鬼の断罪
古びたビルの一室。天井の蛍光灯が断続的に光り、煤けた壁紙と曲がったブラインドが、使い古された密室の息苦しさを生む。
狭い事務所に、男が五人。見た目はそこらの若者だが、その目はどこか濁っている。
「また、上手くいったなぁ」
一人が安堵混じりに息を吐くと、別の男が口角をひずませた。
「金額が大事なんだ。相手が即座に用意できる額じゃないと、交渉にも時間が掛かる」
「そうそう。少額で、コツコツ無理なくやる。人生これが一番」
下卑た笑い声が広がる。
「いっそ誘拐マニュアルでも作って売るか?」
「ははっ、儲かるなぁ、それ。海外に飛ぶ前に、考えてもいいかもな」
事務所は薄汚れた笑い声で満たされていた。
全員が悪びれるようすもなく、歪んだ未来への展望を語っていたときだった。
重く鈍い音とともに、事務所のドアが外から蹴り破られた。
軋みを上げて外れた扉が、壁にぶつかって大きく揺れる。吹き込んだ風に乗って、かすかな粉塵と焦げたような臭気が漂った。
そこへ、赤髪の青年が、ゆっくりと足を踏み入れる。
「悪ぃ子はいねぇか〜?」
張りつくような癖の強い声が、室内を震わせる。どこか愉しげに、ゆるく響く声音とは裏腹に、彼の目は笑っていなかった。金と黒の眼は深い怒りを携え、刺すような視線で室内にいた男たちを順に捉えていく。
窓から夕陽を受ける青年の髪は、燃えあがる炎の色だった。まるで、地獄の底から這い上がってきたかのような。
「……なんてな。いるわけねぇか」
ふっと笑った唇の上、刃物の切っ先のような眼光を走らせる。
「ここにいるのは——クズの果てか」
吐き捨てるように告げた瞬間、床に、どろりとした色が広がり始めた。地の底の脈動が、ひび割れた境界からじわじわと滲み出すように床を呑み込んでいく。床面そのものが、深淵へと沈みゆくかのようだった。
音が、突如として消えた。空気が押し潰されるように重く、耳鳴りのような沈黙が室内を占めた。
赤髪の姿に、違和感が混じり始める。
赤い頭髪が逆立ち、肌に浮かぶ血管が黒く脈打つ。額の皮膚が捲れあがるようにして、異形の角がずぶりと突き出る。その輪郭には、現実感がなかった。
おぞましい光景が、男たちの直感に訴える。
——人ではない。
恐れおののいた男の一人が、懐からナイフを抜き放った。恐慌をきたした顔で、赤髪へと襲い掛かる。
だが、赤髪は動じない。肩に担いでいた警棒が軽やかに振り下ろされ、鋭い音とともに男の手首を弾く。骨の砕ける音が鳴った。
続けざまに与えられた一撃が、男を床に叩き伏せた。
「なんだよ、こいつ……」
残った男たちが、凍りついたようにその場で立ちすくむ。喉を詰まらせた音が、誰の口からか漏れた。
赤髪の背後から、赤黒い闇が——生き物のようにずるりと舌を伸ばす。
霧のように揺らぎながら、獲物を舐めるように空間を侵食する。地獄の底から這い出した怨嗟が、液体とも気体ともつかぬ形で壁をなぞり、天井まで浸していくかのようだった。
ざわり……ざわりと、どこからともなく、さざめく声が聞こえる。
男たちの足が、不意に地の底へと呑まれるような錯覚を生んだ。
背中で冷たい汗が滲み、なめくじのように這い下りていく。
目を凝らせば、赤い闇の奥から、無数の手や顔のようなものが浮かんでは消えている。
気づけば、足が重く、冷たい。
足首に絡みつく、血を孕んだような靄が、骨まで凍えさせるような冷気を放っている。
「……普通に生きていくはずだったヤツを、深淵に引きずり込んだお前らは、人じゃねぇなあ……?」
赤髪の双眸が、地獄の業火を映したように熱く煮えたぎる怒気を宿していた。
しかし、顔は笑っている。笑っているのに、瞳だけが別物のように激しく憤怒を煌めかせた。
「お前らも、攫われる者の恐怖を知れよ」
額から突き出した一本角。手の爪は、今まさに何かを切り裂かんとばかりに鋭く変じていく。
人間の形をとどめた鬼が、赤い闇を背負い立っていた。
「あ〜、これこそ神隠しか。神通力でも得られるかもなぁ」
鬼が、嗤う。
溢れた赤黒い闇が、大きく蠢く。
「……まぁ、お前らが帰って来られるかは、知らねぇけど」
その笑みが消えた途端、生き物めいた闇が、鋭く男たちの全身に巻き付いた。
「ひ……!」
男たちの一人が声をあげかけたが、その音は喉の奥で濁った泡のように弾け、掻き消える。
引きずられるように、次々と男たちは闇に沈んでいく。表情は恐怖と絶望に歪み、何度も壁や床を叩きながらも、その手は闇に引き裂かれて落ちていく。
叫び声が響くことなく、赤い闇が男たちを呑み込み、事務所の中から、その姿は跡形もなく消え去った。
そこには、ひとりだけが残された。
蛍光灯がチカチカと明滅する薄闇に、赤髪の青年が無言のまま立っていた。
その身から漏れ出していた気配は跡形もなく、静けさだけが降り積もっている。
ただ、その眼差しは、伏せるように何かを見ていた。怒りも憐れみもない、冷えきった光を湛えて。
やがて、彼らの宿命を見届けたかのように、ひとつ息を吐き、静かに背を向ける。
——地獄の底は、始めから彼らの足もとで口を開けていた。




