閻魔の裁き
儀式の場は整えられた。
仄暗い明かりが、揺らめく魂のように震え、二人分の影を揺らす。
足許には、たゆたう白い霧。空気はひんやりと冷たく、感覚が研ぎ澄まされるような静寂が室内を満たしていた。
霧島 沙羅は、部屋の中央にぽつりと立っていた。
肩を強張らせ、小さく息を呑み込む。
揺れる蝋燭の灯火が、彼女の怯えた瞳を舐める。沙羅の指先は固く服の裾を握りしめていた。
緊張のせいか、唇を咬みしめる癖が出ている。
「——これは、嘘をついているかどうかを見極める儀式です」
沙羅に向けて、楪は厳かに告げる。
形式張ったセリフが部屋に落ちると、ぴんと糸を張ったような空気が重さを増した。
沙羅の喉が小さく鳴った。
彼女は逃げ場を探すように視線をさまよわせたが、四方を囲む霧と暗がりが、その逃げ道を閉ざしていた。
——これは、霧島 沙羅に宿る神様を祓うための儀式だ。
楪は一連の流れを頭に浮かべ、向かい合う沙羅をまっすぐに見つめた。
沙羅の小さな肩は、不安で緊張している。あらかじめ語った物語を、楪はもう一度、まじないのように繰り返した。
「もし、あなたが嘘をついているなら、赤い眼の閻魔王が現れる——」
沙羅の肩が、びくりと跳ねた。
沈黙。
しんと静まり返った空気のなか、部屋の隅に据えられた香炉から白い煙が立ちあがる。
白を重ねるように、ゆっくり、ゆっくりと煙霧が床を這い、空気を満たしていく。
冷えた空気が肌をなぞり、思わず沙羅は身を縮めた。
——そして。
煙の奥、ゆらめく白の帳の中から、闇が生まれる。
最初は、黒い衣の裾がふわりと揺れた。
やがて滲み出るように、靄の中に人影が浮かんだ。
漆黒の髪を靡かせ、赤く妖しい眼が沙羅を突き刺した。
赤い眼は、すべてを見透かすように、揺るぎなく彼女を見下ろしている。
まるで、最初からそこに存在していたかのように、音もなく。
それは、現れた。
沙羅の瞳に映るのは、神聖とも脅威ともつかぬ、紅き眼の閻魔王の姿。
閻魔など現れるはずがない。そう自分に言い聞かせていた沙羅の背筋を、氷のような寒気が駆け抜けていった。
この人ならぬ影は、仕組まれた幻で済まされない迫力を纏っていた。
「ほう……これが、嘘をつく娘か」
薄い唇から落ちる声は深く、湿り気を帯びた土の底から響くように重かった。
沙羅は息を呑む。
白く立ち込める霧の向こうから、黒衣の長躯が沙羅へと足を踏み出した。滑るような足取りで近づいてくるそれの顔が、蝋燭の火に照らされた。
——赤い眼。
紅玉のような眼差しは、地獄の業火を孕んだように、冷たく沙羅を見据えていた。
息が詰まるような、抗えぬ気配。
背骨の奥まで凍りつかせるかのような、絶対の力がそこにある。
——本当に現れた。
地獄の裁きを下す者が、今、この場に。
「ひっ……!」
沙羅はおののき、無意識に後ずさる。喉がひりつくほどに乾き、声にならない。
沙羅の小さな手は服の袖を強く握りしめていたが、その指先はすでに血の気を失い、氷のように冷たく固まっていた。
目を逸らしてはいけない。
けれど、見つめれば、魂まで吸い取られてしまいそうな気がする。
沙羅の足は地に着いていないかのように震えた。歯がカチカチとかすかに音を鳴らす。
緋色の眼を持つ閻魔が、空気を細く貫くように自分を見つめている。
その存在は、この場を支配し、逃れようのない威圧を生み出していた。
——裁かれる。
嘘を見抜かれ、罰を受ける。
彼女の脳裏に、そんな恐ろしい未来がよぎる。
しかし——
閻魔は手を振り下ろすことも、怒声を浴びせることもなかった。
ただ、無言のままに一歩、また一歩と霧の中を進み、閻魔は沙羅の目の前でひたりと足を止めた。
沈黙が降りる。
赤く光る眼差しが、怯え縮こまる沙羅をじっと見つめる。
沙羅の目許は引き攣り、呼吸は浅くなっていく。
そうして、しばらく。
閻魔はためらいなく、その手をゆるやかに伸ばした。
ぽんっ、と。
沙羅の頭に置かれたのは、恐ろしい裁きの手などではなく。
それは幼子をあやすように、そっと、優しく沙羅の頭を撫でた。
沙羅は目をみはる。
瞳が、大きく揺れる。
「……よい、分かっておる」
