22 月の下での約束
春の伊勢。
未来を知る者と、知らぬ者。
月の下で交わされる想いと約束を、どうぞ見届けてください。
春になっていた。月子は伊勢に来ていた。
忠信の愛を受け入れてから六日後。義経は京都を退き、西国へ向けて船を出した。
月子はその船が嵐で遭難することを知っていた。だから、義経を止めようとした。だが、追討の軍に追われ、義経には船に乗る以外の道がなかった。
案の定、船出の直後、嵐に遭い、一行は散々になってしまった。月子は、義経とも、忠信とも離れ離れになり、気づいたときは雑色の喜三太と二人だけになっていた。
冬の間、月子は義経を捜さなかった。吉野にいることは知っていたが、雪深い山を越えて無事に会えるとは思えなかったし、女人禁制の地もある。静御前が義経と別れねばならなかったのも、そのためだった。
春になれば、義経は伊勢に来る。
三月十五日、伊勢大神宮に太刀を奉納する――その記憶を、月子は信じていた。
忠信に会えないのは淋しかったが、ただ待つつもりはなかった。限られた時間を、無駄にするわけにはいかないから。
女の旅装束に身を包み、京に戻った。武士の姿で歩き回ると、平氏の残党か義経ゆかりの者か…とあやしまれる。その点、女姿で雑色の喜三太をともにして歩いているほうが、怪しまれない。笠に虫の垂衣という布をかければ、外から顔を見られずにすむというのも都合がよかった。喜三太は「月影さまは、美しいから女装が似合う」と思いこんでいた。
月子の目的は、その姿で京の公家を訪れることだった。「平月子」の頃に知っていたと思われる人物を選んで。月子の顔を見た公家は、みな、
「源義経の妻になられたというのは本当だったのですか?」
と尋ねた。そのたびに、
「はい」
と答える。公家の中には、頼朝のことをよく思っていない者が多かった。また、頼朝の力を後ろ盾として権力を持ち始めた一条能保に反発している者も少なくない。おかげで、春になる頃には、ずいぶんとたくさんの人間に義経への助力を約束させることができていた。京に味方をふやしておけば、西国に義経の王国を作ることが楽になる。それが、義経の今の望み。しかも、それができれば、忠信の京での死も防げるはずだ。
伊勢神宮の緑は、春の陽光を受けてきらきらと輝いていた。それとなくその寺の周辺を歩き回ったが、さすがに、義経一行の姿は見られなかった。夜にもう一度訪れてみることにした。
夜。鳥居の陰に隠れて様子をうかがっていると、二、三人の武士が門から出て来た。顔はよく見えなかったが、その後姿だけで誰なのか分かった。そして、月子は、自分の胸が早鐘のように鳴り出しているのを知った。それは、月子にとって意外なことだった。忠信に恋していても、冷静さは失っていないつもりだったから。
動けなくなってしまった月子に、喜三太が声をかけた。
「あれは、伊勢さま、佐藤さま、それに、おそらく堀さまだと……」
「分かっている」
月子はこわばっている足を無理矢理動かし、彼らの方へ歩いた。最初に声をかける相手は、もちろん……。
「忠信……」
桜の木影から声をかける。忠信は立ち止まった。
「誰だ?」
虫の垂衣の前をわずかに開く。
「月……」
人差し指を唇にあて、忠信の言葉を封じる。
さすがに事態を把握している忠信は口を閉じたが、見つめる目にうっすらと涙が浮かんでくる。そして、月子が幻でないのを確かめるかのように、両腕をがしっと掴んだ。
神宮に義経自身は来てはいなかった。太刀を奉納し大願成就の祈願をしたのは、忠信以下三人の郎等たちだった。彼らは、義経の潜む寺に月子を案内した。夜の闇に隠れて、忠信は何度も月子の手を握りしめてくる。その手の温かさに、自分も、そして忠信も、どんなにお互いを求めていたかを感じた。
「男姿しか見たことはなかったが、さすがは平氏の姫君だ。こんなに美しいとは思わなかった」
翌朝。義経と再会し、部屋の中に忠信と三人きりになったとき、義経は言った。褒め言葉は嬉しかったが、くすぐったくもあり、黙って微笑んでいると、義経は忠信に言った。
「忠信も、そう思うだろう?」
「はっ……」
答えた忠信は、首筋まで赤くなっていた。
「このほうが、旅も、そして仕事もしやすかったのです。でも、明日からはまた元の姿に戻ります。御大将の手足となって働くために」
「仕事? 一体、何をしていたのだ?」
「もう少し、お側によってもよろしいでしょうか?」
「かまわぬが……人に聞かれたら、まずいことなのか?」
月子がうなずくと、忠信が複雑な表情を見せて言った。
「俺は、席を外そうか?」
その憮然とした口調に、口元がほころぶ。
「他の郎等たちにぺらぺらとしゃべらないと約束できるのなら、いてもよい」
忠信はむっとした顔をして、黙って立った。すると、義経がそれを押し止めた。
「いてくれ。おまえは、私の一の郎等。秘密は持ちたくない」
