18 心の痛み
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この回は、物語の流れが大きく動く回です。
月子の心と、義経の選択、その両方にご注目ください。
冬が終わろうとしていた。このところ義経は毎日のように後白河法皇のもとに出向いている。おそらくは「頼朝追討」の院宣を受けようとしているのだろう。
あの病以来、義経の中で何かが変わってしまった。今までは、どんなにつらくあたられても、また、怒りのあまり「関東に恨みのある者は自分についてこい」と言ってしまっても、それでも義経は心の中で頼朝を兄として慕っていた。
しかし、今の義経は違う。本気で行家と手を組み、頼朝を倒そうとしている。そんな義経に対して、月子は何も言えないでいた。ようやく懊悩から抜け出し、生きる道を見つけたと信じている彼に、軽々しい忠告などできない。
他の郎等たちは、義経と心を同じくして「頼朝追討」に動いていることをむしろ喜んでいる。だから、忠信にさえ心をうちわって話をすることができない。言えば、彼は真剣に聞いてくれるだろうが……自分と、他の郎等の板挟みで苦しませるだけと分かっているから、月子は言えなかった。
『このまま時が流れれば、あと四年足らずで義経は破滅してしまう』
堀川館の庭を流れる水を見つめながら、考える。考えれば考えるほど、悲しく、絶望的になってくる。涙はふいにあふれ、一度出てしまった涙は止めることができない。その時、背後で足音が聞こえた。誰かがやってくる。それが誰であれ、涙を見られたら何と言い訳したらよいのか分からない。月子は急いでその場から走り去り、厩舎に向かった。
厩舎には、義経の馬の手入れをしている杉目小太郎行信の姿があった。行信は月子の姿を見ると、さっと身を退き頭を下げた。黙って行信にうなずいてみせ、自分の馬を引き出す。隣には、忠信の馬がいる。一人で遠乗りに出かけるのは、初めてのことだった。月子は一抹の寂しさを感じながら、馬をひいて外に出た。
忠信はいないのに、月子は自然といつも忠信と駆けていた道を選んでいた。しばらく走ったとき、後ろから誰かが追いかけてくるのに気づいた。やはり忠信だった。顔には、泣きはらした跡があるにちがいない……忠信には見られたくない……その気持ちから、月子は馬をせかした。しかし、馬には心の動揺が伝わってしまったのだろう。月子の方にも油断はあった。馬の足が乱れた……と思った瞬間、月子は地面に投げ出されていた。身体に衝撃が走り、川原に落ちたことを悟るが、体勢を立て直すことができない。坂を転がっていったことまでは感じていたが、月子はそのまま気を失った。
月子が気づいたのは、顔に冷たい水が落ちるのを感じたからだった。目を開けると、忠信が心配そうな顔でのぞき込んでいた。忠信は、川原の水で額を冷やしてくれていた。
月子はゆっくりと起きあがった。
「大丈夫か?」
身体を動かしてみる。あちこち打撲で痛いが、そんなにひどいことはないようだった。
「ああ」
そう答えてから、はっとする。
「馬は?」
継信の……忠信の兄の形見ともいえる馬だ。忠信は笑って、川原の上の方を指した。いつものように、二頭の馬は木につながれていた。
「すまない」
忠信は微笑んだ。
「一人で遠乗りに行ったりするからだ。何故、俺を誘わない?」
「……一人になりたかったのだ」
そう言って、立ち上がろうとしたとき、足首に痛みが走る。よろける月子を、忠信が背後から支えた。
「痛むのか?」
「ああ。少し」
そっと足をおろしてみる。少し筋を痛めたらしい。だが、歩けないこともない。
「大丈夫だ」
しかし、忠信は月子を支えている手をはなそうとしない。
「大丈夫だ。はなしてくれ」
もう一度言う。だが、忠信はいっそう強く月子を抱きしめ、はなそうとはしない。
「忠信!」
少し強い口調で言ってみる。しかし、忠信は力をゆるめない。
「月影……俺は、前に言ったことを撤回する」
「前に言ったこと?」
「おまえが、死んだ平氏の恋人を忘れるまで待つと言ったことだ」
月子が返事をしなかったのは、どういう意味なのか、すぐには分からなかったからだ。黙っていると、忠信は続けた。
「俺はもう待たない」
