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凍てつく夜に

 寒さも、冷たさも、痛みさえも。

 もう何も、感じていなかった。

 感覚はとうに手放した。今あるのは、惰眠を貪りたい欲求だけ。


 どこまでも暗く沈む闇に身を預けながら、(あたえ)はまぶたを閉じていた。

 深い眠りではない。しかし、目を覚ます気力もない。

 思考は徐々にほどけ、意識だけが、かすかに漂っていた。

 波間を漂うような、緩慢な時間のなか。記憶が名前を失い、ただの影となっていく。

 

 緩やかな喪失。

 それが、心地よかった。

 

 長く、浅い眠りの日々を繰り返していたように思う。

 警察に入り、捜査官として怪異を追うようになってからは、とくに。

 

 人に受け入れてもらう。そのために、怪異を倒す。

 幼い夢は、いつしか目的と手段がすり替わっていた。

 

 怪異をすべて(たた)き潰す。

 人間から怪異へと変えられた不条理が、長い時を経て怒りを生み、目的を変えていた。


 それでも、捜査官になったばかりのころは、まだ。

 怪異を消していけば、いつか終わりがある気がしていた。


 だが、倒しても倒しても終わらない。

 事件は尽きず、いくら戦っても果てが見えない。

 時に、同胞を殺すような錯覚さえあった。

 不愉快なほどに、鬼の力が身体へと馴染んでいく。 

 

 この夜は、終わらない。

 

 延々と続く暗闇に、疲弊と苛立ちが、静かに、確実に積もっていく。

 

——別に、ここで終わってもいい。


 自分の声なのに、どこか遠い呟きが、じわじわと全身を(むしば)んでいく。

 皮膚の下に潜り込んだ冷たさが、骨の奥へと染み入る。

 凍りついていく感覚。

 それは、恐ろしいほど安らかだった。


 すべてを諦め、放棄し、やっと眠れる気がした。

 そう思った——のに。


 何かが、眠りを妨げる。


 遠く、薄氷の外を叩くような音。

 かすかに震える声が、脳の表面を(かす)めていく。

 懸命に呼びかけるその声に、心のどこかが反応した。


 知らない。けれど、知っている。

 

——與くん。


 何度も、飽きるほどに聞いたその呼び声は、きっと知っている。

 

——與くん。

 

 叩き潰しても、叩き潰しても、終わらない日々。

 くだらなく無意な日々が、最近は——悪くなかった。


 抜けてるやつが、相棒になってからは。

 少しは、警察官として——真っ当にやってるような。そんな、錯覚が。

 

——犯人を見逃すなんてしないでください。

 

 剝がれ落ちたはずの記憶が、氷の刃になって、脳髄を突き刺す。

 泣きそうに歪むのは、誰の顔か。

 思い出そうとするのに、さざめく声が邪魔をする。

 

——與捜査官さんは……とずっと一緒にいられます。離れることなく、二人は永遠(とわ)に。

 

 呪いの声が、重なり、さわさわと未来を(うた)う。

 

 いられやしない。

 そんな未来は、この世にない。

 

 あるべき道から踏み外した足を、()()()に引きずり込むのは——人じゃない。

 知っている、はずだ。

 

 ただ、それでも、隣にいてやらなくてはいけないような——不安に駆られる。

 

 大丈夫だろうか。

 ひとりにして、平気なのか。

 ひとり遺される悲しみを、自分も、しっているのに。

 あいつは——あいつ、とは、だれか。

 

 惑い、さまよう意識が、ふっと指先の熱に引かれる。

 小指の、根本に。じんわりと(とも)るような、(ほの)かな、ぬくもりが。

 

——捜査官さんが救ったのは、怪異じゃなくて私ですよ。

 

 血を駆け巡るように、胸へと差し込む。

 記憶のなかでもなお、温かに、穏やかに響く声。

 

 あの声と、同じ。名を呼ぶ、耳に馴染んだ音と。

 

——私を救ってくれて、ありがとう。

 

 バケモノの身に、初めて向けられた感謝の声。胸に棲みついて離れない、やわらかな響き。

 これは——だれだ?

 

 

 眠る前に、その答えがどうしても知りたくて、與は重いまぶたを開けていた。


 辺りは光を失い、息さえも凍りそうな静寂だった。声は止んでいた。

 氷柱が銀河のように世界を覆い尽くす、その、中心で。

 

 視界がゆるく焦点を結ぶ。

 そして、ふと、甘く誘うような色が目に映った。


 透き通る、七色(なないろ)の光のような。

 宝石のように(きら)めくそれが、はらはらと(こぼ)れて、氷を濡らしていく。


 喉が鳴った。美味(うま)そうだと思った。

 けれど、その渇望よりも。

 もっと別の欲求が、まさった。


 凍りついた身体を無理に動かす。

 痛みが走り、どこかが(きし)む音がする。

 それでも、手を伸ばした。

 

 濡れた顔。その顎を(すく)い、頬を流れる温もりに、そっと唇を寄せる。


 星空のような氷の狭間で、時が止まった。


 やがて唇を離すと、(ゆずりは)が小さくしゃくりあげる。

 真っ赤な目で、茫然(ぼうぜん)と與を見つめ返していた。

 その視線に、與はいつもの調子で言った。


「お前、今度はなんで泣いてんの?」


 (あき)れたように、でも優しさの(にじ)む声だった。

 