忠信は不承不承に座りなおした。
「もう少し、近くへ」
月子が言うと、忠信は不機嫌そうな顔で隣に座った。
ひそめた声でささやく。
「今から私が申し上げる人たちに、ご連絡をお取り下さい。必ず、味方になってくださるはずです」
義経は、黙って聞いている。
「まず、丹後の局さま……」
「その方は、法皇さまの?」
丹後の局は、後白河法皇の寵姫なのだ。
「はい。そして、前摂政の藤原基道どの、刑部卿頼経どの、源通親どの、摂関家の家司をなさっている高倉範季どの……」
次々と挙げられる名前に、義経は驚きを隠せない。
「どうして、それほどまでにたくさんの?」
「この姿で、会いました」
「平月子として会ったのか?」
ふと思い出して、頭を下げる。
「お詫びしなければならないことがあります。会った方たちに『月子は、源義経の妻になったのか?』と問われましたので『はい』と答えてしまいました」
忠信の顔色がさっと青ざめたのは、すぐにわかった。言い訳を考えなければならない……と月子が思っていると、義経は笑った。
「私は一向にかまわないが……忠信に恨まれると、困るな」
忠信は驚いて声をあげた。
「ご存じだったのですか?」
義経は含み笑いをしながら言った。
「月影は上手に隠していたが、忠信は根が正直ゆえ、すぐに顔に出る。おまえの月影を見る目を見れば、いかに義経が鈍感でも気づかないわけにはいかない」
忠信は、真っ赤になってうつむいている。義経は忠信の肩に手をあてた。
「安心しろ。おまえの大切な人を取ったりはしない」
「は……」
忠信は、その大きな体からは想像もできないような、消え入りそうに小さな声で返事をした。
「私が、直接京に赴いた方がいいのかな?」
義経は、真顔に戻って訊いてきた。
「いいえ。京には、北条時政の手の者が常に徘徊しております。御大将自らおいでになるのは、あまりに危険。信頼できる郎等をお選び下さい」
「俺が! この佐藤忠信が参ります!」
忠信は、目を輝かせて言った。しかし、月子は、義経が返事をする前に思わず叫んでしまった。
「だめだ!」
「何だと?」
向きなおった忠信に、後先を考えずに続ける。恐怖が押し寄せ、胸がつぶれそうだった。
「忠信は、京に行ってはならない」
「何故だ? 俺では、力不足だというのか?」
忠信の不愉快そうな表情に、月子ははっと我に返った。行かせられない。けれど、まさか行けば殺される……とは言えない。恐怖に鈍った頭で、ようやく言葉を紡ぎ出す。
「そうだ。おまえのような単純な人間には、この仕事は無理だ」
「もう一度言ってみろ」
忠信に腕を捕まれる。本気で怒っているらしい。
制したのは義経だった。
「こんなところで、喧嘩などするな!」
忠信は、不承不承に手をはなす。しかし、不満が消えたわけではない。
「誰を京に遣わすかは、この義経があらためて検討する。明日にでも皆に言うから、今日はもう下がれ」
義経の部屋を出ようとしたとき、義経が言った。
「月影。もう少し詳しく話を聞きたい。おまえは残れ」
二人きりになると、義経は切り出した。
「忠信を、京にやりたくないわけでもあるのか?」
言葉に詰まる。言ってしまえば、簡単なことだ。「忠信を京に送れば、北条時政の手に落ち、死んでしまうかもしれません」と。しかし、そんなことは言えない。
「おまえが話をつけてくれた人たちの人数を考えると、こちらからも、少なくとも四、五人は使者を送らねばならないだろう。恥ずかしい話だが、大物浦で遭難して以来、私の郎等はずいぶんと数が減ってしまった。特に、信頼できる郎等となると……佐藤忠信をはずすとなると、かなり苦しくなる」
返す言葉は見つからない。
「だが、おまえがあんな風に言うからには、何か重大な理由があるのだろう。それならば、忠信抜きで考えるが……」
義経の言葉を聞いているうちに月子は冷静さを取り戻した。落ち着いて考えてみれば、ここで忠信をはずすのは得策とは言えないかもしれない。忠信の命を守るためには、京に足を踏み入れないのが一番いい。しかし、忠信がそれを承知するとは思えなかった。義経や月子の反対を押し切って、こっそり一人で京に入ってしまうかもしれない。それこそ危険だ。その上、一の郎等である忠信がこの仕事からはずされたら、他の郎等たちがどう思うか……忠信に何か不備があったと勘ぐられたら、忠信がやりにくくなるだろう。
「忠信を、京への使者となさって下さい。ただ、常に私と……月影と行動をともにするという条件を付けてくださいませんか?」
月子は心の中で何度も繰り返す。
『忠信を、必ず守ってみせる』と。
義経の部屋を辞した後、月子は忠信の姿を捜した。忠信は庭にいた。矢をつがえずに、弓だけを引いていた。月子が近づいていっても、忠信はちらりと見ただけで、声もかけないし弓を引くこともやめない。月子は庭石の一つに腰をかけて、黙って忠信の姿を見つめることにした。忠信は短気だが、根に持つ性格ではない。落ち着いて訳を話せば、きっとわかってくれる。機嫌が直るまで待とう。