その声音に含まれている激情に気づき、月子は怖くなる。背後から抱きしめているのは、間違いなく「男」。友情という殻をかぶせ、友人という名のつきあいを続けていても、忠信の心は「男」として月子を求めている。
怖くて……もがいた。忠信の腕から逃れようと。しかしできなかった。忠信は月子の身体をしっかりと抱きしめてしまっていて、どんなにもがいてもびくともしない。紛れもない「男」の力。
忠信の体は大きくたくましい。広い肩幅と厚い胸に、いまさらながらに気づく。恐怖は、何故か安堵感に変わっていく。自分がすっかりとくるみこまれてしまったような気分。安心のできる場所。月子の抵抗が止んだことに気づいたのか、忠信は言った。
「忘れられなくてもかまわない。おまえの心の大部分をその恋人が占めていても、それでもいい。おまえの心のほんの片隅でいいから、俺をおいてくれないか?」
「忠信……」
「死んであの世とやらに行ったなら、おまえは平氏の恋人のところへ帰ればいい。それまで……生きている間だけ、おまえの残りの人生を俺にくれないか?」
『はい』と答えたくなっている自分を知る。しかし……できない。許されないことだ。こんなにも真剣に愛してくれる人に、同じだけの愛を返せないのなら、受け入れるべきではない。
「忠信……はなしてくれ」
思っていた以上に月子の言葉は、断固として響いた。それを忠信も感じとったのだろう。そっと月子をはなした。月子はふりむき、忠信をまっすぐに見る。
「佐藤四郎忠信ともあろう者が、そんな自分の値打ちを下げるようなことは言ってくれるな。こんな……平氏の死に損ないではなく、全身全霊をかけておまえを愛してくれる女がきっと見つかるはずだ。おまえには、それだけの価値があるのだから」
月子はそれだけ言うと、痛む足をかばいながら馬のつながれている木に向かった。その月子に向かって忠信は叫んだ。
「俺は、百人の女より、おまえが欲しい!」
思わず足を止めてしまう。忠信は土手を駆け上がり腕をつかんだ。
「待つつもりだった。おまえが忘れるときまで。だが、俺にはもう時間がない」
「時間がない?」
それは、月子にとって怖ろしい言葉だった。有盛に対して、何度そう思ったことか。
「御大将が頼朝追討の院宣を願い出ているのは、おまえも知っているはずだ。もし、戦になれば、俺は武士……いつ死ぬか分からない。明日の命は期待できないんだ」
忠信の手をそっとはずす。
「すまない」
と小さくつぶやき、月子は馬に乗った。
「時間がない」という言葉は、月子を混乱に陥れていた。頭の中を整理しなければ……冷静に考えなければならない。しかし、川原を駆ける月子の頭の中では、忠信の『俺には時間がない』という言葉が何度もこだまし……冷静な思考を阻んでいた。
まもなく、僧兵である土佐坊昌俊が、九十騎あまりの郎等を引き連れ入京したという知らせが入った。
その日の夕方、月子は忠信を捜した。今夜、夜討ちを受けるのは間違いがない。準備をしておかなければならない。そう思って館内を捜し回ったのだが、忠信の姿はなかった。忠信どころか、その日は他の郎等の姿もなかった。
堀川館で夜を過ごす者は少ない。京の街にそれぞれ通う女がいるのだから。しかし、忠信の姿が見えないというのはめずらしいことだった。郎等たちの間でも、京に女のいないのは、忠信と月影の二人だけと言われていたし、事実、忠信が堀川館以外の場所で夜を過ごすことはなかった。月子が忠信の行き先を考えていると、喜三太が呼びに来た。
「月影さま、御大将がお呼びです」
静の小館を訪れると、義経は尋ねた。
「月影、土佐坊昌俊をどう思う?」
小館を出る頃には、すっかり夜になっていた。耳には、義経の最後の言葉が残っていた。
「これが、私が兄上に対する最後の賭けだ。土佐坊が襲ってこなければ、もう一度兄上を信じてみる。襲ってきて……もし私が死んだら、それまでのこと。生き延びられたら、その時はこちらから兄上と兄弟の縁を切る」
『頼朝追討』の院宣を申請していても、まだ義経の心は揺れていたのだろう。しかし、今夜の夜討ちは決定打となるはずだ。だからといって、土佐坊の襲撃を止める手だてはない。
「ともかく、忠信に話さねば……」
もう戻っているだろうと、忠信の部屋をのぞく。格の高い郎等には、門近くに一部屋が与えられていた。忠信は東門近く、月子のそれは西門近くにあった。しかし、忠信の姿はなかった。
