魔の緋色
廊下に明かりはなかった。
ひたり、ひたりと、気配ひとつ立てぬままに男が進む。その男は、焦る心を抑えて、静やかに歩を運んでいた。
(早く、早く——次の生贄を)
栗色の髪をしたその男——コテージのオーナーこそ、この行方不明事件の犯人だった。
ナイタースキーに訪れた、ひとり客を狙って。
食事で眠らせたうえで、致死量の薬剤を投与し、コテージ裏の林へ運ぶ。釣り餌として晒していた。
一人目は、怪異の存在を明らかにした。
雪のなか、仕掛けたビデオカメラは、人あらざる速度で遺体が消えるさまを捉えた。
(やはり、いたのだ。——雪女)
二人目は、失敗した。
遺体に仕込んであったスマホは、攫われたあとに壊されたのか、壊れたのか、位置を知らせることはなかった。
三人目、今度こそ。
今度こそ、うまくやってみせる。
オーナーは、ひとつの扉の前で立ち止まった。
——私はこちらの部屋を、拝借しようかの。
その扉の向こうでは、黒髪の男が眠っている。
美しい顔だった。釣り餌に、申し分ない。
ただ、記憶を振り返ってみると、その男の印象は曖昧だった。
美しい顔だった——はず。記憶は霞のように端々で揺らぐが、引き込むような魅力ある容姿をしていた。思い違いではない。
不思議な男ではあったが、あれなら必ず雪女を釣り出せる。オーナーの胸には奇妙な確信があった。
細く息を吐き、手にしたスペアキーを差し込む。
ぎい、と控えめな音を立てて扉が開く。
窓はすでに白く曇り、厚く積もった雪が視界を覆っていた。外では吹雪が荒れ狂っており、風の唸りが壁を揺らす。
月明かりなど、ない。
照明も点いていない室内には、仄かな輪郭さえ存在しなかった。
そこにあったのは、気配だけ。
扉の隙間から身を入れたオーナーは、懐から小さなライトを取り出し、それを手で覆いながら慎重に足を進めた。
光に照らされるのは、靴先と、毛羽立った絨毯の陰影のみ。
音を立てぬように歩く足取りが、ただひとつ、空間に染み込んでいく。
息を潜め、手探りのように前へと進むオーナーは、ベッドのそばまでやってくると、布団の膨らみに目を留めた。
膨らみは、わずかに上下していた。
——眠っている。
眠りを確かめるように、耳をそばだてた。心臓の音がうるさいほどに響く。
闇に、寝息の音が、かすかに揺れる。
そして、ゆっくりと布団を捲った——
「……!」
そこにいたのは、黒髪の男ではなかった。
白金の髪をした、あどけない少年が、穏やかに眠っていた。
枕に頬を押しつけ、無防備に寝息を立てる姿。
「う~……ヨルさん、ユズさん……おれが祈っとくから、早く帰って……」
こぼれた寝言に、びくりとオーナーの肩が震える。
その瞬間、背後のテーブルに身体をぶつけていた。
ガタッと、鈍い音が室内に響く。
そして、
「——眠りを妨げぬよう、静かにしてもらえんかのぅ?」
その声は、闇から滲み出るようだった。
明かりの届かぬ暗がり。
だが、確かにそこに誰かがいた。
オーナーが顔を向けたとき、暗闇の奥から現れたのは——漆黒。
闇に同化したような椿が、細めた目で微笑んでいた。
「あぁ、部屋を勝手に代わって、すまなかったのう。おぬしの薬が、思いのほか効いたようで……そのまま、ここで寝かせてやったのじゃ」
猫のような気怠げな目つき、それでいて誘うように艶めいた声。
「月の巡りのせいで、今は体調がすぐれぬのじゃよ。休めるときは休ませてやりたいと思うのが、親心——いや、飼い主心じゃろう?」
その声音に宿るのは、やわらかさと薄ら寒さ。
場にそぐわぬ調子のまま、椿はくつくつと笑う。それは、独り芝居にも似た嘲笑だった。
空気が凍り、オーナーの喉奥に言葉が詰まる。
だが、次の瞬間。
オーナーはもう、迷ってなどいなかった。
懐から取り出した注射器が、明かりを受けて冷たく光った。
彼は走った。椿へと、一気に詰め寄る。
その刹那——
パキ。
細い音と共に、針が折れた。
まるで陶器に当たったかのような、硬質な手応え。だが、どこに当たったのかも分からなかった。
注射器は、椿の肌に触れることすら許されなかった。
「なっ……!」
引き攣った声が、喉の奥でくぐもった。
オーナーの頬はひくりと痙攣し、手にした注射器に微細な震えが走る。
唇は乾き、わななくばかりに開閉を繰り返すが、言葉は成せない。
椿は、吐息を鳴らした。
呆れたようでもあり、どこか下等なものを慈しむようでもある眼差しで、ゆるりと首をかしげる。
「生憎じゃが……斯様な物で、私を討てる道理はあるまい?」
オーナーは、そのとき初めて気づいた。
椿の眼が、赤いことに。鮮血のような緋色に、目が奪われる。
椿の眼もまた、闇を滑るようにオーナーを見据えた。
ぞくりと、体の芯が震える。人ではない。
この男も——。
「ふむ……おぬしも、誰かに囚われておるようじゃが……私を的に掛けたのが愚策じゃったのう? よほど焦っておったのか……」
顎に指を添え、推論を語る椿。声色は変わらずやわらかく、どこまでも余裕に満ちている。
その全身から発せられる異様な存在感を、オーナーは肌で感じていた。
オーナーの手から、力が抜けていく。
緩んだ目許に、涙が浮かんだ。
「わ、私は……ただ、彼を……雪女から取り返そうと……」
しずくが、ほろりと。音もなく落ちた。
絨毯の毛足を一筋濡らして、ただ染み込んでゆく。
椿はその光景から目を逸らさず、黙して立っていた。
問いかけることもなく。
責めることも、咎めることもなく。
沈黙の瞳で。
その先に続く、濁った魂の吐露を。
哀れと呼ぶにも痛ましいそれを、椿は独り、受け止める。
その傍ら。白月だけが、夢の底。
白金の髪を枕に散らし、すやすやと安らかに、眠っていた。




