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緋色の予知

 静かなバーの片隅で、(あたえ)はグラスに口をつけていた。

 やわらかな明かりに浮かぶのは、独りきりのカウンター席。(ほの)暗い空間に、グラスの触れ合う音と静かなジャズが溶けている。

 與が新たに酒を頼もうとした、そのとき。


()みすぎではないかえ?」


 唄うように響く声。

 どこからともなく現れた緋乃縁(ひのふち)一瞥(いちべつ)し、與はわずかに目をすがめる。


「そんなヤワな身体じゃねぇよ」


 與は気怠(けだる)げに肩を(すく)めつつ、指先で空のグラスを(もてあそ)ぶ。

 緋乃縁は酒の匂いを捉えるよう、かすかに息を吸った。

 

「誰も身体の案じはしておらぬ。懸念しておるのは、おぬしの財布のほうじゃよ」


 與は鼻を鳴らし、グラスをことりとカウンターに置いた。


「あぁそう。金があり余ってるあんたと違って、俺は一介の公務員だからなぁ~?」


 緋乃縁は指先で口許(くちもと)を隠すように喉を鳴らし、くつくつと笑う。悪戯めいた響きが空間を震わせる。


「ならば、私が振る舞おうか」


 言うや否や、緋乃縁は與の隣に腰を下ろした。指先を軽く持ち上げ、バーテンダーに合図を送る。

 選ばれたのはボルドーの赤ワイン。照明を受けて妖しく光る、血のように濃厚な液体がワイングラスの底に沈んでいく。

 與は苦い薬でも飲んだかのような顔をした。


「ワインは好みじゃね〜」

「文句の多い若造よの……」


 それでも、飲めないわけではない。與はワイングラスを取った。

 香り高い風味と滑らかな舌触り。しっかりとした骨格を持ちながらも、繊細さを(たた)えた味わい。まるで長い歳月をかけて成熟した貴婦人のように、深く、優雅な余韻を残す。極上のワインながら……口に含んだ與は、眉間を狭めていた。


「……渋」


 與は唇を結び、ワイングラスをカウンターに置いた。緋色の液体が揺れ、淡い光を帯びる。

 それを横目に、緋乃縁は(たの)しげに微笑んだ。


「おぬしの好みは、処女(おとめ)の涙じゃからのぅ」


 與の眉が跳ねる。


「語弊ある言い方すんな。日本酒って言えよ」


 緋乃縁は、日本酒を語るように言葉を紡ぐ。


「透き通るなか、鮮やかに(きら)めく……高潔な光じゃ。しかし、孤独ゆえに(もろ)く、危うい。——目の離せぬ娘よの」


 與はワイングラスに伸ばしかけていた手を止め、ちらりと緋乃縁を見遣る。


「なんの話だか」

処女(おとめ)の涙は、あれが初めてじゃったか。ふむ……知ったばかりの好物が傍らにあるのは、悩ましいものよのぅ……」


 與は浅く息を吐き、頬杖をついた。


他人事(ひとごと)みてぇに言ってんな? あんたも似たようなもんだろ~」


 緋乃縁は口許に笑みを刻み、少しばかり自慢げに顎を上げた。


「年寄りじゃからのう、自制が利くのじゃよ」

「言ってろ」


 ワイングラスに閉じ()められた赤を見つめながら、二人のあいだに静寂が落ちる。

 ゆらりと光を浮かべた液面。沈黙のうちに、それぞれの思考が深くたゆたう。

 しばらくして、緋乃縁が口を開いた。


「あの娘は、おぬしを慕うておるようじゃが?」


 與はワイングラスを揺らし、淡く波打つ赤に目を落とした。


「どうだかな~……。雛鳥が、初めて見たものを親と思い込むのと、似たようなもんじゃねぇの? 大事なもんをなくしたときに、俺がいたから」


 孤独と絶望の(ふち)にいるとき、差し出された手は希望の光に見える。

 それが、どんなものであれ。

 

「ほう。それは興味深い考えじゃのぅ……」


 緋乃縁は目を細めた。その表情には、與の意図するものとは異なる何かが浮かんでいた。淡い髪の——彼らの主君である男。そして、目の前の青年。

 重なった彼らの過去には、緋乃縁は触れなかった。代わりに、からかうような音色を響かせる。

 

「雛鳥のように、おぬしも“初めて”に囚われておるようじゃが?」

「別に支障ねぇよ。泣かせてやろうとも思わねぇ」

「……その“初めて”ではないのぅ?」

「あー?」

 

 ワインよりも鮮やかな緋色が、與を横目に捉える。

 

「鬼と知ってなお、感謝の言葉を差し出してきたのは、あの娘が初めてじゃろう?」

 

 與の脳裏に、あたたかな声がひらめく。

 

