10 生きよ、と言われた日
壇ノ浦の戦いの始まりです。
歴史の転換期となるこの戦いで、月子はどのような選択をするのでしょうか。
どうぞお楽しみください。
「え?」
朋人が疲れからうとうととしていた時、月子の心の声が、朋人の耳に飛び込んできた。朋人は、飛び起きて画面を覗き込む。
月子は、有盛の胸にその身を預けていた。彼女の心の声がナレーションのように聞こえてくる。
『有盛さまひとりを死なせはしません。壇ノ浦では、私も……』
朋人は、思わず叫んでいた。
「月子、死ぬ気?」
月子は、滅びゆく平氏に――いや、愛する有盛に――殉じようとしている。
その可能性だけで、身体が震えてくる。
月子は義経に会うために、あの時代に飛んだ。だが、最近、一度だけ見えた時でさえ、月子の心は動かなかった。
もはや「喜多見月子」よりも、「平月子」が彼女の心を支配し始めているのではないか……朋人はそう危惧した。
* * *
軍議の前に月子は兄・時実に頼み事をした。時実はいぶかりながらも、願いをかなえてくれた。時実が用意してくれたものを受け取り、月子は鏡の前に座った。髪を高く結い上げる。そして時実が用意してくれた直垂を身につける。男装して軍議に出た月子を、男たちは驚いて見つめていた。中でも、知盛と有盛の衝撃の深さを感じる。
「月子、その姿は?」
とがめるように問いただす知盛に、月子は答えた。
「私も、一緒に戦います」
有盛が何か言おうとする前に、軍議は始まってしまった。
知盛は、言った。
「まず、全軍を三陣に分ける。第一陣は……」
ひととおりの指示が終わると、教経が尋ねた。
「月子に策はないのか?」
教経が月子を「毘沙門天の遣い」と認めた証だった。
頭の中に、先日「打つ手はない」と判断した三つの説が浮かぶ。無駄かもしれないが、最後まであきらめるわけにはいかない。
「まず、潮流です。正午前に勝敗は決めねば不利になります。できるだけ早く戦闘を開始しましょう」
全員が頷く。
「次に、義経が得意とする奇襲。義経が漕ぎ手をねらい、我々の機動力を失わせる可能性があります」
「まさか……いくら義経でも、そこまではしないだろう」
宗盛が口をはさんだが、月子は無視して話を続けた。
「さらに、水軍の裏切りにも注意を。特に、阿波民部重能には、お気をつけ下さい」
知盛はふっと笑った。
「阿波民部は、はじめから信用していない」
「しかし、すべての水軍が裏切るということはないだろう」
この期に及んでも、宗盛はそう言った。反論のために口を開こうとする。しかし、その前に、有盛が言う。
「絶対大丈夫とおっしゃっていた、熊野別当湛増は、源氏に味方してしまったではありませんか。月子の言うとおりに前もって手を回しておけば、熊野水軍を敵に回すこともなかったかもしれません」
若い有盛に言われ、宗盛は言葉を失った。以前の有盛なら、総帥である宗盛に逆らうようなことは、決して言わなかっただろう。知盛の言った『自信に満ちて、落ちついている』というのは、確かだった。
軍議が終わったあと、有盛に声をかけた。
「有盛さま、お願いがあるのです」
有盛は、一瞬、まぶしそうな目をした。
月子は、有盛を居室へ導いた。
「どうして、そんな顔をなさっているのですか?」
二人きりになって、最初に言ったのはその言葉だった。有盛が、二人きりだというのに少し離れて、黙って月子を見つめているのが不思議だったので。
「何だか、別人のようで……」
有盛は、照れくさそうに言った。
そう言われて、有盛が月子の男装に戸惑っているのだと気付いた。
「変わったのは服装だけ。心は、以前の私と何も変わっていません」
そう微笑むと、有盛は黙って、月子を抱きしめた。
「鎧の着け方を、教えてください」
時実に用意してもらった鎧兜を指す。
「……本気ですか?」
まじめな顔でうなずいてみせる。
「……重いですよ」
「ですから、早く慣れたいのです」
「戦に出るというのですか?」
「有盛さまと一緒に戦いたいのです」
まもなく、平氏は滅びる。有盛も入水する。しかし、月子は生き延び、やがて義経の妻となる。
ここに来たばかりの月子であれば、喜ぶべきことだった。義経を研究するためには、できるだけ彼の身近にいる方がよい。それには「妻」という立場は最高だろう。
月子はもう、それをうれしいと思えなかった。今、月子が望んでいるのは、平氏の一門として、有盛とともに死ぬことだった。
もちろん、現代に帰るという道もある。朋人は、強く願えば帰れると言っていた。
今さら帰ることはできない。
まだ若い有盛を翻弄し、歴史の流れを変えようとあがいたあげく、『毘沙門天の遣い』などと言われるまでになってしまった。そうやって、この時代の人々を惑わせておいて、自分だけ平和な場所に戻れるはずもない。
月子の真の思いは有盛には計りしれなかっただろうが、黙ってうなずき、鎧を身につけていってくれた。
