雪女伝説
むかしむかし、この雪深い山には、美しい姫君が棲んでいたという。
夜の闇よりもなお黒い髪、淡雪より白い肌、椿のごとく赤い唇。
その姿は、人あらざる者が持つ美しさであった。
人々は彼女を『雪の姫君』と呼び、若者は決してその姫君の眼を見てはならぬと語り継いできた。
なぜなら——
姫君は、目の合った美しき若者を攫い、帰さぬからである。
ある年の冬、ひとりの若い旅人が峠を越えようとしていた。
その男は、旅の途中で世にも美しい女の噂を耳にしていた。
「この山には美しい雪女がいるそうな。見目麗しい男を見ると、自分のもとへ引きずり込んでしまうのだと」
男は笑い飛ばした。
「そんな夢のような話があるものか。雪女が本当にいるのなら、ぜひ会ってみたいものだな」
そう言って、雪の降りしきる峠を進んでいった。
——そして、そのまま姿を消した。
男を見た者はいない。
どれほど探し回っても、男の持ち物すら、何ひとつ見つからなかったという。
「美しい雪女——って、自分で言うかぁ~?」
語る女の言葉を聞き終えた第一声で、與は胡乱げに呟いていた。伸びがちな語調のせいか、その声は洞窟の端まで薄く反響した。
氷柱が垂れ下がり、青白い光を反射する洞窟の奥。
氷のテーブルセットに着く與は、目の前の女を改めて眺める。
長い黒髪は腰まで流れ、白磁のような肌は氷の光を受けて青白く艶めく。身に着けるのは淡い色の着物。ここに飛ぶ前、スキーウェアから瞬きの間に変化した。
與の批判を聞き、即座に女の頬がふくらむ。
「わらわが言うたのではない。皆が言うのじゃ」
「だとしても? 自分でわざわざ語るかって言ってんの。省けよ、図々しい」
「そなた! 兄さまの気を纏っておりながら、なんと冷たいやつなのじゃ!」
女は袖の中で拳を握りしめ、身を震わせながら訴えかける。
「本当の兄さまなら、目を合わせるたびに、わらわの美しさを囁いてくれるというのに」
「あぁそう」
與は心底どうでもよさそうに、適当な相槌を打った。
女は柳眉を吊り上げ、じろりと睨む。
「わらわが話したいのは、そこではない。『雪の姫君』と呼ばれておったのが、いつのまにやら『雪女』と呼ばれるようになったことじゃ。誰じゃ、勝手に呼び名を変えた者は!」
「知るかよ……」
與はこめかみを押さえながら、深々とため息をついた。
コテージで自分たちと同類らしき女を見つけたはいいが、肝心の話が進まない。
與の問いにはまともに答えず、一方的に話し続ける。伝説だの、美しさだの、聞いてほしいことだけを並べ立てる。
放置して戻りたい。だが、彼女の語る伝説を聞く限り、行方不明者の原因がここにある気はしている。
(……もういっそ、殴り倒して『事件解決』にしちまおっかなぁ)
——そんなのダメですよ、與くん。
物騒な思考に、空耳が聞こえた。下がった眉尻と、ムッとした唇で咎めてくる顔まで浮かんだ。
巻き込まないようにと離した楪は、コテージに置き去りにしたままだ。糸の先が動く気配はないが……。
うっすらと眉を寄せた與の変化を見逃さなかったのか、女が小首をかしげた。
「……なんじゃ、気もそぞろに。もしや、『かふぇ』にいた娘を案じておるのか」
與は応えず、ただ半眼を向ける。
「俺の話は聞いたよな? お前、人間の男を二人——いや、何人か……攫ってねぇか?」
與の鋭い声音を受け、女の唇が弓なりに曲がった。
「なんのために訊くのじゃ。嫉妬しておるのか?」
「誰がするか。俺は捜査の一環で訊いてんだよ」
無情に言い捨てる與を、女は見つめたかと思うと、ふるりと肩を揺らす。
「捜査?」
きょとんとした顔が、次の一瞬には弾けるような笑顔へと変わった。
氷の洞窟に響く、鈴の音のような笑い声。
朗らかなのに、背筋が冷える。
「何を人間のようなことを。兄さまともあろう方が」
「だから、俺は——」
言いかけた與の唇に、冷たい指が触れた。
かすかに皮膚が粟立つ。
與の鋭さを帯びた眼光と、女は至近で瞳を合わせた。
頬を上気させ、双眸を潤ませ、恋人と逢瀬を交わす夜のように顔をほころばせた。
「分かっておる。そなたは兄さまではないの」
女は妖艶に微笑みながら、與の金の眼を覗き込む。
「じゃが……この眼は兄さまのものじゃ。わらわが見間違うはずがない」
與は弾かれたように身を引いた。
ただの一歩ではない。
地面を蹴り、洞窟の氷を滑るように大きく距離を取っていた。倒れた氷のイスが、遅れてけたたましい音を立てる。
くすくすと喉奥で笑いながら、女の身体が宙へと舞う。
髪が、着物が、まるで水中にでもあるかのように、雪煙を帯びて靡いた。
「兄さまの気を纏い、その香りを漂わせ、兄さまの瞳を見せる……なのに、器は弱き人間じゃ」
女は愉しげに唇端を持ち上げる。
