目が覚めたら、婚約者の寝室の鏡になっていました。
目覚めたら私、イリス・ウェーバーは鏡になって壁に埋まっていました。
それも、婚約者様の寝室の姿見に。
(早く、早く何とかしないと、のぞき趣味の変態令嬢になってしまうわ……!)
18年生きてきて、初めてのことです。
カーテンから零れる朝日が、豪奢なベッドに横たわる婚約者様のお顔にかかろうとしていました。
このままでは程なく、起床されてしまいます。もし万が一ばれたら――厳格なテオドール様のこと、破談・破滅間違いなしです。
一生、後ろ指をさされて生きなくてはいけません。結婚どころか、友人も領地の牛さんたちだけになるでしょう。
それとも鏡になって覗いた罪で裁判にかけられてしまうでしょうか。そんな前代未聞の醜聞、誰も放っておきません。田舎も追われて誰も私を知らない土地まで、流浪の旅に出るはめに。
穏便に済ませてくださる――その光景は頭に浮かびませんでした。
なにせ、建国で王をお支えした武の名門・カルシュ伯爵家の嫡男。にもかかわらず魔物退治に率先して赴き、退治率、生還率共にトップ。
毎日、騎士団の統率と訓練に勤しまれる、それはそれは厳しいお方なのです。
エスコートの時以外は距離を十分を取られます。
年齢が4つも離れているせいで、子供っぽく思われているのかもしれませんが、笑顔一つ見せてくださらない。
こんな変態だと知ったらきっと許してくださらないでしょう。
それに、この方法が可能だと知られれば他の者も騎士団長を害する可能性もあるわけで……スパイだと疑われてしまうかもしれません。
そんなテオドール様だからこそ、焦れた私は魔が差してしまったのですが、それはいったん置いて。
(とにかく、脱出しなきゃ!)
自分の体がどうなっているのかもう一度確かめます。両手足はぎこちなく動かせるのですが、背中が埋め込まれたように不自由です。
視界は180度。壁に付けられた姿見はおそらく西側の壁。左手に扉があって、きっと私が表側しか見たことがない私室の――ああ、覗いてしまって大変申し訳ありません、テオドール様。
そして目の前、一枚の硬質のガラスのようなものがはまっているのです。
視界が開けているのはその長方形だけで、眼を動かしても左右は真っ暗。触れてみると、鏡のひんやりした感触が指先に伝わります。
叩こうとしてみましたが、びくともしません。だけでなく、私の体《《が》》揺れました。
声を出そうとして、無理であることを悟ります。鏡と一体化していたのです。
何故こんな荒唐無稽な出来事がすんなり理解できたかというと、理由は二つ。
ひとつは、テオドール様の部屋の姿見が、魔法の鏡だと知っていたこと。
遡れば王家の血を引くお祖母様がお持ちであった鏡は、真実を映す女神の祝福を受けていると言われていました。
もうひとつは、私が女神様に祈ったからです。
いっそのこと、テオドール様の部屋の鏡になりたい――と。
この大陸では多神教が主流、大抵の国は複数の神様方を同時に信奉しております。
我が国ではその中でも、気まぐれの神……いえ<偶然と契機の女神>フォルトゥーナ様を主神とあがめています。
というのも多くの神様方はあちこちの戦争やら災害やらの後始末、勇者を導いたりと大変忙しく、こんなおおよそ平和で小さい国を気まぐれにでも気にかけてくださるのは、フォルトゥーナ様だけだったのです。
偶然とチャンスの女神様は、時々、「起こりうる奇跡」のような偶然を叶えてくださると言われています。そして、それらしく時折しか、おいでになりません。
私は昔から神殿によく通っていましたので、それはもう奇跡についてたっぷり聞いてきました。
ですから遭遇確率を上げるためにと、毎日毎日、神殿に通った私の願いを、女神様は慈悲深く聞き届けてくださったのでしょう。
そう……何故あんな願いごとをしてしまったのでしょう。
いえ、本当は理由は、はっきりしていました。
……結婚生活が、不安だったのです。
騎士団長の妻の勤めを果たすことができるのか、何より、好かれていないのではないか、と。
ですので、テオドール様の普段のお姿を知っておきたかったのです。
女神様に誓って、断じて、変態趣味はありません。
