境界
窓の外には晴れやかな空。
新しい住まいで、荷物をあらかた整え終えた私は息をついた。
部屋を見回す。手狭ながらも生活には十分。
冷蔵庫やテレビ、家電が元から揃っているせいか、私物を運びきった今でも、どこかまだ借り物の世界のようだった。
職場と同じ建物であることも、違和感の要因かも知れない。
ダイニング用の丸テーブルにあった小さな家族写真を、ベッドのヘッドボードにそっと飾った瞬間。
コン、コン、とノックの音が響いた。
ドアを開けると、そこにいたのは與だった。
「どうかしました?」
「お前、隣人への引越し土産は?」
「え……ないですね。考えもしませんでした」
「大吟醸でいいや。その辺で買ってこいよ」
「與くんは、沙羅ちゃんの言うとおりお酒を控えるべきですよ」
呆れ混じりに見返せば、何かを思い出したように與が顔をしかめる。苦虫を噛み潰したみたいな渋い顔。
「あのガキ、調子に乗ってまた予言しやがっ……」
言いかけて、ぴたりと止まった。不自然な與の停止に、私も訝る目を送る。今、なんと言ったか。……あのガキ?
「え? 與くん、もしかして沙羅ちゃんのとこに行ってました?」
よくよく見れば、休日にも拘らず捜査官用の帯革を着けているではないか。
「あ~……まぁ。事後確認で」
「ひとりで? 勝手に行ったんですか? 私たちは一緒に行動するよう、室長に言われたじゃないですか」
「あ~~」
顔を逸らして逃げようとした與のジャケットを捕まえる。
どういうことかと尋問する私に、與は「腹減ったわ、メシ行ってこよ~」と逃げ道を口にしたが、却下した。
「ちょうど今からオムライスを作ろうと思ってました。與くんも、ぜひどうぞ」
無理やり引っぱり込むと、意外にも抵抗なく與は室内へと足を入れた。お腹が空いたのは事実らしい。
ついで、図々しい問いが。
「味噌汁は?」
「はい?」
「作らねぇの?」
「……作れと言われれば作りますが」
「作れ」
「そこは『作ってください』ですよね?」
「お前が『作れ』って言ったんじゃん……」
(額面通りに受け取るひとがいますか)
與の困惑に寄せられた眉が本心からのようだったので、私は吐息をひとつだけ落としてキッチンに立った。
與は手持ち無沙汰にリビング空間を眺めている。その長躯のせいで室内が狭く見えるからか、ささやかな緊張感が胸に走った。今さら怖いわけがない……はずだが。ふうっと短く息を吐いて邪念を振り払う。
話す気配がなかったので、こちらから尋ねた。
「霧島家に行ってきたんですか?」
「そう」
ベッドあたりを見ていた赤い後頭部。観念したのか、與は振り返った。
「両親には、写真や証拠は消したって伝えた。誘拐の事実も公表しねぇ。これでなんも心配ねぇだろ」
霧島家の話を耳に、料理の手を進めていく。
世間では、「沙羅の神通力はお祓いによって消えた」という噂が立っているらしい。そのおかげで訪問客も途絶えたそうだ。
「あの……誘拐犯については?」
少し迷ってから、問いかけた。
フライパンで油が弾け、焼ける音が響く。
「犯人グループは行方知らずだとさぁ。事務所は突き止めたんだけどな~。捜査の手を警戒して海外にでも飛んだんじゃねぇ?」
與の語調は軽い。内容にそぐわない響きで、私は反応できずに黙っていた。
「俺の言うことは信じらんねぇか~?」
からかう声には目を向けず、小鍋の中を見つめる。出汁がゆるやかに波打っていた。澄んだ黄金色。
「——いえ、與くんを信じているので、疑ってます」
「……は?」
「與くんは、犯人を野放しにしない。そう信じているので、『行方知らず』を疑ってます」
與が何かを言いかけ、しかし押し黙る。私もその先は何も言わなかった。
