予言
ギィ……と、重たく湿った音を立てて扉が開かれる。
室内には厚い布のカーテンが掛かり、外光は遮断されていた。暗闇に無数の蝋燭がちらほらと灯り、大小の明かりが揺らめいている。炎に照らされた影は、何か蠢くもののように壁を這い、うねり、形を変えながら生き物めいて、ものものしい雰囲気を醸し出していた。
室内は神秘的な空気に包まれていた。重厚な木製の家具、彫刻が施されたテーブル、ひっそりと漂う静寂。
蝋燭の明かりがひときわ輝く場所に、少女が佇んでいた。
霧島 沙羅。
彼女は、シフォンを重ねた白いドレスに身を包み、人形のように立っていた。
波打つ髪は乱れることなく優雅に流れ、天上から舞い降りたような雰囲気を漂わせる。まるでビスク・ドールのような愛らしさ。しかし、その印象とは裏腹に、彼女の瞳はまっすぐとこちらを射抜いていた。
幼い顔には不釣り合いな深い瞳。その眼差しに触れた瞬間、時が止まったかのような錯覚に陥る。
「ようこそ、お越しくださいました」
沙羅の声は、幼くも確固たる響きを持っていた。
その声に、私は自然と敬意を込めて頭を下げる。隣の與は細い目で見返しただけで、礼をすることはなかった。
異様な空気のなか、部屋全体がひとつの舞台かのように感じられる。蝋燭の明かりと沙羅の存在が、空間の隅々にまで重苦しい緊張を張り巡らせた。
「はじめまして」
水晶を鳴らしたような声が、宙に小さく波紋を描く。
そして——
「あなた方は、私に疑いを持って来られましたね?」
鋭く言い放たれた。
沙羅の瞳には聡明さが宿っている。その視線に貫かれ、私は胸に底知れぬざわつきを覚えた。
無意識に指先を握り込み、無理やり笑みを浮かべて首を振る。
「いえ、疑っているわけではなく……」
否定したつもりだったが、沙羅はまるで気にも留めないように微笑んでいた。
「そうですか?」
こてんっと、いとけなく首をかしげてみせる様は無邪気だ。
沙羅は戸惑う私を上目遣いに見つめていたが、クスリと微笑みを落とし、一拍の静寂を置いてから、私の隣に並ぶ與に視線を移した。
「お酒が、お好きですか?」
ふいに掛けられた言葉に、與が眉を動かした。
「お酒で失敗することが多いようです。すこし控えては?」
私は驚いて與を振り仰ぐ。顔の全面に(当たってる!)と書いてしまったようで、與は薄くため息をつきながら私を睨んだ。
「なに勝手に納得してんだよ」
「でも……!」
與が酒好きなのは確かだし、正直、失敗がないわけでも。主張したいが、與の細い目に牽制された。
「俺の外見から判断して言っただけだろ」
ジャケットの下に見える黒の柄シャツ。たしかにチャラけている。見慣れたせいで忘れていたが、與は普段からカジュアルすぎる。夜の街に紛れていても違和感のない軽薄さだ。
與の失礼な返しにも、沙羅は変わらずにこやかだった。
「そう思われますか? ——與捜査官さん?」
投げかけられた名前に、與が唇を結んだ。瞳は鋭い。
私たちはまだ彼女に名乗っていない。だが、使用人には身分証を提示している。沙羅の微笑みに揺らぎはないが……真実は、私の眼では読めない。
動揺のない彼女を見下ろしていた與は、ふっと口角を上げると、挑発するように腕を組んだ。
「なら、こいつを視てもらっても?」
私を指しながら、沙羅に問うた。
「俺のことはいいから、こっちを当ててみろよ」
與の言葉に、沙羅は一度瞬きをすると、私をじっと見つめた。
瞳が、ふっと遠くを見つめるように虚ろになる。彼女を中心に、すべての音が吸われていくかのような沈黙が広がる。
