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赤き深淵の世界で

 赤が、視界のすべてを侵していた。

 私は小指から伸びる細い糸だけを頼りに、闇のなかを走っていた。

 ただ前へ。どのくらい走っているのかも分からない。何時間も、同じ一歩を踏み続けているような錯覚すらあった。

 時間の感覚が、皮膚の熱も、すでにどこかへ失われている。


 頼りの糸は、まるで心臓の鼓動のように、かすかに明滅していた。

 しかし、その(ほの)明かりの外側、一歩でも足を踏み外せば届かなくなる範囲で、何かが蠢いていた。ねっとりとした、這い回るような無数の気配。無言で、ただ存在しているそれらが、私を()めるように見ている。

 (のぞ)き込むような視線。全身に粘つくような湿り気を感じる。

 闇に潜む(カゲ)たちが、私という異質な存在を、じっと観察しているような。


 震えを抑えて、糸の結ばれた小指に力を込める。


(……(あたえ)くん、どこにいるんですか)

 

 心のなかで語りかける。届くはずもないけれど、どこまでも変わらない景色が不安だった。

 

(連絡のひとつくらい寄越せませんか。社会人でしょう?)

 

 口調だけは、軽く。

 

(美人だからって、簡単について行っちゃったんですか。もうちょっと警戒心を持ってください。それでも警察官ですか。まったく)


 わざと茶化すように並べた言葉の先、ふいに余計な問いが。


(ほんとうに、自分から行ってしまったんですか……?)


 胸が、ぎゅっと締まる。

 最後の光景が、鮮やかすぎるほどに思い出されてしまった。

 扉の向こうに去っていく、與の背中。


——俺らは、人じゃねぇ。


 声まで重なる。

 違う。これは、別の記憶のはずだ。

 

 でも、耳の奥に、冷たい響きが()みついている。拒絶するように言われた声が。

 

 胸に走った痛みを抑えようと、無意識に手を伸ばした。

 しかし、胸を掴む前に、私は足を止めていた。

 

(糸が……!)

 

 頼りの光が、視界から忽然(こつぜん)と消えた。

 灯火のように心を繋いでいたはずの糸が、その先までも闇に()まれている。

 

(どうしてっ……)


 目を凝らして捜そうとするが、濁った赤の中には、それらしい輝きはどこにもない。

 焦りと困惑で、呼吸が浅くなる。

 

 小指を確認する。そこに、何も感じられない。

 わずかに結ばれていた温もりが消え、ひやりとした冷たさだけがあった。


 そして、ふと。

 気配がする。背後でも、遠くでもない。

 足許(あしもと)。すぐそこから。


 視線を落とした瞬間、ぞわりと。鳥肌が立った。


 (カゲ)だ。

 ぬらり、と(したた)るようなそれが、闇の中から這い出してくる。

 輪郭の定まらないその影が、じわりじわりと、私の方へ(にじ)り寄っていた。


 動けない。

 心臓が、どくんと、大きく脈打った。

 寒さではない、もっと深い場所から、震えがせり上がってくる。


 光の外、最初からそこにいたのだ。赤い闇に潜んでこちらを見ていた、(カゲ)が。

 獲物を見定めるように動き出した。


「おねえ……ちゃん」


 それは、闇の底から染み出すような声だった。

 濃い空気を震わせ、懐かしさを(まと)いながら、しかし、鼓膜を(きし)ませるような響きで。


(れん)ちゃんっ……?」


 反射的に名を呼んでいた。

 不確かな影が、言葉に引きずられるようにゆっくりと、形を成し始める。

 

 闇から(にじ)むように、黒い輪郭が伸びる。粘り気をもって、手足が人のそれに変わっていく。

 長い髪が、肩に垂れる。

 顔だけは、なお(かげ)ったまま。表情も、瞳も、まるで見えない。


 それでも、わかってしまう。

 蓮花(れんか)だ。


 黒い影の腕が、すうっと伸びてくる。指先が、水中を漂うようにゆらゆらと震えていた。

 

「おねえちゃン……わたし、ずっとここで待ってたんだよゥ……」

 

 今度は紛れもなく、蓮花の声だった。

 ただ、異様に間延びした声が、耳の奥にじっとりと張りついた。

 生きた人間の声ではない。鼓膜を通らず、直接、脳に染みてくるような声。


「お……ネえ、ちゃァん」


 呼ばれる。

 細く、かすれた声が、刺さるように届いた。


 何かが、無音のままに()がれていく。

 寒さでも痛みでもない。感情の芯がゆっくりと削がれていくような、奇妙な脱力感。


 思考が鈍り、現実との境界線が溶けていく。

 目の前にいるのが本当に蓮花なら——私は、応えるべき、では。

 

「ひとりに、しないデ……いっしょに、キテ……」

 

 声が、すぐそばで(ささや)いた。

 息が掛かるほど近いはずなのに、蓮花の顔は見えない。

 怒っているのか、泣いているのか。

 その空白だけが、やけに生々しく、胸を(えぐ)った。


「蓮ちゃ……」


 顔を確かめようと、蓮花に触れようとしたとき——

 左手の小指に、(はし)った。

 

 閃光(せんこう)


 稲妻のように赤い光が走り、闇を裂く。

 電光が骨を貫くような衝撃が、私を縛っていたものを一気に断ち切った。

 頭のなか、聞き慣れた響きが(ひらめ)く。


——幻影に(とらわ)われんな。

 

 ハッとするほど明瞭に。

 

——ちゃんと思い出せ。

 

 癖があって、鼓膜に残る、あの声。

 そうだ、蓮花は。


——お前の妹は、どんなやつだ?


