鬼子のうた
——おまえ、だれ。
素朴な声音に、私は目を開いたまま固まった。
見上げる小さな與。その顔は、まるで知らない者を見るような色をしている。
「誰って……楪ですよ。朝美 楪です。分からないんですか?」
急に不安がよぎった。間の氷柱に顔を寄せ、自分の姿を確かめる。
もしや、私も知らぬまに小さくなっていたり、歳を取っていたり……そんな冗談のような変化があるのではと焦ったが、映るのは見慣れた自分だった。湾曲した氷面に輪郭こそ歪んではいるが、最近の私の顔に違いない。
「ゆずりは? しらない」
淡々と、與は首を振る。
「えぇ……まさか、記憶喪失?」
尋ねてみても、返ってくるのは理解のない瞳だけ。
段々と心配になってくる。
「あなたは、與くんですよね?」
「そう。あたえ よる——って、おしえてもらった」
「教えてもらった……?」
変な返しに首をひねる。
自分の名前を『教えてもらった』とは、どういう意味だろう。
意味を図りかねていると、目の先で意識に引っ掛かるものがあった。與の足。與は何故か着物を着ていたのだが、その足に履き物はなく、氷の床にひたりと触れていた。
足先から、肌が薄く凍りづいている。
「與くん、足!」
慌ててしゃがみこみ、氷柱の隙間から手を差し込む。今度は怪我をしないよう慎重に、小さな足を包んで温めようとしたが……なんと、私の手まで吸い付くように凍りついた。
「痛っ……!」
冷たいなんてものではない。肌に食い込むような鋭さが、指先を締めつけてくる。
驚いて顔を上げると、與が小さな眉をひそめて私を見ていた。
「おまえ、あほだろ」
呆れたように吐かれた、一言。
(この子、ぜったいに與くん!)
言葉も、語尾の抜け方も。こんなにあどけない顔なのに、私を見下した調子が完全に與だった。
確信はこんなふうに訪れるのかと、少しだけ気が抜ける……いや、腑抜けている場合ではない!
私は張り付いた手を引き剝がそうとした。しかし、どうにもならない。無理に引けば皮膚ごと剝がれそうで、力の加減も分からない。
冷たさが骨まで伝わり、ズキズキと心臓のように痛んだ。
「どうしたら……」
「むりだろ」
すぐそばで、興味のない淡々とした声が落ちる。
氷柱越し、ほとんど同じ目線の高さで、こちらに向けられる目がある。
皮肉げな雰囲気に、懐かしいと、安堵を覚える余裕はさすがにない。
「そんな、他人事みたいに言ってないで、與くんも何か策を考えてください」
「むだ。そこだけ解かしたって、おれはここから出られねぇもん。おまえだけ助ける義理もない」
取りつく島もない。
さらっと乾いた口調で、與は唇の端を持ち上げる。小さな身体に変わらず宿る嘲弄の精神。
(そういうとこだけ! 相変わらずですね!)