「なんと心躍ることか。わらわのものにならぬと諦めた兄さまが——紛いものでも、手に入るとは」
強い雪風が吹き抜けた。
與の足が凍りつく。
すぐさま衣服に手を入れた與は、馴染んだ柄を掴み、勢いよく抜き放つ。高い音を立て、氷の足枷が砕け散った。
「アレ。……なんじゃ、金棒もどきを持っておったか」
にんまりとした唇を、女は袖で隠した。
「一筋縄ではゆかぬ——ということじゃな」
ざわりと、洞窟の気が変わる。
玲瓏たる氷の世界に、異質な翳が差した。
青白い壁に、赤黒い闇が噴き出し、薄い靄となって揺らめく。
與の額から、ぎちりと角が突き出た。
赤黒く染まる根元。獣の爪のように鋭く湾曲した先端が、闇を呑み込むように鈍く光る。
金の眼が煌々と輝いた。
洞窟の氷壁に、鬼気迫る姿が映り込む。
辺りには、氷床が沈むほどの重圧が掛かった。
「ほう……。人の器で、鬼の力を使えるのか」
感嘆の響きに、女が手を叩く音が重なる。
拍手の音は甲高く鳴り、その音に合わせて氷の槍が雨のように降りそそいだ。
「兄さまなら、この程度は児戯じゃろう?」
與は反応するより先に動いていた。
槍の隙間を縫って身を翻し、氷を蹴って滑る。突き刺さりかけた槍は、すんでのところで警棒を振るい弾き飛ばした。
鋭い破片が視界を飛ぶが、與は止まらない。しなやかに警棒を操り、一直線に女を狙う。
——しかし、女の姿は掻き消えた。
刹那、與の背後に冷気が集まる。
「遅いぞ」
耳許で囁く声。
白い指が、するりと與へ伸びた——
ガキンッ!
與の警棒が、氷の刃を弾いた。
すれ違いざま、女の長い髪が風を孕んで揺れる。
與はすぐに距離を取ると、警棒を構え直した。
「良い良い! やるではないか。さすが兄さまじゃ」
女は無邪気に声をあげる。
與は、うんざりしたように息を吐いた。
「その呼び名、やめろよ。俺はお前の兄貴じゃねぇ」
女の薄い皮膚が吊り上がり、顎先から頬にかけて蠱惑的な影を差し込む。扇のような袖を揺らして、女は艶然と微笑んだ。
「ならば、そなたは何者なのじゃ?」
與はその言葉に眉をひそめる。
何者か——與 代籠。この身体に与えられた名前しか、與は知らない。
いや、知っている。
與 代籠の出自も、幼き頃に鬼となった経緯も知っている。『與 代籠の物語』は、聞かされている。
けれども——しらない。
與の頭には、何も残っていない。
ふとしたとき、誰かの影が背骨に張り付くような感覚がある。
自分が自分であることに、一瞬のズレが生じることがある。
——この身体に残るのは、どちらの記憶なのか。
與は舌打ちし、答えることなく足を踏み出した。
洞窟の空気が揺れる。
與は警棒を振り下ろし、女の生み出した氷刃を打ち砕く。飛び散る破片が、鋭い光を散らした。
女は軽やかに躱して後退した。
與は逃がしはしない。一気に距離を詰めると、警棒を突き出した。
女が細い指をひらめかせ、周囲の氷を操る。
鋭い刃や壁が瞬時に生み出され、與の動きを阻もうとする。
しかし、意味はなかった。
與の警棒が、次々と氷を砕いていく。
防御も、障壁も、立ち塞ぐすべてを粉々に砕いた。
洞窟の岩壁まで追い詰められた女が、初めて驚きに目をみはった。
もはや逃げ場はない——そのはずだった。
「ふふ……見事じゃ」
女の唇が歪む。
次の瞬間——冷気が渦巻き、與との間に氷の壁が生まれた。
ただの壁ではなかった。
透き通る氷面が、與の姿を映し出している。
(——鏡?)
與の動きが、一瞬止まった。
「雪女の伝説を、聞いておらなんだか?」
女は密やかに唱える。
——その姫君の眼を見てはならぬ。
「……あれは、惜しい警告じゃ」
女は淡く笑む。
與が映る氷の鏡は、ただの反射ではなかった。
そこに映るのは、與の姿ではなく——心。
鬼の角を持ち、人として生きる者。
その歪さが、鏡の中で何重にも揺らぎ、ねじれる。
「人の真似をするのは、苦しかろう?」
鏡向こうの鬼が、嘲笑うように口を開いた。
「なんのために人に紛れておるのじゃ。正しく——こちら側へ来れ」
胸の奥が、ひどく冷える。
思考が、硬直する。
「……っ」
警棒を振るう腕は重く、冷気が衣服の中まで侵入する。
與は歯を食いしばるが、身体の芯まで凍えが迫ってくる。
「心配は要らぬ」
女が近づき、そっと與を抱きしめる。
雪のように白い手が、いとしげに與の頬を包んだ。
「少しの間こうしておれば、心まで凍るじゃろう」
金と黒の眼が、昏く霞んでいく。
「次に醒めるときは、わらわと蜜月を過ごそうぞ」
ひんやりとした唇が、與の額に触れ——
與の全身が、薄い氷に包まれた。
風が吹く。
與の身は陣風に持ち上げられ、暗い洞窟の奥へと引き寄せられていった。
そこには、氷漬けになった行方不明者、二人の亡骸が横たわっていた。