 その言葉が、私を掴み起こす。

 濁っていた意識が、またたく間に澄み渡っていく。

 

「……ごめん」

 

 立ち尽くしたまま、私は影へ向かって静かに言葉を掛けた。

 まだ、顔は見えない。けれどもう、確かめる必要はない。

 

「お姉ちゃん、まだ、そっちには行けない」


 揺らぐ影に、小さく微笑みかける。

 翳る顔には、生きていたころの、優しい蓮花の面影を重ねた。


「どうしても、もう一度会いたい人がいるの。だから……」


 伸ばしかけた手を、顔ではなく、影の頭上へと上げる。頭を()でる気持ちで、優しく虚空をなぞった。

 

「いつか、蓮ちゃんのところに行くよ。ぜったいまた一緒に会える」

 

 あたたかな想いが胸に満ちる。

 視界がぼやけて、涙が頬を伝った。


「そうしたら……いっぱい喋ろう」


 蓮花と、語り合いたかった未来。

 それは今でも、心のなかにある。


「そのときのために、恋愛話のひとつくらい喋れるよう、用意しとくから」


 こみあげる涙に声を震わせながら、それでも笑ってみせた。

 別れじゃない。終わりじゃない。

 ただ、今は——約束の待ち合わせ。


「待っててね」


 その言葉が、いつか迎えるはずの朝のように、そっと胸に(とも)った。

 

 私に応えるよう、影がひとひら、風に揺れる。

 その身をかたどっていた黒が、淡くほどけていく。まるで朝靄(あさもや)のように名残を漂わせながら、音もなく赤い闇へと還っていった。


 最後の一瞬。

 (かす)む影が、たしかに、笑ったように見えた。

 かすかに浮かんだその表情が、切ないほどに懐かしかった。


 ぽつり、と。

 頬を伝った涙が、静かに足許へと落ちていく。


 沈黙が支配するなかで、そのひとしずくが、世界の均衡を崩すように涼やかな音を鳴らした。

 

 ——キィンと、冴え渡る響き。

 

 涙が吸われた場所から、波紋のように淡い光が生まれた。

 水面に()()すように、闇が透きとおるガラスの膜へと姿を変え、周囲を染めていく。


 闇が()れたわけでは、なかった。

 

 分厚い氷が、赤い闇を覆う。

 無音のままに、世界が凍りついていった。

 

(ここ、は……?)


 肺から漏れた息が、白く立ちあがる。踏みしめた足下で、氷がきしりと鳴った。

 あまりに鋭利な寒気が皮膚を突く。

 気づかぬうちに麻痺していた感覚が、極寒の刺激で呼び戻され、本能的に震えた。

 

 ここは一体、なんなのか。

 辺り一面、すべてが氷。(ゆが)むほどに透明な壁に目を細めると、少し先に何かが見えた。


 ——氷の(おり)

 獣の牙のごとく上下から伸びた氷柱(つらら)に、じわじわと閉ざされた空間。その中心に、ぽつんと小さな人影がある。


 黒い髪の、小さな男の子が、膝を抱えてうずくまっていた。

 異質な姿に、息を呑む。

 だが、その子が顔を上げた途端、確信した。


 金と黒の、不揃いの虹彩(こうさい)


「與くんっ!」


 考えるより先に名を呼び、駆け出していた。

 しかし、


「っ……!」


 檻の中へと考えなしに伸ばした腕を、鋭い氷柱の先が裂いた。

 痛みとともに赤が滲む。傷の端から血が(こぼ)れ、氷を赤く染めた。

 それを見た男の子が、ぴくりと肩を震わせる。


「與くん? 與くんですよね?」


 寒さで頬が強張(こわば)る。状況が理解できない。けれども、ただひとつ——與が自分の意思で姿を消したのではないと、疑いようもなく感じた。

 囚われているという現状に、深刻ながらも私は息をついていた。


「捕まってたんですか? こんなに小さくなって……鬼の力は? 使えないんですか?」


 座り込んだ與の姿を確認するが、怪我はない。


「よかった……見つかって。ひとまず、この檻から脱出を……」


 私は間を塞ぐ氷柱に目を向けた。壊せるのだろうか。

 手の甲で(たた)いてみる。普通の氷の感触だ。しかし、氷柱の一本一本が太く、重みがある。素手で砕くのは難しそうだった。

 與の怪力があれば話は別なのだが、その與は小さい。どう見ても非力そうだ。

 

「あっ、そうですよね。ひとりで出られないから、ここにいるんですもんね? どうし……」


 遅ればせながら、気づいた。與からの反応がない。私ひとりで喋っている。

 私は、再度、小さな與に視線を落とした。


 小さな彼は、まっすぐに私を見上げる。

 そして、口を開いた。


「おまえ、だれ」

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