未来を委ねて
それ以上、霧島沙羅は何も言わなかった。
霧島の邸宅を後にした私たちは、捜査室に戻る車内にいた。窓の外には夕暮れの街が流れ、落ちかけた太陽の赤い陽がフロントガラスに滲む。車内は静かだった。
「くだらねぇ」
沈黙を崩したのは、運転席の與だった。舌打ち混じりに吐き捨て、ハンドルに添えた指先でトントンと苛立ちを刻む。どうにも機嫌が悪い。
「……本物では、なかったんですか?」
隣で問いかけると、與は横顔からも分かるほどに顔をしかめた。
「はあ? 全部嘘に決まってんだろ。お前、あんなガキの言うことに騙されてんじゃねぇよ」
信号が赤に変わり、車が停まる。與は強い一瞥を寄越した。眉のあたりに深い線を刻んでいる。
「……私は、與くんみたいに確かめる眼を持ってませんから」
小さく返した。いつもの私ならもう少し果敢に応戦できるのだが、今ばかりは気持ちが落ちていた。
——あなたのそばで、あなたを見守っています。ほら、すぐそばに。
沙羅の言葉は、生々しく私の胸に残っていた。
分かっている。私のそばに蓮花はいない。影すらもない。最近の與が私の背後にちらりとも目を遣らないのは、そういうことなのだろう。
瞳を伏せて、膝の上の拳を見つめる。手の中に思い出すのは、ナイフを握りしめたときの感触と、流れ込んできた血の生温かい——
「おい」
低い声が呼んだ。
落ちていた目線を上げる。私はそろりと隣を見た。
睨まれると思ったのだが、そこには意外にも私を案じるような色があった。
「気にすんな。あんなのはただのハッタリだ」
「…………?」
「あの手の予言は、当たりそうなことを言ってんの。警察官なら危険な場面も多いと踏んでな~……」
話す與の横顔を見つめつつ、私は首をひねった。
「……もしかして、大怪我のくだりについて話してます?」
「あ?」
うっすらと気づく。私が気にしている点と、與が気にしている点はズレていないか。
與は認識の相違を察していないらしい。会話を続けた。
「お前が怪我するような事態にはならねぇ」
與は指先で耳の上の髪をぐしゃりと乱し、強く言いきった。
「あんな予言は、俺が覆してやる」
言葉が、胸に落ちる。
張り詰めていた心が、少しずつ緩んでいく。
彼の指先が無雑作に髪を乱す仕草すら、変に安心感を覚える。聞き慣れた声は、暗く沈みかけていた私の心をしっかりと掴み上げた。
まだ少し苛立ちの残る與の横顔を見つめながら、私は小さく笑みをこぼしていた。
『確かめる眼』は持っていないが、信用できる同寮はいる。
——気にすんな。
その強い響きで、心に巣食う暗い影を吹き飛ばしてしまおう——。
と、思ったのだが。
翌日、予言なんて嘘だハッタリだと言いきったはずの與が、早朝から私の家まで迎えに来ていた。
その時点で(ん?)と、ほんのり疑問に思う気持ちが芽生えたが、その場は耐えた。
しかし、一日中そばに張りつき、私の一挙一動を守るかのごとく見てくる與のようすを無視できず、胸中でツッコんでいた。話が違う。
しまいに與は、こんなことまで言い出した。
「お前、ここに引っ越せよ。通うの面倒だろ」
「………………」
昨日の『あの手の予言は、当たりそうなことを~』うんぬんはなんだったのか。こっちがびっくりするくらい予言を気にしている與に、私はちょっぴり閉口していた。
ともあれ、與の提案には私も思うところがある。
「……じつは私も、転居を検討してまして。室長に相談していたところなんですよね」
「あっそう。じゃ、ちょうどいいじゃん」
理由については、『通勤が不便』とはまったく別物だったが、善は急げと與に押し切られるかたちで、簡易ながらもその日に転居することとなった。
仕事を終えた足で自宅まで運ばれた私は、短期間は宿泊できる最低限の持ち物をスーツケースに詰め込み、家を出る。
トランクにスーツケースを入れるのすら、與が請け負った。ここまでくると過剰だが、ツッコむにツッコめない。予言を気にしている自覚が彼にあるのかどうか……いや、たぶん、ないと思う。
バックドアに手を掛ける與を無言で見上げていたところ、視線が私に落とされた。
「なんだよ」
低い声の底に、不条理を黙殺する圧が籠もっている。
「……いえ、なんでもないです」
そう返すしかなかった。
ツッコみたい言葉はすべて胸に仕舞って、私は車へと乗り込んだ。
タイヤがアスファルトを転がり、外の景色が少しずつ動き出す。点き始めた街灯の光が窓を横切っていく。エンジン音は低く一定で、夜の静けさを掻き消すことはない。