平氏の水軍は長門彦島を出陣した。月子は、資盛、有盛兄弟の舟に乗っていた。
早朝、行動を開始した。潮流の変わる正午までに、戦を終わらせなければ平氏に勝ち目はない。知盛の声が、平氏軍に響き渡る。
「天竺、震旦にも、わが朝にもならびなき名将勇士といえども、運命尽きれば力及ばず、されど名こそ惜しけれ。東国の者どものに、弱気見せるな。いつのために命をば惜しむべき。これのみぞ思うこと」
その声に、平氏軍の気勢は上がった。甲板に立つ月子も、その声を聞き心が震えた。平家物語で繰り返し読んだ言葉を、この耳で聞けるとは思わなかった。
潮流は、予想よりは強かった。激しい矢合わせの中、潮流に乗った平氏は有利に戦いを進め、源氏軍は引く一方だった。胸に、かすかな希望の灯がともる。もしかしたら、このまま勝てれば……みんな死なずにすむかもしれない……。
だが、その希望も義経の取った奇策によって打ち砕かれる。源氏は、漕ぎ手めがけて矢を放ちはじめた。漕ぎ手を失った平氏の兵船は潮に流され、戦列を乱し源氏の反撃を受け始めた。
「やはり月子どののおっしゃることは正しかった」
有盛は月子に言った。その表情には、わずかにあきらめの色が見えた。しかし、兄の資盛はそうではなかった。
「何という卑怯なことをするのだ。戦では漕ぎ手をねらわないのが、武士の礼儀というものだ」
資盛の目は怒りに燃えていた。
「兄上。戦の常識を破る――それが奇襲というものなのです。これも、義経という大将の才覚の一つなのでしょう」
資盛は、まるで不思議なものを見るように、有盛を見つめていた。
潮流が変わった。潮流の変化を見切った上での奇策だった。
次々と水軍は平氏を裏切り始める。山峨秀遠も松浦党も戦線を離脱していった。
有盛の表情はあきらめを越えて、なにかすがすがしくさえあった。もうだめだと言うことは、未来の読める月子でなくとも……おそらく平氏の者なら皆分かっているのだ。
月子を抱きしめた温かい身体も、冷たい海に沈む。
そう思うと、涙を止めることができない。
不意に、有盛は言った。
「月子どの……御座船に戻りなさい。小舟を出しますから……」
優しい穏やかな言い方だった。
「ここにいては、あなたの命もあぶない。御座船には、あなたの父上もいらっしゃる。今なら、小舟で御座船に戻ることもできる」
「いやです!」
月子は叫んだ。
「私はここに、有盛さまのそばにいます! 何故、一緒に死のうと言ってくださらないのですか?」
すがりつく月子を、有盛は優しく抱きしめた。
「あなたと過ごせた日々、私は幸せだった。今、死んでも悔いはない。けれど、やはりあなたには生きてほしい。女なら、生き延びることもできるだろう。あなたをここで道づれにしたら、私は悔いを残したまま死なねばならない」
「生き延びたくなどありません。有盛さまのいない世に生きて、何の意味があるのです」
そう言ってすがりつく月子の唇に、有盛は自分の唇を合わせた。周囲の者の目も気にせずに……。そして、言った。
「私は、あなたに生きていてほしい」
「生き延びたら……」
それを言うには、ためらいがあった。だが、言わなければ、有盛の考えを変えさせられない。
「私は、源氏の男のものにさせられてしまうかもしれません」
「それならば、それでもいい」
「有盛さま!」
思わず声を上げると、有盛は静かに言った。
「あなたがいい縁に巡り合えて幸せになれるのなら、それでいい」
有盛は、かすかに笑うと言った。
「月子どのが、ほかの男と契りを結んだからといって、化けて出たりはしないから……」
有盛はそれ以上は言わせなかった。もう一度だけ強く抱きしめると、ぱっと突き放した。前もって郎等は命じられていたらしい。何人かの武士が、いやがる月子を無理矢理小舟に連れていった。
「有盛さま!」
何度も何度も有盛の名を呼ぶ。しかし、有盛は背を向けたまま、ついに一度も振り返らなかった。小舟に乗せられても、月子は有盛の名を呼び続けた。
「有盛さまっ!! 有盛さま!」
あがく月子を、武士たちが両脇から抱え込む。月子はその手を振り切った。そうして、船縁に立つ。このまま飛び込めば、死ねる……そう思った。
* * *
「だめっ!! 月子、死んではだめ!! あなたは、義経に会うために、そっちに行ったのよ! まだ、目的を果たしてない! ちゃんと義経に会って、研究を続けて!!」
* * *
ふと、なにかが、月子の動きを止めた。心の中で、声が聞こえたような気がした。誰の声だったのか、月子には分からない。有盛のものか、知盛のものか……あるいは、月子自身の声か……。
一瞬のためらいを、武士たちは逃さなかった。月子を抱きかかえ、小舟の中に連れ戻す。倒れ込むように、船底に座り込んだ月子は、自分が死に損ねたことを自覚した。そして……もはや、壇ノ浦で死ぬことはかなわないと、悟った。