言いたいことをぐっと抑え、一人で奮闘する。
だが、結局、凍りついた手も與のからかうような目も、何ひとつ変わらず。
足を突っ張っていた姿勢のせいか膝が限界に達してしまい、私は観念して腰を下ろした。
座り込んだまま、うなだれる。どうにもこうにも手詰まりだ。
「……そもそも、與くん、なんでこんなところにいるんです?」
すこし不機嫌な声で、半ば八つ当たりのように尋ねていた。
それでも與は、眉一つ動かさずに答えた。
「知らね~。おれ、なんも覚えてねぇの。気づいたら、ここにいた」
「何も覚えてないことないでしょう。さっき、名前を教えてもらったって、言ったじゃないですか。その相手が、ここに與くんを閉じ籠めた人なんじゃないんですか?」
私の問いに、與はきょとんとした顔をした。
「え、冴が?」
唐突に出てきた名前が、数秒、沈黙を生んだ。互いに丸い目で見つめ合う。
記憶喪失らしき與の口から出てきたのは、菫連木室長の名前だった。覚えているではないか。
「冴……って、菫連木 冴、ですよね?」
「そう、冴」
「菫連木さんが、與くんに名前を教えてくれたんですか?」
「そうだけど……前の話」
「前って、いつです?」
「前は前。おれの唄も作ってくれた」
「うた?」
疑問の声で復唱する。
瞳を開いた與は、甘えるように首を傾けた。
「聴きたい?」
状況にそぐわず、屈託のない瞳が私を揺らす。
與の目は期待に澄んでいて、見慣れない幼さから、つい頷いてしまった。こんなことをしている場合では……と、半瞬遅れで気づいたが、取り消す間はなかった。
與は目を閉じた。睫毛が白く凍りつき、かすかに震えている。
小さな唇は白い息とともに、ぽつり、ぽつりと音を鳴らした。
それは——バラッドだった。
むかし、むかし。
水豊かなる里ありき。
湖を懐き、山に護られしその地には、
ひとつの誓ひありといふ。
龍神、湖に棲まひ、
雨を降らせ、風を鎮め、
里に実りと平穏とを授けたり。
されど、契りは重し。
百年に一度、処女ひとり、
命のままに、捧げよと。
「我は喰らはん、処女の命を。
それを糧となし、里を護らん。
されど違へば、水も命も、
ひとしづく残さず、奪ひ尽くさむぞ」
さなきだに、かく言ひ遺して、
龍は深き湖に沈みたり。
里の長、悩みつつも頷きて、
その契りを、代々守り継ぎたり。
されども——ある百年の節目にて。
生贄と定められし娘、
湖より戻り来たり。
「鬼のをりぬ。
龍神は、鬼に喰はれ給ひぬ。
その鬼こそ、われを救ひ給ひしなり」
娘の声、届かず。
狂ひ言として捨て置かれ、
腹に命を宿したるまま、
娘は人の世より姿を消せり。
山奥にて、ひとり母となりて、
娘は産みたり。
鬼の子を——角を持ち、牙を持つ、
金の眼の異形なる子を。
なれども、母の手はあたたかく、
抱きしむ腕に偽りはなし。
ひそやかに、静やかに、
その命を育みたり。
しかれども、鬼の子の噂、
風に乗りて里長の耳に届きぬ。
恐れたる長は、家人と兵を率ゐ、
討伐に赴きぬ。
母の見つむる先にて、
鬼の子は裂かれ、焼かれ、
灰となりて消え失せたり。
母は命乞ひしによりて、
かろうじて命を拾ふ。
されど、夜は深く、
復讐の時、呼び来たれり。
里長の館に忍び入り、
眠れる彼の子の枕辺に立つ。
母、口を開きて——
ぽろり、
金の眼を落としたり。
それは、鬼の子の遺されし眼なり。
母はそれを、眠る子の左の眼に、
深く、深く、埋め込みたり。
「この血、すべて絶やし給へ」
母は囁く、命の呪ひ。
夜明け前、館には血流れ、
里長の一族、ひとり残らず喰ひ尽くされぬ。
母もまた、その血を引く者なりき。
されど、それをも止めはせず。
すべてを終へて——
ひとつのみ、遺されぬ。
ひとりきりの、小さき化け物。
抱く腕なく、呼ぶ声なく、
赤き血と憎しみのなかに、生き残れり。
いとけない声が、氷の空間に染み渡る。
子供の声でありながら、どこか遠くを旅してきたかのような、風に削られた石のような響きだった。
語り終えた與は、凍る睫毛を上げる。
その表情は、悲しみを越えた静謐さに満ち、澄みきった水面のような眼差しだった。
身体の奥で、恐怖がひしひしと膨らんでいく。凍てつく手の痛みすら忘れた。
唄の中に描かれたものが、どれだけ悲劇であり、どれだけ無惨で、そして——どれだけ與という存在の根を語っていたかを、思い知ったからだ。
「それが……與くんの……」
鬼になった理由ならば。
——與さんは、望まずして怪異に引きずり込まれた、言わば怪異事件の被害者だ。
脳裏に、いつかの菫連木室長の声が浮かんだ。
あの説明で、與の過去を、表面的には私も知っているつもりだった。