閻魔の口から発せられた声は、驚くほどに優しく、沙羅の胸の奥深くへと沁み渡った。
「おぬしの嘘は、己を護るためのものじゃった」
沙羅は、ハッとして赤い眼を見上げた。
幼い心に張り巡らせた最後の糸が、ぷつりと、確かに切れるのを——楪は見ていた。
ぐらりと、細い肩が揺れる。
零れ落ちたひとしずくに続いて、心の奥が決壊したように涙が溢れた。
ひくつく唇から、掠れた嗚咽が漏れた。沙羅の小さな身体は、歳相応の儚さで震え続けた。
嘘を真実であろうとした幼い心は、どこか張り詰めた日々を過ごしていただろう。
攫われた恐怖や、身ひとつで縛られた不安。何もかもを隠して、その小さな胸に抱え続けていたのだ。
だが、目の前の閻魔だけは、そのすべてを理解して受け入れてくれた。
沙羅はもう耐えきれず、頬を滑る涙を止めようともせずに、目の前の存在に縋っていた。
「ごめんなさいっ……私は、警察のお姉さんを、怖がらせる嘘をつきました……」
しゃくりあげながらも絞り出された声は、涙に濡れて掠れ、消えてしまいそうに脆い。
しかし、それは確かな懺悔だった。
やっと、彼女は声にできたのだ。
閻魔は、沙羅を見下ろす。
赤い眼は、なおも人あらざる光を湛えているのに、不思議と冷たくはなかった。
「ふむ。それならば——」
ゆるりと微笑む。
大きな手が、沙羅の頬に触れる。
指先が涙をすくい、優しく撫でるように拭った。
「真心を込めて、相手へと謝るがよい」
ゆったりとした口調は、まるで遠い昔から語り継がれる伝承の一節のようだった。
沙羅の涙をその手に受け止めながら、閻魔は続ける。
「誰かを傷つける嘘は、それが初めてじゃと知っておる。謝罪をもって償うがよい。さすれば、おぬしはまだ子供じゃから……我も赦そうぞ」
穏やかで、どこまでも優しい声。
救いを与えるように、子供を包み込む響き。
沙羅はわななく唇を結び、涙を拭おうともしなかった。
ただ揺れる瞳で閻魔を見つめる。
彼女の目の前に立つ閻魔——椿は、その姿を見つめ返しながら、しめやかに口を開いた。
「おぬしは、独りでよう耐えたのぅ」
天上から降りるような声に、沙羅の肩がまた震えた。
「我には分かっておる。おぬしは、己の力で己を護ろうとした」
沙羅は喉を詰まらせ、溢れそうになる嗚咽を呑み込む。
沙羅の瞳から、再び熱いしずくが伝い落ちる。
「……おぬしの両親も、その周りにいる者たちも同じじゃろう」
閻魔の言葉は、静かに続く。
「我は、誰も咎めやせん」
優しく、すべてを赦す音色。
「神は、おぬしを孤独にするだけじゃ。おぬしを護らず、攫うような神など、要らぬじゃろう? おぬしの中に棲まう偽りの神は、捨ててしまいなさい」
椿は、やわらかく沙羅の額に触れた。
その指先はひんやりとしていたが、沙羅には安心感を覚える温かさがあった。
沙羅は瞳を瞬かせる。凍りついていた心の奥底が、ほぐれていくような感覚。
ぽろり。
また一粒、涙が零れ落ちる。
「次に目を開けたとき——」
椿の艶やかな声は月光のように、仄闇へと穏やかに沁みていく。
「おぬしの中から、偽りの神は消えておるじゃろう」
沙羅は震える手を伸ばし、半信半疑で閻魔の漆黒の衣に触れた。確かな存在を感じた瞬間、恐るおそる、その布地を握りしめた。
見えぬ神ではなく、手を差し伸べてくれた——魔の者へ。
彼女は黒衣に顔をうずめた。
「……はい」
声とともに、細い指先が衣をきゅっと握り直す。小さく頷いた沙羅のまぶたが、ゆっくりと降りていく。
そしてそのまま、泣き疲れたように、静かに意識を手放した。
椿は、そっと彼女を抱きとめる。
華奢な肩を包み込むように優しく支えながら、静かに息を落ち着かせる沙羅の背に手を添えた。
「……心配は要らぬ」
椿の声音は優しく、それでいて深い闇の底から響く力を帯びている。
「おぬしの未来を脅かす者は、我が眷属の鬼が、赤き地獄へと連れ去るじゃろう——」
どこか遥かを見据えて、椿の赤い眼が細められた。
辺りに漂っていた霧が、ゆるやかに霽れていく。
まるで儀式そのものが夢だったかのように。
ひっそりと——神隠しの物語は幕を閉じた。