 涙への渇欲よりも、その涙を止めたいと思った。

 今この瞬間だけは——間違いなく、

 身体を満たす精神は、鬼ではない。

 與 代籠(よる)としての心が、打ち()っていた。

 

 氷の世界が、静かに震える。

 楪が、ぽつりと名を呼んだ。


「……あたえ、くん?」

「なに?」


 さらりと返された声に、楪は目を見開いた。

 與の姿は、先ほどまでの幼いものではない。小さなままの身体に見えたが、いつのまにか少しだけ背が伸びているようだった。

 印象の変わった、與の顔。

 目の前の與をじっと見据え、楪はぱちり、ぱちりと瞬きを繰り返す。

 そうしているうち、思い出したように口を開いた。


「え? いま、私の頬を舐め……ちがう、なにか柔らかいものが……いや、そんなことより……そんなこと?」


 言葉が絡まり、話しながら自分で混乱していく楪に、與は口の端だけをわずかに()り上げた。


「舐めてはねぇよ? 俺は軽くキスしただけ」


 その一言で、楪の頬が、ぱっと染まった。瞬間、火がついたように耳の先まで赤くなる。

 大きくみはられた瞳が與を映し、ハッと思い出したように上下する。楪は息を止めて與の瞳を(のぞ)き込んだ。


「與くん……私のことが、分かるんですか?」

「あ~、まぁだいたい」

「大体ってなんですっ?」


 與のゆるい答えに、楪は眉を下げつつ唇を尖らせた。

 その顔を見て、與は口許だけで小さく笑い、


「あさみ、ゆずりは?」

「……名前は、合ってます」


 不満げに頷く楪を前に、與の声がふたたび続く。


「口うるさくて、色気がなくて、シスコン~?」

「悪口みたいじゃないですかっ……シスコンだけ認めます」


 あははと、與がからかうように笑う。声が氷の檻に反響して、広がっていく。

 軽やかな響きが、冷たい空間を揺らして、ほんのりと、やわらかく染める。

 與は笑いの尾を引きながら、すこしだけ真面目に。


「俺の相棒、楪ちゃん?」

「……そんな呼ばれ方、された覚えはないですよ」

「あるだろ。……って~わけで、この檻ぶっ壊してぇんだけど? 協力頼んでいい?」


 いきなり核心に戻る言葉。

 楪はきょとりと目を瞬かせる。


「え、……協力? 私もさっき叩いたり蹴ったりしましたけど、壊すのは無理でしたよ?」


 困惑する楪の返しに、與は思いきり眉根を詰めた。


「お前の力なんて当てにしてねぇよ」

「いま協力って言ったじゃないですかっ」

「協力ってのは……お前の力じゃなくて、こっち」


 與の手が、楪の顎を捉える。


「へ?」


 楪が間抜けな声を漏らすより先に、與の唇が頬に添えられた。

 肌を、細く、舌が()う。

 

 濡れた頬を、泣いた証を、名残惜しむようになぞりながら、目尻まで。

 ゆるやかな動きのなかに、熱を帯びた柔らかさがあった。

 触れるか触れないかの距離で揺れる吐息と、肌に残る湿った感触に——ぞわり、と。


「っ……!」


 楪の肩がびくりと震えた。

 唇を離した與に、真っ赤な顔で向き直る。


「な、なにをするんですかっ」

「協力、頼んだじゃん。不同意で訴えてくんのやめろよ?」

「まだ頼まれてないですよ!」

「楪ちゃんって言ったら、なんでもやってくれるんだろ~?」

「拡大解釈すぎます! それに『お願い』が抜けて……!」


 次々と文句を並べ立てる楪の言葉を、與は飄々として無視した。

 すくっと立ち上がる與。楪は、のけ反りぎみに言葉を呑む。

 與の背が、ぐんと高くなっていた。

 檻に収まりきらない存在感が、ひしひしと伝わってくる。氷の空間が小さく見えるほどに。


「あ~、帰りたくねぇけど、帰るかなぁ~?」


 そう言って、與が拳を軽く構える。そして、そのまま、氷柱に拳を叩き込んだ。

 がんっ、と腹の底まで響く一撃。

 続く硬質な音が、氷に裂け目を刻む。悲鳴をあげた氷は砕け散り、星屑(ほしくず)のように舞った。

 

 それは、氷の世界の終わりを告げる合図だった。

 

()()が怒ってる気がすんだよなぁ~。あいつ、目ぇ離すと余計なことやらかして面倒だから……帰ってやるか」


 フッと笑う與の吐息に合わせて、氷壁に亀裂が走る。

 空間の隅から隅まで、蜘蛛の巣のように氷がひび割れていく。

 足下もまた、崩れ始めた。


「わっ……ひゃっ——!」


 楪が慌てて立ち上がるが、足場を失ってバランスを崩した。

 すぐ下は深く口を開ける闇。彼女の身体がそこへと吸い込まれかけた、そのとき。


「——っと」


 與の腕が伸びた。ぐいと引き寄せるようにして、楪の身体を抱きとめる。

 意図せず、しっかりと包み込むかたちになった。


「……お前、あったかいな」


 ぽつっと落ちた、素朴で穏やかな呟き。

 状況のせいにして、その温もりを閉じ籠めようと——


 いとしく、與は楪を抱きしめていた。

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