しかし、真実は。
——與くんは、どうして鬼になったのか。聞かせてもらえませんか。
——んなもん覚えてねぇよ。
無神経にも私が尋ねた、あのとき、與はどんな思いでいたのか。
與の瞳に一瞬だけ浮かんだ揺らぎが、今になって胸を衝くほど鮮明に思い出される。後悔の念に、自分への怒りがせり上がってきて、息が詰まりそうだった。
目を伏せ、押し黙る私を見て、與がくすりと笑う。
「怖かった?」
なにか、勘違いをしている。違う、と言いたかったのに、声が出なかった。
與は無邪気に話し続ける。
「怖いかもなぁ? おれも初めて聞いたとき、怖かったもん。少しだけ~」
けらけらと笑い声が響く。
幼い與は、どこまで理解しているのだろう。自分の過去と捉えているのか、それとも彼にとっては、ただのおとぎ話なのか。
当惑する私の顔をうかがいながら、與が尋ねた。
「おれから、逃げたくなった?」
金と黒の瞳が、まっすぐに射抜いてくる。冗談めかした声音のなかに、鋭い針のような何かが交じっていた。
「まぁ、今のおまえ、逃げられねぇけどな」
小さな唇の端が吊り上がる。からかいと挑発を込めた笑みだった。
私は與の目を見返す。真正面から。その見慣れた色の、見慣れない幼い瞳を、逃すことなく見据えた。
「與くんから逃げたいなんて、思ってないです」
與は底意地のわるい笑みを浮かべる。
「え~? おまえ、おれの唄、ちゃんと聴いてなかったな?」
「聴いてました」
「じゃ、難しくて分かんなかったか。おれがバケモノ、って話なのに」
無垢な声に、うっすらと嘲りが滲んだ。
その笑い方は、いつもの彼と重なる。
思い出された面影に、私は胸の底に沈んでいた想いを、そっと掬い上げるようにして唇を開いた。
「與くんは、バケモノじゃないです。怖くもないですよ」
はっきりと否定する。
與の目が、尖るように光った。
「——これでも?」
ぎりりと、與の額に角が生える。禍々しい力が、彼の幼い姿を塗り替えていく。
皮膚に浮かびあがる赤黒い血管、深く刻まれた眉間の溝。
金の眼に宿る光は、まるで獲物を測る捕食者のように恐ろしく狙いを定める。
「これでも、怖くねぇって言えんの?」
突如立ち上がった與は、勢いよく氷柱を掴んで顔を寄せた。
ただ、黒い眼は、私を試す色だ。
そこから瞳を逸らさなかった。
そのまま、強く答える。
「——はい」
たじろぐように、與の目が揺れた気がした。
「……前は、怖かったかも知れません。でも、今は……與くんを知ってます。與くんがどういうひとか、知っているから、怖くないですよ」
自然と、声にやわらかさが混じった。與の見た目のせいか、幼い子を諭すような響きになっていた。
不思議な余韻が、氷に閉ざされた空間に、薄く漂う。
しばらく黙っていた與は、気が削がれたように、するりと姿を戻した。
そして、何を思ったのか、私の腕にそっと触れた。
怪我のせいでまだ細く流れていた血を、指で掬うようになぞりあげる。
走った痛みに私が震えている隙に——ぺろっと。舐めた。血のついた指先を。
「っ?」
どういうことか。驚き戸惑う私に、與は笑う。悪戯を成功させた子供のような笑顔で、すっと屈んだ。
張りついた私の手の上に、彼の掌が重ねられる。
ふわりと、温かさが。
「えっ……?」
春の陽だまりのような熱が、凍りついていた手をゆっくりと解かしていく。濡れる感触に、指先が動いた。
「貰った血のぶんの力。おまえ、これで逃げられるだろ?」
幼くも上から目線な声は耳をすり抜けていた。胸の前に引き寄せた手を、私は閉じたり開いたり。かじかむ指先は、震えながらもきちんと動く。
遅ればせながら、ハッとした。
「鬼の力、使えるんですかっ?」
「おれ、使えないなんて言ったか~?」
むかつくような声音で見下ろしてくる與は、しかし、私の記憶よりずっと小さい。
閉口しかけたところで、すり抜けていた声を引っぱり戻し、私は思いつく。
「私の血をいっぱい飲んだら、この檻も壊せるんですか?」
「それは無理。おまえの血、全部なら、いけるかも知んねぇけど? そこまでして壊す気ねぇよ」
「どうして! 與くん、このままだと凍って死んじゃいますよ。私の血なら、いくらでもあげますからっ」
「要らね~。おれ、血は好きじゃねぇから。血が好きなのは、アイツ。緋乃縁——」
その言葉の途中で、與は口を閉ざした。表情に疑問の影が差す。
数秒遅れて、私も理解した。
「緋乃縁? って言いました? 椿くんのことは分かるんですか?」
「……いや、分かんねぇ。誰だっけ……?」
與の首をかしげる姿に混乱する。
分かるわけではない?