「何か用か?」
ついに根負けをした忠信が言った。
「別に……おまえのそばにいたいだけだ」
口をついて出てきたのは、そんな言葉。言った月子自身も意外だったが、それが正直な気持ちだったことに気づく。数か月ぶりで再会できた今、面倒な話などしたくない。それよりも、忠信の側にいたい。その姿を見ているだけでいい。京で画策している間、いつも心の隅には忠信がいた。早く会いたいと……その腕に抱かれて眠りたいと……毎日、毎日思っていた。月子の言葉を耳にすると、忠信はあきれた顔で弓を下ろした。
「まったく、分からない奴だ」
「まだ、怒っているのか?」
「怒っているのではない。情けないだけだ」
忠信は、ふたたび弓を引いた。
「俺はそんなに信用がないのかと思ってな」
「そうではない」
心は落ち着いていた。忠信の怒りがおさまっているのなら、説明はたやすいことだ。
「京には関東の武士がうろうろしている。忠信は、名前も顔も知られ過ぎている。見つかったら、ただではすまない」
忠信は弓を下ろし、近寄ってきた。そして、月子の顔をのぞき込むようにして言った。
「俺が、そんなへまをやると思っているのか? 北条の手に落ちるようなことはない。もし、捕らえられそうになったら……」
「死を選ぶ……というのだろう?」
忠信の顔を見返して言う。
「だからこそ、行かせたくなかった!」
知らず知らずのうちに、叫んでいた。
「佐藤忠信という男を知っているから……名を汚す前に、死を選ぶことを知っているから……おまえに死なれたら……私はどうしたらいいのだ」
言った声がしめっているのに気づき、涙で忠信の姿がにじんでいることにも気づく。
「月子……しかし……」
けれど、忠信の困惑した表情を見て、浮かんできたのは微笑み。泣いたり、笑ったり、自分ながら忙しい人間だと思う。
「分かっている。一の郎等である忠信が、自分だけ安全な場所にいるわけにはいかないのだろう。だから、御大将にお願いしてきた。忠信を京に行かせるときは、私と行動をともにすることを条件としてくれ……と」
それだけ言うと、忠信の返事を待たずに立ち上がった。このあとの願いは一つ。庭の一本の木を指して、言った。
「夜になったら……待っている」
月は、ほぼ満月に近い形をしていた。薄い雲がかかり、青白い光を見せている。月子が空を見上げていると、不意に後ろから抱きしめられた。それは、広く厚い胸と力強い腕。
「逢いたかった……」
その腕の主はささやいた。
「生きた心地がしなかった。おまえの姿を見るまでは……」
月子がふりかえると、忠信は言った。
「何度も、うなされた。おまえが海の底に沈んでいる夢を見て……」
その時、月子は初めて気づいた。自分は忠信が生きていることを知っていたが、忠信のほうは月子の生死も分からなかったのだということに……。
「心配かけて……すまなかった」
「謝らなければならないのは、俺の方だ。静御前は、御大将と一緒に浜に打ち上げられた。それは、御大将が静御前の手をはなさなかったからだ。あの嵐の中でも……」
忠信は抱きしめていた手をはなし、うつむいて続けた。
「俺は、おまえのそばにいてやれなかった」
月子は忠信の手を両手でくるんだ。
「ならば、約束してくれ……これからは、絶対に私のそばを離れないと」
「月子……」
忠信は抱きしめようとした動きを不意に止め、月子を面映ゆそうに見つめた。
「どうした?」
尋ねると、苦笑いに変わった。
「その姿だと……」
月子は、まだ女装束のままだった。
「おかしいか?」
「いや。きれいだ。だけど……まるで別人のようでな……平氏の姫君だったんだなとあらためて思うと……なんだか……」
月子は、忠信の胸に身体をあずけた。
「この姿の私も……平月子という名の平氏の姫も、月影という名の義経の郎等も、どちらも私なのだ。どちらの私も、受け入れてはくれないか?」
そうささやいた。そして、心の中では、『喜多見月子という名の私も……』と付け足していた。
「分かった」
忠信は言った。
「お前がどんな人間なのか、今の俺には、半分も分かってないような気もするが……一生かけてでも、すべてを知り尽くしてやるさ」
月子は身体を忠信にあずけたまま、手を後ろに回し帯をほどく。
その動作に気づいた瞬間、忠信の身体に緊張が走る。
「いいのか、こんなところで?」
忠信は、耳元でささやく。月子は笑って夜空を指した。
「月が出ている」
お読みいただき、ありがとうございました。
「離れない」という約束が、
これからどのような意味を持つのか——
完結まで残り9話。次回以降も、お付き合いいただければ嬉しいです。




