
射貫くように見つめる義経の視線に、月子は思わず、息を呑んでいた。
平泉編、開幕です。
この先、義経は選択を迫られ、月子は「知っている未来」と向き合うことになります。
ここからが、本当の意味での歴史への挑戦です。