「……ん」
麗しい低音と共に、鍛えられた長身がベッドの上で身じろぎをしておられます。そしてすぐに、簡素なナイトウェアに包まれたたくましい体を起こされると、床に降りられました。二度寝の誘惑に抗うのにたっぷり三十分は必要な私とは全く違います。
はっ、寝起きのお姿をまじまじと見てしまうなんてそんな失礼な――私は目を伏せました。これで足元しか見えません。
いっそ目を閉じてしまえば良いのですが、それはそれで不安だったり、もったいなかったり。
そんなことを考えるうちに、洗顔を終えられたらしいテオドール様が、スリッパの素足から伸びるたくましい足首、いえテオドール様がこちらに向かってきて、通り過ぎようとして……あ、後ろ歩きしました。
それからぴたりと足を止めて……、
「祈り続けて、ついに幻覚まで見始めたのだろうか。いやまて……そういえば、これは魔法の鏡だとかお祖母様が仰っておられた」
ええっと……何故正面を向かれるのです。
「ならば答えてくれ……鏡よ鏡、世界で一番美しいのは――」
低く呪うような声が耳に届きました。
なんということでしょう。
テオドール様は、ナルシストだったので……
「――俺の婚約者だよな?」
……。
…………。
………………きっと、夢を見てるのですね。
だってテオドール様、普段自分のこと「わたし」って仰ってますし。
ほっぺたをつねろうとしましたが、つねる手が届きません。
夢なら覚めるはず、とこれは視覚も活用するしかないと正面を向くと、やっぱり精悍な顔がそこにありました。
鍛錬の邪魔にならぬよう短く切った金の髪、この都市の平原を超えて広がる蒼林のような瞳。
目線だけは睨み付けるようですけど、止めて欲しいですね。自分を自分で睨むのは精神の健康に良くないです。
「何で答えない」
(……ひっ!?)
驚いた拍子に、がたん、と鏡が揺れました。
得意だったはずの笑顔ですが、突然私と目線が合って、睨み付けられて出てきませんでした。
うーん……というと、あの台詞は聞き間違いではない、ということでしょうか。
「……うん、今、声がしたな。……鏡よ、鏡」
「……」
「鏡よ、鏡。……返事をしろ」
「……はいっ!」
部下を呼ぶときのような声に、私は反射的に声を上げてしまいました。
すると満足されたようにテオドール様は頷きます。
「世界で一番美しいのは、俺の婚約者だよな?」
「……え、ええっと……」
もしかして、お返事はできるのでしょうかこの鏡。
「何故言いよどむ」
「聞き間違いでは……?」
だって、馬車の中でも、黙りこくって笑顔のひとつもなく。
パーティーでのテオドール様はエスコートは最小限でまるで勤務中のように油断なくあちらこちらを見回され。
勤務中や訓練中なら更に厳しく近づきがたい雰囲気で、私は遠巻きに見守るばかり。
遠征中なら、私ができることはお守りをお渡しして、女神様に祈ることだけ。迎えても気まずそうでした。
会話は最小限、聞き出した――と言えるか分からない趣味は鍛錬。お好きな武器は片手半剣。愛馬は栗毛。
食べ物ならお肉の赤身、でもバランス良く野菜も果物もナッツもいただきます。もりもりお召し上がりになるのに上品なのは流石にお育ちでしょうか。
「鏡が聞き間違えるなんてあるのか」
「普通の鏡なら、聞き間違えない……その前に耳がないですけど」
「正しく聞こえているようだな」
「うっ」
だって、聞き間違いではなかったとして、どう答えろというのでしょう。
もし、私が入っていることに気付かれたらのぞき令嬢の上に、とんだ自惚れやじゃないですか。
「その婚約者というのは、男爵家の令嬢、イリスでお間違いないでしょうか」
「間違いない。俺のこの顔を見ても微笑んでくれた、天使のような娘だ。後光が差していた」
確かに、顔が怖いって令嬢の間で評判でしたね。当世の貴族の子息は皆さん、美辞麗句がお上手でエスコートもスマートな方ばかりですから。
あと、私、笑顔だけは褒められます。不安な顔をしていると、下の兄弟たちや牛にまで不安が伝わってしまいますから……。
「それに夜会にもあまり出ないほど、つつましく……」
