少年の朝
まぶたの裏がじんわりと明るくなる。閉じたままの瞳に、朝の光が優しく滲んでいく感覚。夢の余韻に浸りながら、ゆっくりと現実に呼び戻される。
白月が、陽光で目覚める心地よさを知ったのは、ここ数年のこと。
朝の澄んだ空気のなか、下駄の足音が目覚めの軽快な音を刻んでいく。
(早すぎたかな。ユズさん、起きてるかな……)
白月は、楪が宿泊する離れまでの廊下を歩きながら、深呼吸をした。旅館の静けさに漂う香の匂い。ほのかに湿った木の香り。それに混じるのは、新しい畳の青い匂いと、わずかに残る昨夜の燻された炭の香り。
さらに、温泉特有の硫黄の匂いが鼻を掠める。朝の冷たい空気と混ざり合い、どこか懐かしい温もりを運んでくる。
空気がそっと流れると、庭園の草木や苔の匂いが立ちのぼる。朝露に濡れた土や落ち葉の香りが、しっとりと冷たさを纏っている。
そして、旅館の厨房から漂ってくる、出汁の香り。温かな匂いが、朝の静寂を破ることなく、そっと鼻を満たしていく。
すべての香りが混ざり合い、澄んだ早朝の空気に溶け込んでいる。旅館そのものが呼吸しているように穏やかで、心を落ち着かせる匂いだった。
窓の外に広がる秋色の庭園のせいか、夢の続きを歩いているような気分だった。
——けれど、その幻想はすぐに破られた。
「信じられません。人として最低」
ぴしゃりとした女の声が響く。
「あ~ハイハイ、百遍聞いた。人じゃねぇから〜」
呆れたような男の声が続いた。
身に覚えのある声。白月はとっさに柱の陰へと身を隠していた。
(な、なんだ? 揉めてる? ユズさんと……ヨルさん?)
こそりと目をやれば、風流な襖が開いて與が出てきた。楪から連絡がなかったので、てっきり昨夜のうちに戻ったのだろうと思っていたが……?
奥には楪がいる。旅館の朝にしては険悪な雰囲気。覗いていいのだろうかと迷う間に、聞こえてしまう。
與は怠そうに肩をすくめ、楪はそんな與を睨みつけていた。
「なんも覚えてねぇから確認しただけだろ~?」
「はいっ? もし、そういう過ちがあったとして、何も覚えてないなんてことがありますかっ!」
「あるだろ、誰でも」
「最低!」
「百一回目~」
楪は明らかに怒っている。與はそれを適当にいなしている。険悪というより、もうすこし複雑な何かがそこにある気がする。
……いや、そうじゃない。重要なのはそこじゃない。
(ヨルさん、いま出てきた? つまり朝まで二人一緒に……?)
考えたくなくても、状況的にそうなる。白月には突っ込んではいけない領域だった。
これは大人の世界だ、きっと。無知だけれども、直感でわかる。
そわそわしながら、白月はひたすら息をひそめる。入り込めない。入ってはいけない。静かに消えよう。
空気を読んだ白月の決意は無駄になる。
「お~、白月。何やってんだ?」
柱から覗いていた白月は、あっけなく與に見つかった。
「っ……オハヨー、ヨルサン」
なにも触れてはいけない。絶対に。おれは何も知らない。
白月は冷静を装ったが、内心の動揺を隠しきれない。えらく視線がさまよっていた。
不審な白月に、與が疑問の目を向けて尋ねようとしたが、ちょうどよく白月のポケットでスマホが震えた。
画面を見ると、表示されていたのは『ウィオラ』。
「スミレさんからだ」
白月が通話する隣で、部屋から出てきた楪がおもむろに首をかしげた。
「前々から思ってましたが、『ウィオラ』ってなんですか?」
與が楪に横目を落とす。
「あ~、コードネーム? 白月が捜査官になって、最初にやった仕事がそれ。『コードネーム作りたい、かっけーやつ』って」
「私たちはスパイでしたか……?」
楪は微妙に閉口してから、與に他のコードネームを尋ねていた。與が「ウィオラ、ノックス、ルーナ、カメリア」と淀みなく答えていき、楪はパチパチと目を瞬かせていた。
「え? どれが誰です?」
楪に答えが返る前に、菫連木と通話していた白月が、スピーカーに切り替えたスマホを無言で二人へと差し出した。楪と與の目が集まる。
きょとんとした二人も、白月の申し訳なさそうな表情を見て即座に察したようだった。二人一緒に眉を寄せた。
《——さて、事件だ。今すぐ戻ってきてくれ》
旅館の静けさを破る声。待ったなしの快活な命令。
豪勢だと思われる朝食は諦めるしかないらしい。
まだ布団の中にいるであろうもう一人の仲間を、白月は叩き起こしに行くとする。
彼らの休日は始まると同時に終わり、新たな事件の幕が上がろうとしていた。




