仮初のえにし
フォークを突き立て、キッシュを口に運ぶ。
ほんのり温かい生地から溢れるチーズの香りと卵のコク。でも、味がよく分からない。分かろうとしなかったのかも。私は喉に押し込んでいた。
與は一向に戻ってこない。
珈琲のカップに手を伸ばす。ふと視線が指に吸い寄せられる。
左手の小指。そこには、水引のように編まれた、赤い糸の指輪が嵌められていた。
繊細な糸が撚られ、幾重にも結ばれながら一つの輪を成している。規則的な連なりなのに、丁寧に編まれた温もりを帯びているせいか、不思議な揺らぎがあった。
——相生の結び。
光の加減でかすかに艶めき、神聖な印象を見せる。
これを着けた日のことが思い起こされた。
その日、菫連木室長が持ってきた小さな桐箱。
蓋を開けると、中には赤い糸で編まれたふたつの輪が並んでいた。
「知り合いの神職に作ってもらったんだ。相生の結び——まぁ、ピンキーリングだな。左手の小指に着けてみてくれ」
明るい声で告げた菫連木室長が、私と與にそれぞれ手渡す。糸で作られているのだから当然だが、指輪は軽かった。
けれど、編み込まれた糸の一本一本が、妙にしっかりとしている。
「これは……なんですか?」
オシャレでくれた——わけもなく。
指に通し、手を広げて素朴な装飾品を見つめる私に、菫連木室長が少し神妙な顔をした。
「この前、襲われただろ?」
菫連木室長の視線が、私と與の双方をかすめる。
神隠し事件で襲われたとき、與が間一髪で私を助けてくれた。
「朝美さんの身の危険性が気になっていたからな、対策のひとつとして試しに用意した。今後、朝美さんに何かあったときは、與さんが分かるよう……縁を結んだんだよ」
「縁……?」
疑問を浮かべつつ、與の方を見る。
與は小指の付け根を確かめるように掌を回し、表情を変えずに眺めていた。指輪を見下ろす目だけが、なんとなく不機嫌そうに細められている。
「すぐに分かるさ」
菫連木室長は目に含みを持たせて笑った。
その言葉どおり、私はすぐに理解することとなる。
日々、菫連木室長が「きっと事件だ」などと宣うたび、私たちは唐突な捜査に駆られるわけなのだが……
私が現在地を知らせなくても、與が正確に私を見つけ出すようになった。ビル内ではもちろん、休日の外出時ですら。
GPSでも通信でもない。私がどこにいるのかを、当たり前のように知っている。
私には何も感じられないが、與の目には何かが映っているらしい。
——これで縛られてんだからな。
カウンターの上、小指の赤い指輪を見つめる。
先ほど吐き捨てるように言った與の声が、耳の奥で反響する。
縛られている。
その言葉が、胸に細く絡みつく。気にすることではない、と。ほどこうとするたび、余計に絡まって締めつけるような——。
「大丈夫ですか?」
ふいに掛けられた声に、肩が跳ねた。
意識が現実に引き戻される。
振り返ると、オーナーがいた。
カウンターの向こうではなく、少し離れたテーブルのそば。布巾を持った手がゆるく動く。テーブルを拭き続けながら、こちらを気遣うような眼差しを向けていた。
店内には、もう他の客の姿がなかった。いつのまにか皆出て行ってしまい、残されているのは私とオーナーだけ。
暖炉のなか、薪がパチっと爆ぜ、炎が揺らいだ。
『大丈夫』の意味を考える。
與が美人と出て行き、私はここに取り残された。オーナーから見れば、恋人に振られたように見えるのでは。
傍から見た自分の境遇を想像し、言葉に詰まる。私と彼は、そんなドラマみたいな関係じゃないのに。
「……行方不明の方を、お捜しなんですね。お知り合いですか?」
沈黙を察したのか、オーナーが話を変えるように切り出した。
「あ、いえっ、関係は何も。仕事で……」
「あぁ、保険会社の方でしょうか? 大変ですね」
捜査は極秘だった。言い淀んだ私を不審に思うことなく、オーナーはねぎらいの言葉をくれる。
彼は申し訳なさそうに、伏し目がちに言葉を続けた。
「お力になれず、すみません。捜索隊が念のため森にも入りましたが、人の痕跡はなかったそうですよ。このゲレンデは無関係なのかも知れません……」
「……そうですね」
言葉だけの同意を返しながら、思考を切り替える。いま重要なのは捜査だ。
単なる失踪であれば、私たちの出番ではなくなる。與が『怪異ではない』と断定してしまえば、そこで捜査は終わりだ。
このままだと、そうなる可能性が——
「痕跡なく消えてしまったとしたら、」
私に寄ってきたオーナーが、場の雰囲気を変えるようにくすりと笑みを鳴らした。
「それはもう、雪女が犯人ですね」
思わぬ言葉に、ぱちりと目をまたたく。
雪女。
怪異めいた名が、ごく自然に口にされた。
「雪女がいるんですかっ?」
思わず前のめりになっていた。
オーナーが目を丸くする。
「あっ……いえ、違うんです! そういう物語が大好きで……つい」
怪異の話に食いついたのを誤魔化そうと、慌てて手を振ったが、我ながらすこし苦しい。
けれども、オーナーは納得してくれたのか、驚いた表情を崩した。
「なるほど」
柔らかな笑みとともに、ゆっくりと頷く。落ち着いた仕草で布巾を畳むと、穏やかに続けた。
「それなら、ちょうどいいですね。この辺りには、雪女の話があるんですよ。あまり有名ではありませんが……よければ、お話いたしましょうか?」
意外な情報に、胸が弾む。
與の眼ではなく、私の力で怪異のしっぽを掴めるかも知れない。
(與くんがいつまでも女の人と遊んでるから、私が解決しましたよ——なんて)
與に掛ける言葉が頭に浮かんだ。
「はい!」
さっきまでの重たい気分を紛らわすように、私は前向きな気持ちで身を乗り出していた。