「月影さま?」
声をかけたのは、喜三太だった。
「忠信は? 夕方から姿が見えないが……」
喜三太は笑った。
「佐藤さまにも、ついに通う方がお出来になったようで……」
「……いつから?」
月子は震える声を隠して訊いた。
「ここ、二、三日のことですが……。月影さまも、そろそろおさがしになられたらいかがですか?」
上の空で訊いていた月子には、何のことか分からなかった。
「月影さまほど美しい方なら、いくらでもお相手は見つかるでしょうに」
言われて、言葉の意味を納得する。忠信に恋人ができた……という事実。しかし、月子の心はそれについて考えることを拒否した。そんな暇はない。間もなく、土佐の坊が堀川館を襲撃するのだから。考えたくないことから心を閉ざす。逃避かもしれないが、とにかく今はやることがあった。……ありがたいことに。
「それでは、今夜、この館にいるのは?」
まず、喜三太に尋ねる。もちろん、喜三太に訊かずとも、月子は知っていた。しかし、気持ちの整理のための時間を稼ぎたかった。
「女をのぞけば、御大将と、月影さま。それにこの喜三太」
「喜三太」
月子の切羽詰まった声音に、喜三太の顔色が変わる。
「おそらく、今夜、大変なことが起こる。覚悟しておいてくれ」
まだ十代であろう雑色は、今度は目を輝かせる。
「噂は本当だったのですね! 月影さまは『毘沙門天の遣い』だと」
「誰がそんなことを?」
「御郎等は、みな……」
思わず、ため息がもれるが、そんなことにかまっている暇はない。
「喜三太、弓はできるか?」
「多少は……」
「ならば、ついてこい」
月子は喜三太を自分の部屋の前まで連れていった。そして、部屋の中から弓矢を出し、手渡した。戸惑う喜三太に、言う。
「今夜、夜討ちを受ける。戦えるのは、おまえと私、それに御大将だけだ。頼むぞ」
「はっ!」
喜三太は喜びに顔を輝かしながら、去っていった。
月子は自分が戦力にならないことを知っていた。武士らしい姿はしていても、実戦の経験などないのだから。壇ノ浦の戦の時は有盛の舟に乗っていたが、結局何もできなかった。戦えなくても、何かできることはあるはずだ。部屋に戻った後も、月子は考え続け……そして、思いついた。
深夜、土佐坊の一隊が鬨の声をあげた。
月子は、すでに鎧を身につけている。部屋の外に飛び出すと、手に弓を持った喜三太もそこにいた。
「門の陰から、射ろ。門を盾として、身の安全を図るのだ。騒ぎを聞きつければ、他の郎等たちも戻ってくる。それまで踏みとどまってくれ!」
喜三太は、門に向かって走って行った。
次に、静の小館に走る。義経を起こすのは静に任せ、庭の中央に行く。
月子は自分にできる一番のことは、できるだけ早く郎等たちを呼び戻すことだと判断した。庭の中央に準備しておいた枯れ木の山に火をつける。狼煙のつもりだ。六条堀川の辺りに火の手が上がれば、郎等たちは必ず戻ってくると信じていた。
炎は空高く燃え上がった。これで、みんな戻ってきてくれるはず。おそらく……忠信も……。そう思った瞬間、夕方、拒否をしたはずの思考が戻ってきた。忠信に、恋人ができた……。この事実が、自分に与えた衝撃の強さを思う。口は、勝手に独り言を言っていた。
「いつまでも待つと言ってたのに……百人の女より、私が欲しいと言っていたのに……その舌の根も乾かないうちに、新しい恋人を作るのか? 佐藤四郎忠信は、そんないい加減な男だったのか?」
そう言う自分に、もう一人の自分が叱りつける。
「忠信を責める権利はない。彼の愛を拒否したのは自分なのだから。他の女性をさがせと言ったのは、誰でもない自分じゃないか」
そして、思い知らされてしまう。心の痛みに。「友人」という言葉でごまかしていたのは、月子自身の弱さだと。もう恋愛で傷つきたくないという思いから、卑怯にも自分の心を閉ざしていたのだと。
月子は気づいた。忠信を愛していることに。気づくのが遅すぎたが……心から、彼を愛している。空を見上げ、涙を拭う。泣いている暇はない。今は……とりあえず今は、他にすることがある。
お読みいただきありがとうございました。
次回、堀川館の夜。
その選択が、どんな結果を招くのか――。




