恋しきは追いかけて
だから私は言ったのだ。
——與くんは、ぜんぜん連絡に出ないじゃないですか。
何度通話ボタンを押しても、応答はない。どうやら電源が落ちているらしい。予約していたホテルにも問い合わせたが、與が訪れた形跡はない。
日はすっかり暮れ、ナイター営業の照明が雪面を照らしていた。
私は低速ながらもゲレンデを見回った。オーナーから聞いた雪女伝説が、頭にこびりついて離れない。與が知り合いだと言っていたあの女性——まさか。
行方不明者の捜索ではなく、與を捜しているなんて本末転倒ではないか。
施設本部に捜索の協力を頼もうとしたが、思いとどまり、先に捜査室へと報告を入れることにした。
菫連木室長には連絡がつかず、繋がったのは、特異メンバーで一番スマホに出るのが早い白月だった。
事のあらましを伝える。
懸命に緊急事態だと訴えたつもりだが、通話越しの白月の反応は薄い。
《その女の人が雪女だったとしても、ヨルさんは負けねーんじゃ……?》
冷静な言い方だった。確かに、負ける與は想像がつかない。
かといって、心配が消えるわけではない。どう動くべきか決めかねていると、白月がためらいがちに呟いた。
《戻ってこねーなら、ヨルさんの意思だよな……?》
思わず息を詰める。
言葉の意味が、すぐには呑み込めなかった。
「……與くんが、望んで雪女と一緒にいるってことですか?」
問い返した自分の声が、思いのほか不安定だった。
《……だって、そのひと、伝説どおりなら、すっげーキレイって……》
すぐに否定する言葉が見つからなかった。
人あらざる美しさ、とまでは言わないが、あの女性の容姿は整っていた。すらりとした肢体も、白い肌も、雪景色に映えるような美しさだった。
與が「知り合いだ」と言った彼女が雪女だったとして、正体を知っていながらも、與が惹かれる理由があるのだとしたら。
《ユズさん、知らねーかもだけど……ヨルさんって、夜の街で遊んでたり……するし》
初めて聞く話だ。……いや待て。
——もし、そういう過ちがあったとして、何も覚えてないなんてことがありますかっ!
——あるだろ、誰でも。
身に覚えが、ある。温泉旅館で泊まった翌朝、なんだか不誠実な発言をしていた。
思い出した途端、複雑な怒りが込み上げてきて押し黙った。
白月が少し真面目な声を出す。
《ユズさんは、ヨルさんが捜査官をやってる理由を知ってる?》
「……怪異を叩き潰したいと言ってました」
《そう言ってるけど……おれ、ヨルさんは、何か捜してるんじゃねーかって思うときがあって》
「何か……?」
問い返すと、白月は間を挟み、慎重に言葉を選ぶように続けた。
《分かんねーけど。なにか——誰かを、捜してる。そのために捜査官やってんじゃねーかなって。……だから、もしかしたら、その何かが……雪女だったのかも》
息が止まる感覚を覚えた。
心臓が小さく跳ねる。
(與くんが、彼女を?)
言葉が、出てこない。
《ヨルさんが本気になったら、そのへんの怪異なんか目じゃねーもん。帰ってこないってことは……ヨルさん、その女の人といたいってことなんじゃ……》
一瞬、ゲレンデの平たい雪面が波打ったかのように見えた。ぐらりと揺れた世界で、バランスを失わないよう足に力を込める。
——もし與が、自ら彼女の許に残ったのだとしたら。
ふいに、頭の中でイメージが浮かぶ。與が女性と並んで雪の世界を歩くさま。
微笑んで、手を取り合いながら、人の踏み入れない場所へと向かっていく……。
そんなのは妄想だ。彼らしくもない。
けれども、白月の言葉が突き刺さるのは、それがまったくの荒唐無稽ではないから。
與は、自分の意思で彼女と一緒にいる。そうだとしたら、私がこれ以上捜し回ることは、ただの自己満足なのか。與の選択を否定して、引きずり戻すような真似なのか。
喉の奥が、締めつけられる。
「……このまま帰ってこなかったら、室長は怒りますよ。ぜったいに怒ります。室長に許可が取れずとも、私たちで與くんを捜すべきです」
建前を探して言葉を繕う。だが、白月の返事は。
《……おれは、ヨルさんが幸せなら……》
なにを、言っているのか。
——ヨルさんが、幸せなら。
それでいい?
