酔夢
静まり返った和室に、キーボードを打つ音だけが淡々と響く。指先がキーを叩くたび、小気味よい打鍵音が畳の上に散っていく。
耳にしたばかりの昔話は、音から文字へと形を変えていた。
外では風が楓の葉を揺らしているが、部屋の静寂を乱すことはない。
「……ん」
夜のしじまを揺らしたのは、卓上でうたた寝していた與の唇だった。
私は打鍵の手を止め、ノートパソコンに向き合っていた目を隣へと流した。
「起きましたか?」
室内の照明は落としてあった。外の行燈に照らされた與の顔が起き上がる。
與はぼんやりと瞬きをし、私と目を合わせた。深い藍色の浴衣が肩からなだらかに落ち、乱れた襟許に仄明かりが鎖骨の影を作った。
與は崩れた浴衣を無雑作に引き寄せながら、まだ夢の名残を引きずるように呟いた。
「おまえ、なにやってんの」
酒気を含んで少し掠れた声には、寝起きの低さが混じっている。
私は細い目を返した。
「仕事ですよ」
画面の光が薄暗い部屋に淡く浮いていた。與はそれを思考停止したような目で眺める。その瞳はとろんと潤んでいる。
「まったく……庭の露天風呂に入ってから眠ろうと思ったのに……誰かさんが眠りこけたせいで……」
「……しらつきは?」
ぶつくさと漏らす私の文句に、與は気の抜けた声を重ねた。時間を要したが、自分が卓上に突っ伏していたことを理解したらしい。髪に指を差し込んで軽く掻き上げると、周囲をゆるりと見渡した。
「白月くんなら、身体が落ち着いたので本館の大浴場に行きましたよ。月も曇ったようですから、もう平気でしょう」
「あぁそう……」
「椿くんは、かなり前に出掛けてます。外で話していたら、この地域のあやかしに『手を貸してほしい』と声を掛けられまして。……知らなかったのですが、椿くんは、あやかしたちの相談役なんですね。彼もお仕事をしてたんですね」
伸びをするように体を動かしていた與は、椿の名を耳にした途端、眉を素早く跳ね上げた。
「そうだ、お前。俺が警告してやったのに、酔った緋乃縁と二人きりで——あほか」
「はい?」
いきなり何を言い出すのか。寝起きの愚鈍な頭のせいか脈絡なく悪態をついた與に、私は怪訝な顔を返す。
数秒の沈黙を置いて、與はどうでもよくなったのか、再び眠気に襲われたのか……卓上に肘をついて頭を乗せた。まぶたを閉じようとしている。まてまてまて。
「與くん、寝るなら自分の部屋で寝てください」
「あ~……そうだな。寝づれぇわ。枕どこ?」
だめだ、本格的に眠ろうとしている。ぽやぽやとした顔で近くの肘置きを抱き込むと、與は畳の上で横になろうとした。
が、肘置きが高すぎる。言うまでもないが、それは寝心地のよさを追求していない。
「う~ん……」
寝苦しい声をこぼす與に、私は胸中で(アホは、そちらだ)と、投げつけられた悪態を返していた。
この男をどうしようか。
白月からは、與がいつまでも起きないようなら連絡してくれと言われている。なんとかして運んでくれるらしい。
連絡しようとスマホを手に取りながら、ふと思い立って、與の写真を撮った。この珍妙な寝姿で、一週間くらいは愉快に過ごせそうだ。
カシャリと響いた音に、與の眉間で溝が生まれる。
「なんだよ……?」
「なんでもないですよ」
「あ~~?」
スマホを伏せて、ごまかすように目を逸らす。私は笑いを噛み殺しながら、苦しげな体勢の與を覗き込んだ。
「膝枕でもしましょうか? 『お願い、楪ちゃん』と頼むなら——」
からかいで口にした言葉は、もちろん本気じゃない。冗談のつもりで、けれども、どんな反応をするのかと好奇心くらいはあったかも知れない。
だが、
「おー……」
気の抜けた声とともに、與の手が私に伸びていた。
「えっ」
驚きの声をあげたときには遅かった。
ごろんと落ちてきた頭が迷いなく私の膝に収まり、ふわりと酒の香りが鼻を掠める。髪のさわさわとした感触と温度が、浴衣越しに肌へと伝わる。
硬直する私を置いて、與はそのまま、ふうっと息を吐く。すっかり落ち着いたようすで目を閉じようとした。
「まっ……まってください! ここで眠らないで!」
「おまえが言ったんだろぉ……」
「そうですが……あっ、『お願い』のくだりもない!」
そういう問題ではない。しかし、混乱した私は意味不明な指摘をし、膝を抜こうとしていた。
「枕なら取ってきてあげますからっ」
代案を口に逃げようとしたが、腰に回った與の腕が、私の浴衣の帯を掴んだ。酔いどれのくせに、相当な力で。
「ひとりで帰んじゃねぇ……」
「はいっ? 帰りませんよ? あっちの部屋に行くだけです」
「……おまえを、ひとりにすると……事件が」
「あの! それ、與くん何度も言ってますけど、とっても失礼ですよ。私だって防犯意識をもって行動してるんですから」
「ちげぇよ……おまえが、殺したくなるかもしんねぇだろ……」
吐き出された言葉に、思わず訴える気持ちが途絶えた。
見下ろす膝の上で、瞳を隠したまま、與は唸るように唱えた。
「悲しみが弱まると……怨みがまさって、殺したくなる。……おまえを独りにしたら、妹を想って……また……」
その先は、薄闇に揺れて掻き消えた。
言葉の意味をゆっくりと拾った私は、心臓を握られたように固まっていた。
「……與くんは、私が……まだ、復讐をすると思ってるんですか……?」
苦笑でも返せばよかった。
でも、引き攣った喉は、小さな声で尋ねていた。
横を向く與は、うっすらと目を開ける。伏せた睫毛の下、感情の読めない瞳は、夢うつつに彼方を見た。
「人を殺すと、魂が濁る……」
與の声が、身体を伝う。
酒のせいか、それとも明かりのせいか、彼の表情はどこか儚げだった。
「殺すなら、俺がやってやるから……」
低く、掠れた声が零れる。
酔いの滲んだ呟きなのに、冗談には聞こえない。
「お前は、そのまま……」
細く息を吐きながら、彼は目を閉じる。
「綺麗なままで……」
独り言のような声音だった。
夜風が木々を揺らし、窓の外でざわめいている。
さざめきの届かない室内は静謐に染まり、運ばれる光だけが彼の睫毛に淡い影を落とした。
このひとは、どうして——。
彼の言葉を思いながら、詰めていた息を長く吐き出す。
きっと私は、殺意を否定できない。
戸惑いに乱れる胸を手で押さえて、彼の横顔を見つめた。
人を突き放すように振るまうくせに、ふとした瞬間、心の底に触れてくる。
誰にも見せない、見せられない感情を。
胸の奥底、深淵に沈めた暗い感情を。
自分ですら見ないふりをしている心を——捉えて、人知れず案じている。
——バケモノ殺し、それが俺の仕事。
與は私に、そう語った。
でも、理由は知らない。
なぜ、この仕事をしているのか——。
答えは出ない。
やがて静かな寝息が聞こえ始め、私はもう、身動きが取れなくなる。
私の膝で眠る彼は無防備で、そこに鬼の眼が潜むことを忘れるほどに穏やかだった。




