赤い糸
吹き荒ぶ雪が、開いた窓の隙間で唸りをあげていた。
コテージカフェの二階。元は宿泊用だったという一室を、オーナーの厚意で借りていた。ゲレンデは営業を終えていて、リフトも止まっている。
合流した椿・白月と共に、與の手掛かりを探っていた。
「ダメだ。ヨルさんの匂い、全然わかんねー」
窓を閉じた白月が、テーブルに突っ伏する。普段なら小さく笑ってしまう姿なのに、今は笑えなかった。
白月は不快そうに低く喉を鳴らしながら、鼻の上に皺を寄せて呟く。
「この吹雪のせいか……それか、変な力でも働いてんのか……」
「人捜しこそ、おぬしの本領じゃろうに。役に立たぬ狗じゃのう」
指を顎に添えた椿が、気のない声で応じる。ベッドに腰掛け、縁側で茶をすするかのような余裕を見せていた。
「ああっ?」
「白月くん、落ち着いてください。椿くんも煽らないで」
飛び掛からんばかりの白月の肩を、私は慌てて押さえた。肩越し、掌に、白月の喉がグルグルと言っているのが伝わってくる。
「偉そうに言ってんなよ。ヨルさんの居場所、あんただって分かんねーくせにっ」
「こう雪がひどくてはのぅ……視界も悪いじゃろ?」
「おれと同レベルじゃねーか!」
「寒い寒い……老体に堪えるのう」
椿はとぼけた調子で煙に巻こうとしている。すこしひどい。
ふたりが来てくれたらなんとかなる、と信じていた私が間違いらしい。
万策尽きたようすの二人から目を外し、私は窓の外を見た。
何か糸口はないか……
コンコン。
控えめなノックの音が、思考を中断させる。
「失礼します」
入ってきたのはオーナーだった。湯気の立つ珈琲と、手作りらしきサンドウィッチを載せたプレートを手にしている。
「差し入れです。お口に合うかどうか……」
「うむ、ありがたく頂戴いたそう」
遠慮のない早さで、椿がにこやかに応える。
オーナーはほっとしたように笑って、「よかった」とカップを手渡した。
椿の呑気そうな顔を、白月がじとりと睨め上げる。
「ちゃっかり受け取りやがった」
文句を言いつつも、白月の目はサンドウィッチに行っている。
オーナーはプレートをテーブルへと置いた。
「部屋を貸してくださって、ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
オーナーはカップを置いた手を引き寄せ、胸の前で静かに振る。
「いいんですよ。部屋は持て余していますから」
言いながら、オーナーは室内に目を回した。ベッドに腰掛ける椿と、むくれ顔の白月。
「あと二部屋、ご用意しますね」
「いえ、そこまでしていただくわけには……」
「構いません。何か、ご事情があるのでしょう」
ゲレンデで與を捜し回っていた私は、何度もコテージに足を運んでいた。
そのたびに與が戻ってきていないかと確認しておきながら、施設本部への連絡は避け、個人的な捜索にとどめている。オーナーからすれば、私は不審に映っているはずだ。
——お連れの方を、お待ちしているのでしょう?
