降り積もる白
山を下りきるころには、私の胸の昂りは、明らかに生命の危機のみが要因となっていた。
(死んだと思った……)
たぶん與は、人目を避けて獣道を選んだのだろう。下山は途中から滑落寸前の命懸けだった。
すぐそばに崖が見えていたし、足を滑らせれば、たちまち天国が顔を覗かせる——そんな、冷や汗の止まらない死と隣り合わせの道のりだった。
跳びもした。何度も。ハイジャンプ。愉しんでいた與は人じゃない。
平地に降り立ち、木々の切れ間から見覚えのある広場が見えたとき、やっと私は胸を撫で下ろした。
與は氷のスキー板を砕きながら、何事もなかったように笑っていた。
「もう終わりか、早かったな~」
「あれだけスピードを出していたら、あっというまですよ……」
駐車場が見える。建物の影から回り込み、人目につかぬよう気をつけながら歩みを進めていく。
その途中、注意の外側に、違和感のような白が差し込んだ。
視線を上げる。そこには、雪景色に溶け込みそうな白い機体——ヘリコプターが、ドンっと。
風を切る音も、羽の震えもそこにはないが、堂々と存在する異物感に足が止まった。
「えっ……」
私は呆けた声を漏らしていた。
「——お疲れさん。部下の危機と聞いて、飛んできたところだ」
声とともに姿を現したのは、菫連木室長だった。
膝下まで覆う高級そうなコート。かすかに風が吹きつけても裾は揺れず、そこにいるだけで空気が引き締まるような威圧感を放っていた。
(文字どおり、空を飛んできた……?)
目を白黒させて、ヘリコプターと菫連木室長を交互に見返す。そんな私に、菫連木室長は、にこり。
遠くには、與の車に寄りかかる緋乃縁の姿があった。白月を捜す私に、菫連木室長が答える。
「真神君なら、車内で眠ってるよ」
何がどうしてそうなったのか、まったく呑み込めずに、與と顔を見合わせる。
室長から簡潔な報告がなされた。事件の概略、オーナーの身柄確保。
一通り語り終えた菫連木室長は、薄く笑って目配せした。
「成果を評価して、独断行動の説教は置いとくかな」
菫連木室長が流した視線の先には、スーツ姿の数人が立っていた。おそらく地元の警察関係者だろう。
「県警の上と交渉してな。協力したうえでの捜査ってことにして、手柄は半々。……今後は特異に協力してもらえそうだ」
頬をほころばせて話す菫連木室長の表情に、なんとなく、したたかな満足を感じる。
(……最初から、これが狙いだった?)
疑念を口にできず困り顔でいると、菫連木室長は声を潜めて言った。
「ご遺体は?」
私の代わりに、與が応える。
「元の場所に運ばせた。コテージ周りの雪下から、奇跡的に発見したってことで——」
二人が辻褄合わせの相談を始めるのを背に、私はそっと場を離れた。
椿に詳しく話を聞こうと歩み寄った矢先、無意識の視野に動く影が見えた。
オーナーの姿があった。
警察車両の脇、栗色の髪を垂らして、うなだれるように立っている。その背には、すでに警察官が控えていた。車に乗せられようとしているところだった。
「オーナーさん……!」
つい、声が出た。囲むように立つ警察官のなかで、彼は私の呼び声に反応して顔を上げた。
「どうして……」
あんなに優しくしてくれた人が、なぜ——。
「………………」
オーナーは、黙って瞳を伏せた。何かを話すわけでもなく視線をさまよわせたが、與の姿を見つけたようで、わずかに目を和らげ、私と瞳を合わせた。
「あぁ、よかった。あなたは、また会えましたか……」
呟きはぼんやりとしていたが、ほんのひとしずく、安堵が滲んでいた。
「あ、えっと……はい」
とっさのことで詳しく語ることもできず、私は曖昧に頷いていた。
オーナーは、遥か遠くを見るように目を細める。微笑むのとは違う顔で、囁いた。
「大切なひとの手は、どうか、離さないように……」
その声は風に攫われ、どこか羨むような儚い余韻を生んだ。