ゆらめく炎の明かりに包まれながら、彼女は告げた。
「朝美 楪さん。大切な人を亡くされて、今は……ひとり」
心臓が、どきりと跳ねた。
どうして——。
疑問と、突き立てられた事実が胸の奥で絡み合い、喉が詰まる。
沙羅の言葉は、冷たい針のように胸を刺した。その痛みがじくじくと内側に染みていく。
言葉の出ない私を見つめて、沙羅は続けた。
「恐れることはありません。その方は、あなたに感謝していますよ」
沙羅の目が、穏やかに私を捉えながら、ふわりと微笑む。
「あなたのそばで、あなたを見守っています。ほら、すぐそばに——」
そう言って、沙羅の視線が私の肩の向こうへと向けられた。慌ててその目線を追う。
何も、見えない。
ただ冷たい空気が流れるだけ。
それでも、胸に妙な感覚が広がっていく。
もし本当に、蓮花がいるなら——。
泣きそうな気持ちになった私は、どんな顔をしていたのだろう。
私のさまよう視線は、與の視線とぶつかった。私の顔を見て強張った、怖い顔が、
「やめろ」
鋭い声を吐き出した。それは私に向けたものではなかった。
「適当なこと言ってんじゃねぇよ」
湿った刃物のような声が、低く炎を震わせる。威圧の響きが重く肌に押し付けられた。
けれども沙羅は、まるでそよ風を受けるかのように落ち着き払っていた。唇の端を持ち上げたまま、澄んだ瞳で與を見上げる。
「嘘ではありませんよ」
沙羅は揺るぎなくそう返した。
與は鼻で笑う。
「嘘だな。なんのために、こんなふざけた嘘をついてんだか……」
與は呆れた声で軽く唱えたが、その目は冷ややかだった。
「お前、さては元から嘘吐きだろ?」
鋭い言葉を投げつけ、與は嘲笑に唇を曲げる。
「嘘吐きは地獄に落ちる、って知ってるかぁ〜?」
それは、単なるからかいだった。
子供を弄ぶような軽い調子。それ以上の意味はないはずだった。
けれども、その言葉を耳にした途端、沙羅の笑みが崩れた。
沙羅の瞳の奥に、底の見えない黒い色が滲んだ。微笑みの顔に、ひび割れるような歪な表情の兆しが浮かぶ。怒りとも、悲しみともつかない、正体の知れない感情が、胸の内を荒れ狂っているようだった。
彼女の瞳が震える。唇が開きかけて、また閉じる。
言葉にならない何かが喉までこみ上げ、しかし、それを吐き出すことをためらうかのように、彼女は一瞬、息を詰める。その瞬間、部屋の空気がじわりと重く沈んだ気がした。
「——予言します」
ほんのわずかな沈黙を置いて、沙羅の声が強く響いた。その調子は、今しがたの動揺をなかったことにするかのように、明瞭な輪郭をもって発せられた。
「朝美さんは、大怪我をするでしょう。與捜査官、あなたは彼女を護れない」
刹那、ゆらめく蝋燭の炎が、あかあかと沙羅の瞳を照らした。光を受けた瞳の奥に狂気めいたものが揺れる。子供の顔にはあまりに異質な、冷たい何かだった。
沙羅の瞳が、スッと私に流れる。冷淡なその色に背筋がぞくりと粟立った。
そして、彼女は改めて與を見上げ、微笑んだ。
「あなたは一生、彼女の傷を見るたびに、そのことを後悔するでしょう」
物語を唄うような声は、幼いのに不吉な影を連れ、ざわりと這い寄るような響きだった。
その気配は肌を掠め、胸の奥底へと沈んでいく。不穏な翳りが、音もなく心の中へ根を下ろすようだった。
蝋燭の炎が、また、ふっと揺れる。
沙羅は何も言わず、微笑みを貼り付けたまま微動だにしない。
その顔に落ちる陰影は、暗い部屋に飾られた能面さながらに、薄気味悪い静けさを湛えていた。