目を上げると、少し離れた場所に有盛の乗る舟があった。有盛は、もう背を向けてはいなかった。こちらを向いて、月子をまっすぐに見つめていた。
「有盛さまー!」
呼んでも、声は届かない。ふたりの距離は、それほどまでに離れてしまっていた。
声は届かなくても、有盛の姿は見える。その表情からは、安堵……そして、本物の愛情が見えた。
月子は死を望んでいた。しかし同時に、自分は死なないという確信もどこかにあった。
有盛は、月子の揺らぎに気づいていたのだろう。それでいて、それを責めるようなこともせず、ただ月子の幸せだけを願ってくれた。
月子はようやく悟った。守っているつもりだったのは自分だけ。有盛こそが、愛し、尊敬するに足る男だったのだと。
月子は、小舟の中で、声を上げて泣いた。
御座船に着いた月子は、伯母にあたる平時子とともに安徳天皇のそばに座らされた。心の痛みに、何も考えることができない。思い浮かぶのは、有盛の言葉、有盛の表情だけ……。
そのとき、知盛が入ってきた。
「戦は、どうなりましたか?」
尋ねる時子に、知盛は、
「見苦しいものは、みんな海の中へ捨ててください」
とだけ答えた。そして、みずからいくつかの品を手に取って出ていった。その言葉に、終わりが近いことを悟る。時子や、その娘で、安徳天皇の母である徳子の泣き声を背に、月子も外へ出た。
夕陽は、今まさに水平線に沈もうとしていた。知盛は、それをじっと見つめていた。
知盛は振り返った。
「月子か……有盛の船にいたのではなかったのか……」
「有盛さまが、御座船に戻れ、と」
知盛は、海を見つめている。
「有盛は、義経について何と言っていた?」
「才覚のある大将だと」
知盛は微笑んだ。
「その通りだ。私も、そう思う。負け惜しみでなく、敗れたのが義経ほどの武将相手だったことを、平氏は誇りにしてよいのではないかと思う」
そう言う知盛の表情は、不思議なほどすがすがしかった。
「私も誇りに思います。知盛さまのような方のおそばにいられたこと……そして……」
月子が言いよどんだことを、知盛は察してくれた。
「有盛に愛されたこと……か?」
「……はい」
「月子……死ぬなよ」
「え?」
「何があっても、生きろ。これからの世を、見届けよ」
知盛の目の中に、有盛と同じ愛情を月子は見た。
愛しているから、生きていてほしいと願う。自分の幸せを犠牲にしてでも、相手の幸せを願う。
そして気づく。自分が有盛を愛したことも、また真実だということに。自分の愛も恥じるべきではない。月子は、そう思った。
義経に会うために来たこの世界で、有盛と愛し合ったことも、きっと、なにかの意味があったのだ。だが、もっと、あるはずだ。月子が、この世界にやってきた、さらなる意味が……。
小舟の中で、夕日に真っ赤に染まる海を見つめる。
月子は生き延びる決心をした。だが、歴史どおりに源氏の捕虜になるつもりもない。それを避けるために、小舟でこっそりと御座船を抜け出したのだ。今は、平氏の最期を見届けるためにここにいる。船から人影が、一つ、また一つと、海中に没していく。あの中には、知盛や有盛の姿もあるのだろうか。逆光を受けて、黒い影にしか見えない。
あのとき、なぜ自分は海に身を投じることをやめたのか……。
声が聞こえた気がしたけれど、あれは誰の声だったのか……。
令和の時代で眠っている「喜多見月子」の声だったのではないか……と月子は思った。義経の行く末を見極めるために、月子はこの世界にやってきた。その目的は、まだ、なにも果たしていない。
これからだ、と「喜多見月子」は言いたかったのかもしれない。
あなたには、まだ、この世界でなすべきことがあると……。
* * *
「綺麗……」
朋人は、思わずつぶやいていた。
画面には、月子が見ている海が映っていた。
月子の目の前で、平氏の武士たちが次々と命を落としていく。朋人は、月子と一緒に平氏の最期を看取りたかった。
「不思議……どうしてこんな色……?」
画面に映る海は、緋色に染まっていた。
今まで、画面の中の映像は、古い白黒映画のように不鮮明なものだった。一部分に色が付くこともあったが、それでも、決して鮮やかな色ではなかった。けれども、今見える海の色は、鮮やかな緋色。
朋人は気づいた。この緋色は、月子の心が映えているのだと。
* * *
視界がぼんやりとかすんでいく。止めることのできない涙が、頬を伝うのを感じる。
平氏一門に生きた「平月子」のその滅亡を嘆く涙が……。
平有盛という恋人を失った悲しみの涙が……。
涙をぬぐうことはしない。これが、今の月子の偽らざる姿だから……。
滲んだ視界の残照映える海は……それでも、ただただ美しかった。
第一章・終
有盛との恋は、ここで終わりました。
けれど、それは無意味な恋ではありません。
月子がこの世界で生き続ける理由となり、
次の運命を選ぶ力となっていきます。




