赤い闇の世界で
彼に触れた指先から、赤い闇が溢れた。それは刹那に全てを覆い尽くし、私の世界を塗り潰した。
血の霧が漂うように、重たく濁った大気が辺りを満たしている。腐食した鉄と、生臭い肉の匂いが鼻を突く。赤黒い闇の中で光はねじれ、遠くの輪郭は滲み、溶け崩れていた。
正常な世界から隔絶されたような異空間で立ちくらんでいると、先ほどまで何もなかった部屋が——突如、確かな形を取り戻したように存在を顕示した。
——信じられない、夢のようだ。
男の声が聞こえて、私は室内を改めた。
広く無人だった部屋には二人の人間が立っていた。若い男女が、恋人のような距離感で見つめ合っている。眼鏡を掛けた男の指がそっと女の髪に触れると、彼女は受け入れるように瞳を閉じた。男の顔が応えるように近寄って、くちづけを——。
甘い恋人の睦み合い。経験のない私は、恋愛ドラマでも同じシーンを目にしたら頬を染めて恥じらうところだが、今ばかりは身の毛のよだつ思いで息を詰めていた。
甘やかな行為と相反して、男の足許には灰白色の人影たちが呪うように纏わっていた。
——こわい、いたい、たすけて。
人影の境界は溶けている。しかし、注視すると四人いた。一人は顔がねじれ、一人は両手がもげ……個々の影は歪み崩れているが、たしかに四つの影があった。女の足下から生えたかのように、それらは床に這いつくばった姿で男の脚に縋り、金属の擦れるような細い声をあげている。
男はまるで察していないのか、目の前の女に夢中だった。壊れ物に触れるよう慎重に女の肌を撫で、感触を味わい、男は顔に歓喜の笑みを広げた。その顔は狂気が滲んでいて、笑みというよりも何かに取り憑かれたような歪さがあった。男が笑うたび頬の筋肉が不自然に痙攣し、見ているだけで背筋が凍る。
男の狂った笑みの裏には、常識や理性などとうに捨て去った、正気の通じぬ世界が広がっていた。
——きみは、僕の理想どおり、完璧な女性だ。愛しているよ。
男の口が、偏執的な想いを零した。
向かい合う女は微笑みを崩さない。男の狂気じみた笑い顔にも、人形のように完成された淡い笑みを返していた。女は微笑みを微動だにせず、腕を広げて甘えるみたいに男の首裏へと手を回し、
ゴギッ、と。
耳に嫌な音が鳴った。
音に身を竦ませた私の目の先で、男の首に女の細い指先が食い込んでいた。恍惚としていた男の顔は一変し、目を剝いた悪魔の形相で、断末魔をあげることなく息絶えていた。命を終えた身体が、手を離した女の目前を崩れ落ちていく。
——こわい、いたい、たすけて、かえして。
足許の人影たちが、さざめきながら男の肉体に絡まっていく。耳の奥を這う細声に、女の声が重なった。
——ゆるさナイ。ゼッタイに赦さなイイイイィ。
壊れた、オルゴール人形のようだった。
女の声は金属を擦るような悲鳴となって私の鼓膜を引き裂き、赤黒い闇の隅々まで突き刺さった。つたない言葉を乗せた金切り声の余韻が消えないうちに、女は固まった笑顔で私を振り返る。ドクンっと跳ねた心臓に、私は逃げようとしたが——足が、動かない。
男の肉体に絡まっていたはずの人影たちは、いつのまにか離れて私の足に擦り寄っていた。
——たすけて、たすけて、たすけて。
触れようとするたび、見えない膜に阻まれるように弾かれ、呻きながら揺らめいている。
私の足は動こうと思えば動けるはずだ。でも、彼女らを足蹴にして逃げ出すことができない。
彼女らは、私に訴えていた。
——たすけて、たすけて、たすけて。
懸命な囁き声は、段々と軋むように変質していく。
——たすけて、たすけて、ゆるさない、ゆるさナイ。
悲痛なさざめきの声は、いつしか奥に不気味な怨念の渦が生まれ、私の意思に染み込んでいく。
——赦さない。
ハッとしたときには遅く。
気づけば視界のすべてが、女の顔に埋め尽くされていた。
それは笑顔の形をした何かだった。頬はひずみ、唇の端は不自然に吊り上がり、目は空洞のように感情を宿していない。
生きものの顔ではない。
——お姉ちゃん。
女の肩から垂れた長い髪に、妹の面影が重なってしまう。
震える足は、もう、逃げられない。
微笑んだまま近づく女の手を、私は目を閉じて覚悟し——
誰かが、私の肩を強く掴んだ。
呼び声もあった。遠くの漠然とした声が誰のものか考えていると、さまよう意識を水底から引き上げられるように、突如として私は目を醒ました。
私の視界には、金と黒の色違いの虹彩があった。
「あ……捜査官さん……?」
掴まれた私の肩は廊下側に引かれ、背の高い彼が横から私の顔を覗き込んでいた。焦りの見える彼の瞳を、夢が醒めたような心地で見返す。
私は部屋の境目に立っていた。微笑みの女は跡形もなく、足許の人影や辺りの赤い闇さえも消え失せていた。
「私、いま……」
恐ろしい白昼夢を、見たような。
冷えきっていた手足に満ちる現実感を確かめるように、私は胸の前で両の拳を握りしめる。体に異変はない。いま見たものは、なんだったのか。不可解な現象を消化できず、茫然として彼の瞳を見つめていた。
向かいの双眸は、緊張を解いて私に尋ねた。
「お前、俺に同調した?」
「……どうちょう?」
「あ〜、なんつぅの? シンクロ、共振、共鳴……あ、俺に重なった?」
「重なる……?」
私が首をかしげると、彼も眉間を狭めて首をかしげた。他人の家の廊下で、よく知らぬ相手と鏡合わせに頭を傾ける姿は滑稽な気がする。
彼も似たようなことを思ったらしく、肩をすくめて吐息を鳴らした。
「ま、いっか。答えは分かった。戻ろ」
くるっと回る彼の身体に、手錠の鎖が引かれる。(私はいつまで繋がれていないといけないのだ)不満を抱きかけて、自分が一緒にいることを願ったのだと思い出した。
「あのっ……警視庁に行くなら、手錠はもう外してもらっても……!」
繋がった状態で階段を下りるのは危ない。しかし、申し入れは例のごとく届いていなかったので、階段を足早に下りていく彼のスピードに合わせられず、私は段差を踏み外した。
「わっ」
前のめりになった私の身体は、振り向きざまの彼にあっさりと片手で受け止められる。背中にも目があるみたいな反応速度だった。
私が転びかけたことなんて大したことではないらしく、彼は事もなげに「警視庁は行かねぇけど?」数秒遅れで会話を成立させる。私は彼の腕にしがみついてしまっていた身を起こした。
「えっ……あ、もしかして検察のほうですか?」
「検察〜? お前、俺の自己紹介、ちゃんと聞いてなかったな?」
いや、聞いてた。捜査官であると、きちんと聞いていたから警視庁と検察を挙げたのだ。
階段の差で近くに並んだ金の眼に、私は疑問の目を投げかける。ならば、どこへ行くのか。無言の問いを受けた彼は、唇を自嘲じみた薄い笑みの形にした。
「特異事件捜査室」
トクイジケンソウサシツ。絡みつく声が呪文を奏でる。脳裏で復唱する私は意味を拾いきれず、曲がる唇をきょとりと見つめた。
頭上の窓から降りそそぐ陽光が、赤銅色の髪を明るく染める。
笑う唇とは裏腹に、金の眼は冷ややかに輝いていた。