……それは実家が何着もドレスやら宝石やらを用意するお金がなく、ついでに私がロングスリーパーで夜会に出なかったからなのですが。
「……なのに婚約してから半年もの間、まともに会話もできないのだ」
「はい」
「これは彼女の輝く美しさに俺が惑わされているため、まともに会話できないできないとしか考えられない。
過去には炎竜を一団を率いて討伐した時だって、恐怖を感じた場面はあれど、冷静に対応できたんだ」
「……つまり魅了の魔術でも使っているのではと……?」
「断じてそんなことはない!」
「はいっ」
「でなければ、俺は――」
何故そこで苦悩されたように鏡に拳を、腕ごと押しつけられるのですか。
ミシミシ言っているような気がするのですが。
「俺は――彼女に申し訳が立たない。鏡よ、話を聞いてくれ」
***
――悩めるテオドール様の告白は、以下のようなものでした。
初めて彼が私を知ったのは、とある夜会でのこと。
主催者は王家。警備隊長を務められていたテオドール様は、近々反乱の兆しがあるとの報せに普段よりぴりぴりしていたそうです。
おかげで部下への当たりが強くなり、連携が上手くいっていなかったのだとか。
そこに私が、両親が張り切って買ってきた慣れぬ高さのヒールで靴擦れを起こして、酔っ払いにぶつかられて転んだあげくに裾を破いたので、緊張が緩んだとか。
そして、成り行きのまま運んだ先で、私が何食わぬ顔で裾を補修――だって、ドレスのサイズを合わせるために紐やらリボンを、見えないところで余計に使っていたので――したので、感心したと。何ですか、その記憶の奥底の飼い葉に突っ込んでいた恥ずかしい話。
テオドール様は熟慮し(何をでしょうか)、周囲に相談した結果、私に婚約を打診することを勧められたそうです。
「……ウェーバー男爵家の娘は信心深く、女神の祝福が宿りやすいと」
「はあ、祝福……」
「彼女たちの祈りは他者に平穏をもたらすそうだ。領地はそれで天災の被害が少ないのだという者もいる」
それは、牛さんの出産のたびに神殿に祈りに行っているからでしょうか?
人事を尽くしたら天命を待つ、のにお祈りを含んでいるからでしょうか。
「実際に、イリスからもらったお守りには効果があった。飛竜の爪を間一髪でかわしたとき、沼地の怪物から迫る脚に気付いた時、身代わりのようにお守りが破れていた」
何度か代わりが欲しいと謝られたとき、ただ攻撃を受けたから壊れたのだろう、と思っていましたけれど、そうではなかったようです。
「婚約する前は半信半疑だったことが、何度も効果があると身をもって知れば、何も知らない様子の彼女を、実際に利用していることになる。緊張し、後ろめたかった。
それに周囲がもし、祝福の件があって俺に勧めたとでも話したら……誤解され、傷付けてしまうだろう。気が気ではなかった」
「ふむふむ」
低く呪わしげな声が弱気になっていくテオドール様に、いつしか上司に叱られる部下のような感覚はどこかに行ってしまい、なんだか気分が楽になってきました。
「しかも彼女は、笑えもしない俺に、年下なのに慈愛の精神で根気強く話しかけてくれた。感謝した。しかし……」
「しかし?」
「パーティーに出ると、彼女に色目を使おうとする男が絶えないように思える。これは彼女が姿だけでなく、心も世界で一番美しいからだ――そう言って欲しい」
「それはどうでしょうね……?」
「職業柄か、警戒心が抜けないんだ。幾度も危機をお守りに救われてきた。それを知り……彼女の祝福を知った者が、利用するかもしれない。
他の者に利用されたくない、接触して欲しくない。
そう考えると、周囲を威嚇し続けてしまう……だから美しいから寄ってきたことにして欲しい。実際、世界で一番じゃなくても美しい。可愛い。誰でも欲しくなるだろう、あんな小さな生き物」
どうもテオドール様、なかなか複雑な心境のようです。
なんだか褒められてる気がして、恥ずかしくなってきましたが。
「そして私が彼女を想うのも、どうか祝福からでなく美しいからだと信じたい。少なくともそう思っていることを、彼女に信じて欲しい」
風向きが変わってきました。
「そして、父の言うように、俺の態度が悪すぎて、婚約破棄を願って神殿に通い続けるなど、しない人だと――」