このまま、もう、会えなくなっても?
心臓が、ぎゅっと縮こまる。
喉の痛みが増す。息が苦しい。
でも、それ以上に。
嫌だ。
そんなの、私は受け入れられない。
心の奥で燻っていたものが、一気に燃えあがる。
熱く、激しく。
この感情が何かは分からない。分からないが——
それでも、私は。
「與くんに……あいたい」
胸の奥底からせり上がる想いが、とうとう言葉となって唇を震わせた。
声とともに溢れた涙が、頬を伝って、ひとしずく。
——あいたい。
しん、とした沈黙を破るように、音が耳へと飛び込んだ。
《なんで取んだよっ!》
白月の抗議が、通話の向こうで遠ざかっていく。代わりに、落ち着き払った声音が割り込んだ。
《シロでは、乙女の憂いも察せぬじゃろうて……》
シルクを撫でるような声。微笑を含んだ余裕と、皮肉めいた温かさが滲む。
《大方、話は聞こえておったよ》
ひときわ静かな声音が、揺れ動く私の心に、波紋のように重なった。
「椿くん……」
彼はいつもの調子で、低く穏やかに相槌を打つ。
《雪女——と言ったの。その者に、私は少なからず心当たりがある》
「ほんとうですか?」
スマホを握りしめ、言葉にすがるように問い返した。
《うむ……私も、鬼まじりがその辺の怪異に屈するとは思わぬ。だが、相手が『雪姫』となると……話は別じゃ》
椿の声に潜む危機感が、背筋を冷たくなぞり落ちた。
「ゆきひめ……?」
その名を、椿は単なる怪異としてではなく、まるで一つの脅威として口にした。
問い返してから、ひらめく。
雪の姫君。雪女の本来の呼び名。
《雪姫は、人を攫うとしても己に魅入った者しか攫わぬはずじゃが……あるいは、世を儚む者か……》
一拍の沈黙。
《実のところ、鬼まじりは特異への未練などないじゃろう。もし、現世を捨て、雪姫との幽世を望むならば……》
椿の静かな言葉が、鳩尾に冷たく降りてくる。
「——それでも!」
声が、自然と跳ね上がった。肺が小さく軋む勢いで、身体の底からすべてぶつけるように椿の言葉を遮った。
「私が、会いたいです」
私を衝き動かす感情が。
胸の奥から湧き上がる想いが、堰を切ったように溢れ出す。
理屈も建前もない。ただ素直な想いで話していた。
「ここで……さよならなんて、できません」
声が震えた。けれども、気持ちは揺るがなかった。
「與くんは、私を救ってくれました。ちゃんと、真実と向き合わせたうえで、優しい終わりをくれました」
思い出すのは、あの夜。
大きな掌が作ってくれた、あたたかな夜色の世界。
蓮花の笑顔を思い出せた、大切な時間。
「だから、もし與くんが望んだ道なら、私だって邪魔はしません。……その道が幸せかどうか、私には分かりませんが……これは、私たちが判断することではなく、本人に確かめるべきことだと思います」
口にした言葉は、飾りのない、紛れもない本心だった。
幸せを決めるのは、本人であってほしい。
だからこそ。
「與くんに直接訊くまでは、私は引き退がれません!」
とびきり強く言いきった瞬間、通話の向こうで、くくっと音が聞こえた。椿特有の、喉を鳴らす愉しげな笑いが、はっきりと。
《よい心意気じゃ。然れば、我らも手を貸そうぞ》
椿の声音は朗々と、頼もしく響く。
《シロの鼻も、役に立つやも知れぬ。共に連れてゆくから、しばし待っておれ》
奥で、白月が《えっ》と素っ頓狂な声をあげていた。
「ありがとうございます」
《……その言葉は、無事に彼の者と再会を果たしてから、聞かせておくれ》
ひと呼吸を置いた椿の声は、物語の結末を待つみたいな響きだった。
どこか達観した裏に、ささやかな祈りにも似た温もりがあるような。
通話越しのはずなのに、やわらかな笑みを浮かべ、眩しげに目を細める椿の顔が見えた気がした。