ほどなくして、オムライスが出来上がった。味噌汁も。皿に盛られたそれを、丸テーブルに味噌汁と並べる。二人分で満ちる小さなテーブル。
與は手を合わせ、すぐに食べ始めた。
「沙羅ちゃんは、元気そうでしたか」
私は話題を変えるように尋ねた。
與はスプーンを止めて、鬱陶しげに目を細めた。
「無駄に元気。……『閻魔様にもう一度会えないか』っつってたわ」
「あぁ、椿くん」
「あのガキ、緋乃縁やお前が甘やかすから調子乗ってんだろ。 ……ったく、尻くらい引っぱたいてやりゃよかったのに」
「虐待で訴えられますよ」
「閻魔を法で裁けるかよ」
適当に言葉を投げつけながらも、與はオムライスを掻き込んでいく。その無遠慮な食べっぷりからすると、よほど空腹だったのか。あるいは、美味しいということなのだろう。
気持ちのよいくらいピカリと空になった皿を見ていたところ、與が呟いた。
「感謝……されたわ。ガキにも、両親にも」
私と目を合わせることなく、與は斜め下へと視線を流す。居心地が悪いような、慣れない感情を持て余しているような表情で話し続けた。
「犯人の事務所を突き止めたのは、匂いを辿った白月の功績。『お祓い』の発想はお前。閻魔ごっこで言い聞かせたのは緋乃縁。俺は、感謝されることはやってねぇのになあ〜……」
言葉の最後に、與は自嘲ぎみに笑った。
——その、顔が。
どこか頼りない笑みが、私の胸を小さく揺さぶる。
意識しないまま、名前が口をついて出ていた。
「與くん」
「あ?」
テーブル越しに、そっと視線を重ねる。
「與くんは、どうして鬼になったのか。……聞かせてもらえませんか」
声が震えたかも知れない。
與は呆けたように私を見ていた。
「……はあ?」
「だめですか?」
「んなもん覚えてねぇよ」
與は鼻で笑うと、立ち上がった。話は終わったとばかりに出て行こうとする。
「待ってください。私は、與くんをちゃんと知りたいんです!」
とっさに伸ばした腕は、容赦なく振り払われた。次の瞬間、勢いのままに與の手が壁を突く。私の肩を囲うように、動けないほど近い距離で。
重い音が鼓膜を叩いていた。
壁ぎわに閉じ籠められ、翳る與の顔をこわごわと見上げた。
與の瞳が、じっと私を見据える。
心の奥底まで見通すような金の眼が、ゆっくりと細められる。
片頬を歪ませ、心臓を握りしめるような笑みで見下ろした。
「俺を知りたい——って?」
絡みつく声が、耳の奥へと這う。
「知ってどうすんだ?」
返す言葉が見つからない。
戸惑う私の頬に、與の指先がゆるく滑る。
顎に触れ、軽く持ち上げられた。
くちづけするかのような距離で、その声が囁く。
「恋愛ごっこでもするか? バケモノと」
吐息が、唇をかすめた。
心臓の跳ねる音が耳の奥で響いた——これは、恐怖なのか。
與の顔はすぐ目の前にあった。
その瞳には、底知れぬ影が揺れている。
「お前は俺の正体を知ってんだから、踏み込んでこねぇと思ってたんだけどなぁ……?」
独り言を唱える声が、ひどく絡みつく。
何かを言いたいのに、思考を縛るようなその声の響きが、距離が、頭の中の言葉をひとつひとつ崩していく。
ふいに、與が身を引いた。
離れた途端、唇にだけ、ひやりと冷たさが残った。
「抜けてんな、お前は。……ほんとに」
呆れた声音には、わずかに笑みが滲んだ気がした。
與は振り返らずにドアへと向かう。
取っ手に指を掛け、背を向けたまま、淡々とした機械的な声で言い放った。
「距離を見誤んなよ? 俺に限らず、緋乃縁にも、白月にも」
ドアが開く。
外へ出る、その隙間に。
「俺らは、人じゃねぇ」
低く押し込められた言葉が、深く胸に突き刺さる。
ドアが閉じられる音とともに、空気が凍りついた。
扉に隠された、夜色の背中。
その影が、いつまでも目に焼きついて離れなかった。