シートに背中を預けながら、私は窓の外を眺めた。自分の背に残してきた家のこと、これから向かう先のこと。そのどちらにも、まだ実感は湧かない。
「——なんでいきなり引っ越す気になった?」
考えていることを当てるように、與が静かに尋ねた。
「転居を勧めたのは、與くんじゃないですか」
苦笑で返してみるが、與からの返答はない。ハンドルを握る彼の横顔を盗み見ると、腑に落ちないようすが垣間見えた。
しばらくのあいだ、私は言うかどうかを迷う。逡巡の時を挟んでから、おもむろに口を開いた。
「私の送迎で、與くんの時間を浪費するのは、申し訳ないと思いました」
ひと息ひと息を確かめるよう、慎重に発言する。旅館で聞いた彼の本心が、ずっと胸に残っていた。
——おまえを独りにしたら、妹を想って、また……。
私を案じる與に、これ以上甘えるべきではない。そう思っていたからこそ、転居の決断をした。
「……心配しなくても、私は大丈夫ですよ」
そっと付け加えると、與はわずかに眉をひそめた。
「……なんの話だよ」
「さぁ、なんの話でしょうね」
曖昧に笑ってはぐらかす。そのまま話題を変えた。
「與くんは、どうして特異の捜査官になったんですか?」
與の指が、ふいにハンドルを強く握り込むのが見えた。沈黙が落ちたあと、低く押さえつけるような声を吐き出した。
「高尚な目的はねぇよ。俺は、怪異を片っ端から全部叩き潰してぇんだよ」
乾いた言葉。その奥にある何かを探ろうとして、私は與の横顔を見つめた。
窓ガラスの向こうから、ちらちらと街灯が射し込む。赤銅色の髪と金の眼が、光を得ては失い、淡く明滅している。
その一瞬の光を纏ったとき、燃え盛るような焔が見えた気がした。金の奥で焚かれた、怒りと憎しみの火が——けれども、流れる光を失い、幻のようにぼやける。
闇に沈む横顔は、夜空に星もなく浮かぶ独りきりの月のようで、その強すぎる憎悪の裏には、もっと別の理由があるのではないか……と、
そう思った瞬間、ふと視界の端に引っ掛かるものが映った。
道路の端に、誰かがうずくまっている。
「與くん、車を止めてください!」
私の声に、與の反応も早かった。同時にブレーキを踏んでいたのは、與も道端の人影を目に入れていたからなのだろう。
私は止まった車から急いで降り、病人のような相手へと駆け寄った。
外見から若い男と思われる。街灯の光がぼんやりと彼の背を照らし、顔は陰に隠れていた。
妙な違和感を覚えながらも声を掛ける。
「どうしましたか?」
しかし、男は応えない。苦しんでいるにしては静かすぎる。どこか常軌を逸した気配に、薄く鳥肌が立つ。
私の背後で與が鋭い声をあげた。
「下がれ!」
指示を耳にして、反射的に身を下げていた。
ただ、うかつにも私は、與の方へと意識がいってしまった。何事かと、中途半端に顔を振り向きかけていた。
——その一瞬が、致命的だった。
うずくまっていた男の手が、ふっと動いた。街灯の明かりを反射し、銀色の光が走る。それが刃物だと気づいたときには、すでに振り上げられていた。
「っ……!」
息を呑む間もなく、鋭い刃先がこちらへと向かう。逃げ損ねた不完全な体勢の私に振り下ろされた刃が、防御のために出した私の腕を裂こうとした。
けれども、それは弾けるように空を切った。
金属のぶつかる甲高い音。遅れて脳が、與の動きを理解する。瞬時に飛び出した與が刃の軌道を正確に見極め、警棒で弾き飛ばしていた。
刃物を失った男は、その衝撃にバランスを崩し、ふらりと後退した。私に襲いかかる前に、すでにその勢いを失っていた。
そして、次に取った行動は——逃走。
だが、それを許す與ではない。
「逃がすかよ」
與は一気に距離を詰めた。男がもがくよりも早く腕を取り、容赦なく地面にねじ伏せる。
「現行犯逮捕、だなぁ?」
與の冷徹な声が響いた。
数秒の出来事に、私はようやく息をつき、強張っていた指先をほぐしながら胸を撫でおろす。全身の力が抜け、思わず間抜けな声が出ていた。
「本当に、與くんが未来を覆してくれましたね……?」
與は私を見て、目を細めた。お前、呑気か? と言いたげな目をしていた。呆れる顔で、ほんのわずか口の端を持ち上げる。
「あほか。元からそんな未来なんてねぇんだよ」
悪態に眉を寄せたつもりが、私の口許は自然とほころんでしまった。
馬鹿にしたような、見慣れたその薄笑いが頼もしく見えてしまうなんて、ひどい錯覚だ。
夜風が頬を撫でる。
静寂を取り戻した道路の上、私は困りながらも、與の言葉の重みを確かに受け止めていた。