そのあとは何も続かず、オーナーは視線を落とすと、車の中へと消えていった。
私が取り残されたように立ち尽くしていると、椿が寄ってきていた。
私の困惑をすべて見透かした目で、告げる。
「あの者に所以を訊くのは、無意じゃよ」
「え……?」
「私が幻術を掛けたからのぅ……怪異に纏わることは忘れておる。今は、『恋人を失った悲しみから、似た者を殺めた』と思い込んでおるよ」
長く息を吐いた椿は、重たく続けた。
「かつて、恋しき者と、この地にて心中を遂げんとしたらしいのぅ……。美しきまま、共に凍てつくことを望んだそうじゃ。されど、それは叶わず。どうやらその相手が行方不明となったらしい。今なお知れぬままよ……」
「それは、もしかして——」
「わらわではないぞ!」
唐突に響いた高い声に、心臓が跳ね上がった。
飛び退きながら振り返った私の視線は、真白い顔とかち合う。
「あっ……」
白装束ではない。スキーウェア姿の雪女が唇を結び、こちらを睨んでいた。
「遠くから耳を傾けておれば、またしても身に覚えのない罪を被せようとしてくるではないか。そんなもの、おおかた死に怖気づいて逃げ出したのじゃ。なんでもかんでも、わらわのせいにするでない!」
勢いよく捲したてる彼女に、私は小さく縮こまりながら頭を下げた。
「す、すみません……」
雪女はふんと鼻を鳴らすと、少しだけ目許の険を緩めた。
「分かればよい。ところで……」
雪女の視線が、椿へと滑る。同じタイミングで私も思い出していた。雪女は、椿の知り合いの可能性が……。
「——久方ぶりじゃのう、雪姫」
椿は唇に柔らかな笑みを乗せて、懐かしげに声を掛けた。気心の知れた旧友に再会したかのような、彼にしては優しい声音だった。
「兄者……生きておられたか」
雪女はぱちりと瞬き、じっと椿を見つめる。その目は驚きと、仄かな親しみを見せた。
兄者——兄妹のようなものだろうかと、言葉から関係性を考える私の横で、椿は肩を竦めるように息をこぼした。
「それを申すのは、私のほうかも知れぬの。とんと姿を見かけなんだゆえ、ついぞ雪となって舞い散ったのかと思うたよ」
椿の冗談めかした響きに、雪女の頬が小さく膨らむ。
「わらわは失恋の憂さに、ほんの百年ほど眠っておっただけのこと。目覚めれば、雪山にあやかしどもはおらぬし……なんと淋しきことかと嘆いておったのじゃ。人の世は移ろいやすい。雅なるわらわには、とてもついてゆけぬ」
雪女は時の流れを嘆くようにため息を落とした。
ほんの百年。昼寝のように語る彼女の声に、私は人知れず動揺していた。
人の世は、怪異にとって、あまりにも早すぎるのか——。
椿は、そんな雪女の肩の力を抜くように、くすりと笑って首をかしげた。
「そのわりには、スキーに勤しんでいたと聞いたがのぅ……?」
日常の世間話のように軽やかに返すと、椿は雪女の全身を眺めた。流行に乗ったオシャレなスキーウェア。
(……カフェで珈琲も飲んでましたよ)
心の中だけで、私はそっと付け加えた。
——ふわり。
ふと、空から一片の雪が舞い落ちる。
風に揺れながら降りてきたそれは、誰の肩にも触れず、ただ静かに地に解けた。
目を上げれば、白銀に染まる山々。何もかもを覆い隠すような雪の白さが、かえって真実の輪郭をくっきりと際立たせていた。
事件は終わった。けれど、この地でふたつの命が失われたことに変わりはない。
もしかしたら、誰かが今も、彼らの帰りを信じて待っているかも知れない。
知らぬ誰かの祈りと、知るはずのなかった痛みが、胸を締めつける。
「………………」
目を伏せる。語るべき言葉が見つからない。
私にできることなど、何もない——
せめて。
せめて、その魂が、安らかに眠れますように。
私はそっと、胸に手を当てた。
風の音すら遠ざかるような、凪いだ静けさのなかで、小さな祈りを捧げる。
雪が降り始めていた。
雪が、すべてを覆ってゆく。
過去も、涙も、祈りさえも——白く、冷たく、優しく。