けれども、それならば、思い出しかけている?
「緋乃縁 椿は、赤い眼のひとですよ。與くんと同じ、鬼の」
「ん~?」
「あっ、それなら、白月くんは? 真神 白月。白くていい子で……狼の! 『ヨルさん』って呼んで、與くんを慕ってくれてます」
「……あ~……うーん?」
表情に変化はない。思い出しているのか、反応が乏しい。
懸命に與の記憶を引き出そうとするが、與はやがて面倒くさそうに息を吐いて、腰を落とした。
「どうでもいい」
諦念の言葉が零れた途端、辺りの空気が一段と冷え込んだ。
與の身体に、白い氷が這い始める。今まで緩やかだったものが、急速に、彼を包み込んでいく。
「與くん!」
叫ぶと、彼は淡泊な顔つきで口を開いた。
「なんでそんな必死なんだよ? おまえこそ、くっちゃべってねぇで、早くここから逃げろよ。俺より、おまえのほうが先に死にそうじゃん」
眉を上げて、目を細める。私の気持ちなど理解しないと言わんばかりだった。
「俺は別に、ここで終わってもいい」
その足先から、氷が厚く張りついていく。
「やめてください! 與くんがそんなこと言うせいで、氷がっ……」
「大体なぁ~……冴に騙されて働いてたようなもんだろ~?」
「なんの話をしてるんですっ? そんなことより、壊す手伝いを!」
氷柱を蹴って檻を破ろうとするが、びくともしない。私は焦りを募らせるばかりで、與の呟きには大声で返していた。
與は膝を抱え、身体を丸める。眠ることを選んだかのように、呟きは掠れて独り言めいていく。
「全部の化けもんを倒して、ヒーローになったら……鬼でも、みんなに受け入れてもらえるって……冴が、くだらねぇ話を聞かせてくるから。……だから」
だから——。
その先の答えが、私の胸で、弾けた。
「私からしたら、與くんはヒーローです! 與くんは、私を救ってくれたじゃないですかっ」
涙のように溢れ出た声が、氷の檻に反響する。
「こんな所まで迎えにきた私を、與くんは思い出せないんですか! 仲間なのに、忘れちゃったんですかっ?」
言葉が震え、目頭に力が入る。必死に感情を抑えようとしたけれども、もうダメだった。止まらない。
冷静に押し込めたはずの想いは、與が沈黙を守るなか、私の口を勝手に震わせていく。
「朝美 楪は書類仕事が得意で、仕事は真面目です! ちょっと失礼な態度かも知れませんが、警察官として與くんのことを尊敬しています! 與くんにとって——」
言いかけて、息が止まる。
反応のない與。届かない言葉。
必死だったはずの心が、ふと、ある真実に触れた。
彼は私を救ってくれた。
私にとって、與は特別な存在だった。
でも——彼からしたら?
與からしたら、私の存在は、彼をこの世に繋ぎ止めるほどの価値を持たない。
その事実が、懸命だった私の意志を、冷たく貫いた。
「……あ……」
声にならない吐息が漏れる。
腰が抜けるように、その場にへたり込む。
なぜ、私が来てしまったのだろう。
あの場で私しかいなかったとはいえ——室長からの連絡を待つなり、なんなり、他の策を考えるべきだった。
——私なんかでは、引き戻せない。
悟ってしまった答えが、ゆっくりと心を冷やしていく。
彼に掛けたい言葉は、もう見つけられなかった。