オーナーは疑いの色を見せず、寄り添うような声音でそう言った。
それ以上は何も尋ねず、淡い同情を含んだ眼差しで、私の所在なさを包み込むようだった。
変わらぬ眼差しに後ろめたさを覚えつつ、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます。ご迷惑はかけません」
小さく息をひそめて告げる。
オーナーは「迷惑など」と、やわらかく首を振った。
「吹雪もひどくなってきましたし、どうかゆっくりなさってください」
穏やかな声音だけを残し、オーナーは部屋を後にした。
しばしの沈黙。
椿がふっと笑みを消し、言った。
「戯れは此処までにして、」
真顔の前置きに、私はぴくりと反応してしまった。
今の今までふざけていたのか。
白月と同じく椿の眼を睨んでしまった私に、赤い光が返ってくる。
「策はある。おぬしのその指に繋がる糸を、よすがにして追えばよい」
「糸……?」
首をかしげて、左手の小指に目を落とす。
編み込まれた指輪。けれども、どこにも糸なんて繋がっていない。
白月も指輪を眺め、はてな、と。頭を大きく傾ける。
「それは、互いに身に着けた者の縁を強く結ぶそうじゃ。おぬしなら、その結びの糸を視ることができるじゃろう」
椿は言葉を切り、真っ直ぐに私を見た。
「おぬしは、『赤き深淵』を幾度となく覗いておるな?」
「はい」
「そこに、自ら踏み込む覚悟はあるか?」
重く、沈み込むような声。
暗い闇を孕む響きに、私は一瞬、言葉を失った。しかし、すぐに頷く。
常日頃、私を試すように脅す緋色が、私の一挙一動を見定めるように捉えている。
「糸をよすがに、赤き深淵を通ってゆけば、鬼まじりの許へ辿り着けるじゃろう」
喜びに、ぱっと顔を明るくしたが、
「ただし」
椿の強い声が、鋭く打ち込まれた。
「我らは共にゆけぬ。相手が『雪姫』であるなら、近づけば我らの妖気を察してしまうじゃろう。指輪に気づいて千切られるやも知れぬ。おぬし独りで、ゆく覚悟はあるか?」
「はい」
言葉が自然と口を衝いていた。
「返事が早いのぅ……?」
少し困ったような椿の表情に、私は口角を上げて返す。
「椿くんたちを待ってるあいだが、長い長い夜のようでした。覚悟する時間は、十分にありましたよ」
「……そうか」
椿は眉尻を下げたまま微笑み、深く首肯した。
「では——赤き深淵へ、私が誘おうぞ」
椿が立ち上がり、両手をゆるやかに広げる。
途端に、床も壁も天井も、その輪郭を保ったまま音もなく色彩を手放していった。代わって、鈍く深い赤が染まり始める。
景色が沈む。空気の密度が増す。海底へ引き込まれるような圧迫感が、身体の芯にじわりと広がっていく。
耳の奥が詰まり、音が遠のいていく。
足下の絨毯は、ゆるりと湿った泥のような感触に変わっていた。靴底を掬いとるように、粘る何かが纏わる。
鉄錆の匂いが、風に乗って鼻腔をなぞった。閉ざされた室内に、風などあるはずもないのに。
椿も白月も、視界の端にあるはずだった。
しかし気づけば、その姿は背景に溶け込み、境目すら判然としない。
私だけが取り残されたように、赤の只中に立っていた。
何度も経験したはずの感覚。眩暈さえ、もはや馴染み始めている。
「おぬしは、元来よく視える娘じゃ。精神を研ぎ澄まして、指の根を見るがよい」
遠くに響く椿の声に従って、小指の付け根へと意識を集中する。
水を掻き分けるように、慎重に何度も視線を重ねるような気持ちで、そこだけを凝視する。すると、
赤く、淡く、ひと筋の光が浮かびあがった。
じっと見つめているうちに、確かな存在感を持って、一本の赤い糸が現れる。
繊細で、震えるように揺れながら、糸は遠く、深淵の果てへと伸びている。
私は、迷いなく一歩を踏み出した。
糸の指す方へ——
「気をつけなされ。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているという」
椿の忠告に、後ろから白月の声が重なる。
「ユズさん、負けんな!」
正反対の温度を持つ、ふたつの声に、自然と笑いがこぼれた。
「いってきます!」
ありふれた朝のように。
戻るべき場所へと声を送って、私は駆け出していた。
部屋には、椿と白月だけが残された。
「……あっさり行っちまったけど、ユズさん、ひとりで大丈夫か?」
「さてのぅ……」
いざというときは、與を諦めて楪を引き戻すしかない。
その事実は口にせず、椿は肩を竦めた。
「こればっかりは、神に祈るしかないのう」
「おれに? 祈ればいいのか?」
「シロは狗じゃろうて」
「ちがう! おれは神様だ!」
きゃんきゃんと吠える白月の横で、椿が深くため息をつく。
「ほんに、シロはうるさいのぅ……。ほれ、そこの物でも食べて静かにしておれ」
「指図すんな! ……けど、食う!」
文句を垂れながらもサンドウィッチを掴み取り、かじる白月。
ふと、テーブルの端に置かれた白月のスマホが震え、振動音が鳴り響いた。
「げ」
表示された『ウィオラ』の文字。白月の喉がくぐもった音を鳴らす。
椿と白月は、互いに無言で横目を交わした。出たくはない。状況説明が面倒、かつ出た者が全責任を負わされる予感がする。
薄い筐体が、無言の圧を放ちながら、二人の目の先で震え続けていた。




