邂逅
このゲレンデにいる全スキーヤーとスノーボーダーに謝りたい。
のろのろとハの字で、ブレーキをかけまくりながら進む迷惑なスキーヤーは私だ。
「……脚が……しんじゃう……」
ぷるぷると震える脚は、産まれたての仔鹿。
恐怖や緊張ではなく、ただ過度なブレーキで脚を酷使した結果、筋肉が限界を迎えている。
ゲレンデの中腹にあるコテージへ、私は休憩のために足を向けた。一見すると宿泊施設だが、カフェらしい。事前に調べて把握していた。
ドアを開けると、香ばしい珈琲の香りが鼻をくすぐる。
「いらっしゃいませ」
あたたかな声で迎え入れてくれたのは、優しげな笑みを浮かべたマスターらしき男性だった。
「オーダーも受け取りも、カウンターでお願いしております。どうぞこちらへ」
促されるままにカウンターへ進む。慣れないスキー靴と、疲労で力の入らない脚のせいか、かなりもたついた。小さなメニューを目でなぞる。
本日の珈琲とキッシュを注文。お腹が空いていたわけではないが、少しでも長く休む口実が欲しかった。
店内を見渡すと、テーブル席はすべて埋まっている。仕方なくカウンターの端へ腰を落ち着けた。
暖炉で燃える薪の熱が、室内を暖かに満たしている。ほっと一息をついていると、控えめなベルの音が鳴った。扉が開いたのだ。
「あ」
與だった。
無自覚で漏れた私の声に、與は素っ気なく目を向けた。一瞥しただけで、すぐにカウンターへと歩を進める。
「本日の珈琲」
絡みつくような響き。聞き慣れたはずの声が、どこかよそよそしく聞こえる。
私とほぼ同時に提供されたカップを手に、與は隣に座った。
隣に来ないかも——。
どうしてか、そう感じていた私は、無意識に安堵して口許をほころばせていた。
「先に行ったかと思いました。與くんも、まだこの辺にいたんですね」
親近感を込めて問いかけると、與は細い横目で私を見た。心外な顔。あほか、と胸中の声まで聞こえたような。
「GPSの地点を中心に、ひと通り回り終えた。立ち入り可能な範囲で」
「え……嘘ですよね?」
「なんのための嘘だよ」
嘘ではない……だと。いかに私が、亀速度かつ無意に過ごしていたのかが浮き彫りになった。
衝撃から反応できずにいると、與がため息をついた。
「めぼしいもんはなかった」
「……そうですか」
私の返事に、與はとくに興味を示さない。珈琲に口をつけることなく、指先でカップの縁をなぞっている。
與の長い指をぼんやりと眺めつつ、次の手を考える。與の眼につくものがない以上、普遍的な捜査をするしかない。
思いきって、カウンター越しに立つマスターへ声を掛けた。私も役に立たねば。
「あの、すみません。この方たちを捜しているのですが、ご存知ないですか?」
スマホの画面を傾け、写真を示した。
カウンターの向こうで、マスターがうっすら目を細めた。今の今まで意識になかったが、コテージに似合わない、深窓の令息のような男性だった。
栗色の髪がやわらかく額にかかり、伏せた睫毛の影が色白の肌に落ちる。穏やかな目許に、上品な顔立ち。雪景色に溶け込みそうな、繊細で儚げな印象。
グラスを拭く手を止めて、マスターは私と目を合わせた。
「あぁ、そのお二人ですか。警察にも確認されましたが、記憶になく……ひょっとすると、こちらにいらっしゃったかも知れません。ですが、なにぶんお客様の数が多いので。相当に常連の方でない限り、覚えられないですね」
落ち着いた声でそう返し、申し訳なさそうに微笑んだ。
それもそうか。
手応えのない反応に、どうしたものかと悩む。
——カラン、と。ベルの音がした。
扉が開き、冷たい風が店内に滑り込んだ。
自然と流れた目の先で、長い黒髪が揺れる。
烏の濡れ羽色。漆黒の光を帯びた髪はなめらかに波打ち、白い肌を際立たせるように流れる。
くっきりと形の整った赤い唇が、そっと開く。長い睫毛の奥で、瞳があでやかに輝く。
目を奪われるほど美しい女性が、そこにいた。
不釣り合いにも思える平凡なウェアとスキー靴を身につけ、慣れた足取りでカウンターへ向かう。
マスターが尋ねた。
「こんにちは、いつもので?」
マスターに向けた微笑みには、常連らしい親しみが滲んでいた。
細い指先で珈琲のカップを受け取った女性は、ふと與の方へ視線を向け——
瞳を、大きく開いた。
「兄さまっ」
透き通った氷が奏でるような響きだった。澄んだ鈴の音のように、甘く、涼やかに。
喜びに声を高くあげた彼女は、ふわりと駆け寄ると、迷いなく與の腕に手を絡めた。
「お久しゅうございます」
美しく整った顔に愛らしい笑みを浮かべ、與を見つめる。長年の再会を喜ぶような仕草だった。
(あにさま……?)