そんなこと、寝耳に水です。
たぶん、テオドール様のお父様は愛妻家ですから、念のため忠告なさったのでしょう。
「もうひとつ、俺がこれを全部彼女に伝える勇気が欲しいという――騎士団長にあるまじき軟弱な願いを、女神に祈ったことを」
……これ、もしかしてあれですか。
鏡になりたい私と、全部伝えたいテオドール様。
女神様が一挙両得、一石二鳥ってしませんでしたか。
私は2秒ほど考えてから、すがるような、子牛のような純粋な瞳を見つめ返します。
それからひとつ息を吐き。鏡の向こうのテオドール様に手を重ね。
「……全部聞こえてますよ」
そうして、視界が鏡から放たれる光に包まれて――、
***
――気が付いたときには、私の顔を日差しが照らし、吹き込む風が髪を揺らして頬をくすぐっていました。
体が痛いのは、昨夜からカウチソファでうつらうつらして眠ってしまったからでしょう。それから手足をもぞもぞと伸ばすと、何か温かいものが触れました。
目を開けると、そこにはテオドール様が。
テオドール様が。
私の部屋に。
「夢だったのでしょうか、何でこんなところにおいでに……あっ」
私はテーブルの上の、作りかけのお守りに手を伸ばしました。
二十センチほどの細い布に、女神様への祈りを込めた神代文字と、テオドール様の家の紋章を刺繍したそれ。
でも、手に取る前に彼の視線がしげしげと眺めているのを見て、手を引っ込めました。
「……『そもそも危険がありませんように』?」
「せっかく作ったのですから、今回こそは破れないように……じゃなくて、そう、どうしてこんなところにいらっしゃるのですか……?」
私はもごもごと言うと、テオドール様も、もごもご返されます。
「今朝、奇妙なことがあったんだ。君も知っているだろう、あの祖母の魔法の鏡に君が映っていた」
「映っていたんですか」
まさか全部見られていたとかないですよね?
「もしかしたら知っているかもしれない……泣き言を洗いざらい喋って」
「……はい……」
「気が付いたら、手を重ねていて、そこから君が出てきた。このままでは醜聞だと、君の家まで急いで連れてきた」
「……えっ」
どういうシチュエーションですか。そんなことまでできたんですか。女神様。
テオドール様の、流石の場慣れしたご対応に心より感謝します。
同時に平凡な私は、昨日からの一連のやりとりが筒抜けだったことなど一気に襲いかかってきた問題に、頭を抱えました。
「そ、それは大変申し訳ありません……! わざとではないのです。鏡になりたいとは思いましたけど、本当になってしまうだなんて。
でも、覗いてしまったことは言い訳のしようもなく……」
「過程はあとでゆっくり聞くとして……君の侍女には安否を確認したら出ていくと約束したからな」
ああ、今まで気付きませんでしたが、部屋の入り口で私の侍女がにらみをきかせていました。そうですよね。婚前の二人をそのままにはしておきませんよね。
……それにしても、テオドール様も侍女が怖いんですね。
そう思ったら、私はテオドール様に対して申し訳ないと思いつつも、もう怖いとは思っていないと気付きます。それと。
「去る前にひとつだけ、尋ねたい」
「はい」
「……俺と何故婚約してくれたのか、今まで聞いていなかった。きっと家格で断りづらかったのだろうと思っていたのだが」
それと、こちらからも色々と、お伝えしていなかったなあ、と。
「……ああ、それはあのパーティーで助けてくださった時、とっても居心地が良くて、このまま眠ってしまいたいと思ったからです。
お顔は怖いのに、何ででしょうね?」
私は笑い、あくびをしてしまい――ついでに、伸びてきた腕に支えてもらえば。
昨夜の寝不足のせいか、私は胸の中で、すぐに眠りに落ちてしまいました。
それから私たちはすんなりと談笑するようになり、ほどなくして結婚しました。
女神様には大変感謝したのですが、行き場がなく寝室に飾られた鏡に、ある日赤子が映ったと、テオドール様が大騒ぎをして……。
……。
…………。
「もう少し秘密にするつもりだったのですが、女神様」
私は今日も神殿で、女神様に祈っています。