——私を救ってくれて、ありがとう。

 

 彼の掌中にあったワインの液面が、小さく跳ねる。

 細い深呼吸が、ひとつ。與はその問いに答えなかった。

 緋乃縁がくつりと笑う姿に、與は辟易(へきえき)として湿っぽい舌打ちを鳴らす。

 

「俺より、あんただろ。あんたのほうが珍しく他人に構いすぎてる」

「若い者に節介をやきたくなるとは、私も歳を取りすぎたかのぅ……?」

「誤魔化してんなよ。あんたが、あんな儀式に付き合ってんのがおかしいんだよ。誰が閻魔様って? 怪異でもない、まして生意気なガキまで救いにいくか? あんたが?」

 

 與の指摘に対して、緋乃縁は余裕綽々とした微笑でワインボトルのエチケットを指し示す。

 

「私は、全てのワインの潜在力を慈しむ性分でのぅ? 今は若いヴィンテージであっても、歳月を経れば芳醇な香りを放つものじゃろうて……」

「あっそ。あのガキもあんたに会いてぇっつってたわ。あの生意気な顔が恐怖に震える日が愉しみだなぁ〜?」

「その神隠しの子に、妙に刺々しいではないかえ? よほど最初の予言が(かん)に障ったか……あるいは、」

 

 芝居じみた調子で一拍置き、緋乃縁はゆっくりと小首をかしげた。その眼差しは、與の奥底に潜むものを捕らえるように狙いすました。

 

「新たな予言、『二人は永遠(とわ)に』——が、恐ろしかったかえ?」

 

 金の眼が、鋭く緋の眼を貫く。

 刹那、空気が停止し、與の手の中で華奢なワイングラスが軋む気配がした。

 沈黙が降りる。流れるジャズの音すらも消え失せたかのようだった。

 

「……さすが。閻魔様はなんでも知ってんなあ」

「そう万能でもない。私に気に入られんとして、方々より話を拾い集めてくるあやかしがおってのう……」


 與の皮肉を受け流し、緋乃縁はワインを含み味わう。

 短い時間、與は緋乃縁の横顔を睨んでいたが、ふっとため息をこぼして視線を外した。

 與は指でワイングラスの脚を挟み、傾けた中を覗き込む。見つめようともそこには何も映らないが、揺れる液面に、日中(ひなか)の出来事を重ねた。

 

——與捜査官さん、怖がらせるような予言をして、すみませんでした。

 

 素直に謝罪してきた沙羅を、與は軽くいなした。


——べつに。あんなの信じてねぇし怖がってもねぇよ。

 

 その返しをどう捉えたのか。沙羅は瞳を丸くして人さし指を頬に当て、妙に演技の残る仕草で考え込むと、

 

——予言、し直します。

——は?

——與捜査官さんは、朝美さんとずっと一緒にいられます。離れることなく、二人は永遠(とわ)に。

 

 柔らかな頬に小さなえくぼを作って、そう唱えた。

 過去の過ちを取り戻そうとしたのか、瞳には精一杯のひらめきと期待が()もっていた。ただ、その言葉の重さを、少女は知らない。

 

 怪異と人が共にある。

 この永遠が、何を意味するのか——。

 

 與はワイングラスをゆるりと回しながら、長く長く息を吐く。

 人生に匹敵するほど長い時をかけ、別物のように熟したワインの香り。それを(いと)うように吐き出された息は、グラスの中で行き場をなくし、液面をさざめかせて消えていく。


「……ま、今後はあっちから距離を置くだろ」


 先ほど投げられた問いには答えないまま、與は話を逸らすように無気力な声で呟いた。

 緋乃縁は、ワインが魅せる悠久の時を堪能しているのか、遥か遠くを見通すような目をしていた。


「おや、そうかのぅ?」

「近づくたびに脅してやりゃい~んだろ。かるいかるい」

 

 與は無雑作に結論付ける。

 緋乃縁は静かにワイングラスを傾け、また一口含んだ。

 深い緋の液体が舌の上を滑り、濃密な香気とともに喉の奥へと落ちていく。


「……甘いのぅ」


 ぽつりと響いた音に、與は眉をひそめた。


「は?」


 緋乃縁は微笑を深め、瞳に妖しげな色を(とも)す。


処女(おとめ)の血よりも——甘い」


 意味ありげな言葉が、ワインの香りに混じって零れ落ちる。

 與の指は、グラスの脚をわずかに滑らせた。しかし無言のまま、視線を横に向ける。

 緋乃縁はゆるりとワイングラスを掲げ、照明にかざしながら独り言のように囁く。


「あの娘が、そう容易く退()くとは思えぬがのぅ……?」


 赤い液体が、光を取り込んで煌めく。

 それはまるで、抗う意志のように強く輝いていた。

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