私は驚きに固まる。
與にそんな親しげな態度を取る女性がいるとは思わなかった。それを受け入れる彼も想像できない。
案の定、唐突に絡んできた彼女に、與の眉が鋭く跳ね上がっていた。
「あ? 誰だ、お前——」
横を向いて彼女と瞳を合わせた瞬間、與の動きが止まる。凍りついたかのように。
與は眉根を詰め、表情固く見つめる。
彼女もまた、何か違和感を覚えたように目を丸くして止まった。
そこだけ別世界のように見つめ合う二人の姿が、ふいに私を孤独にさせた。
知り合いなのだろうか。でも、與の反応は、懐かしさとは違う——。
「なんと……面妖な。そなた、いったい……?」
彼女の声に、確かな戸惑いが混じる。何か言葉を継ごうとしたが、與がそれを遮るように立ち上がっていた。
「外で話す」
與の瞳が、一瞬だけ揺れた。彼女の腕を掴むと、そのまま力強くコテージの外へ向かおうとする。
「與くんっ?」
とっさに声をあげていた。
「どこに行くんですか!」
私の声に、與の足が止まる。
振り返った彼の顔には、面倒そうな色が浮かんでいた。
「あ~、こいつ、俺の知り合いで。軽く話を……」
曖昧な弁解をする與の目が泳ぐ。
(知り合い? それなら、逃げるように外へ出ずとも……)
「……単独行動は、ダメです。室長命令です」
疑念は口に出さず、それでも訴えるように言うと、與は小さく鼻を鳴らした。
「さっきも単独行動だったろ」
冷ややかな與の指摘に、言い返そうとして口ごもる。
與はすでに一巡してきたと言っていた。そのときは何も言わなかったのに、今になって引き合いに出すのは理屈に合わない。
——けれど、今は。
與が腕を取る、綺麗な女性。きょとりとした瞳ではあるが、與をまじまじと見つめている。仄かに頬を染めるその表情と、與との距離感が、私の胸に引っ掛かる。
「……それとこれとは別です」
自分でも筋の通らない言い方だと思う。でも、引き下がるつもりはなかった。
「離れてるときに何かあったら、どうするんです? 與くんは、ぜんぜん連絡に出ないじゃないですか」
冷静な建前をもって、與を見据える。何か言い返される前に、先手を打つつもりで。
けれども、彼は片方の眉をかすかに上げ、浅く息を吐いた。
「離れても問題ねえよ」
言葉とともに、與の右手が持ち上がる。
骨張った手の上、小指には、赤い糸を編み込んだ指輪があった。
——相生の結び。私の指にも、同じ物がある。
「お前がどこにいようが見つけられる。これで縛られてんだからなぁ〜」
無雑作に見せつけた指と、鬱陶しげな声音が、私の胸をちくりと刺した。
與は迷いなく踵を返し、彼女を伴って店を出る。
「まっ……」
待ってください。
伸ばしたかけた手は届くことなく、重たい扉に閉ざされていた。




