追憶の宴
遠路はるばる再来して、とんぼ返りはいただけない。
せっかくなので、温泉旅館に宿泊して帰ろう——というのも、椿を誘い出す釣り餌がこれだった。高級旅館での宴席。
私の歓迎会は、幹事を請け負った椿によって、このうえなく豪勢に行われることとなった。
瀟洒な調度品に囲まれた和室の中央。漆塗りの卓上には、華やかな料理がずらりと並ぶ。
新鮮な刺身の舟盛りに、炭火で炙った和牛のたたき、海鮮と秋野菜の天ぷら、繊細な細工が施された前菜。どれも極上の品ばかりだ。
「こんな贅沢、いいのでしょうか……」
控えめに呟く私だが、すでに浴衣を着ている。旅館にチェックインして早々、ちゃっかりと温泉に浸かってきた。湯あがりのほくほくした身体で、箸も手にしている。遠慮する気はあまりない。
「いいんじゃねぇの。冴だって、しょっちゅう銀座やら祇園やら行ってんだ。これくらい可愛いもんだろ」
向かいでは、着崩れた浴衣の與が早くも日本酒を飲んでいた。歓迎会なのだが、彼は乾杯というものを知らないらしい。
「——どれ、主賓には私が注ごうかの」
隣から徳利が差し出された。浴衣から伸びる白い腕。湯あがりではないと思われる椿だが、たおやかな着こなしだった。
私はグラスを手に、椿の酌を受ける。芳醇な香りが舞いあがり、透き通るきらめきが金赤の切子細工を満たした。
赤く輝くグラスに向けて、椿は黒のグラスを掲げる。乾杯は二人きりで静やかに為された。
残る特異メンバー、白月はというと、
「くそっ……おれはダメだ……未熟だ……」
部屋の隅で、小さく丸まっている。いちおう浴衣は着ていた。
「白月くんー、ごはん食べましょー。冷めますよー」
部屋は広い。ロイヤルスイートと聞いた。食事をしているこの和室とは別にベッドルームもあり、ガラス張りの浴室もある。大きな窓の外には庭園が広がり、東屋の下、露天風呂まであった。
ここに、私はひとりで泊まるらしい。なんとも贅沢だ。
しばらくして、白月も食事の席に着いた。
月光を浴びた名残なのか、白月の頭には獣の耳がぴょこんと出ていた。少ししょぼくれた耳を眺める私に、斜め向かいから白月がグラスを掲げた。
「かんぱい、ユズさん」
細長いグラスの中身はジュース。白月はホワイトソーダなる物を頼んでいた。
「白月くんは、お酒が苦手ですか?」
「ハタチ未満は呑めねーって、法律で決まってんだよ、ユズさん」
「え……っと?」
返答に困惑する。白月も、私の困惑が分からずにきょとりとした。
口を挟んだのは、正面の與だった。
「白月の歳は、十八」
「……そうなんですか」
怪異であっても、法律に従うのか。そもそも年齢という概念があるのか。
疑問が湧いたが、口にするのはためらわれた。沈黙した私に、與の目が向いていた。
「白月は親がいる。怪異じゃねぇ、人間の親」
「え……」
食事の手が止まる。
私の反応に、白月が眉を下げた。
「おれ、こんなんだから、ずっと閉じ籠められてたんだ。……スミレさんが、おれを見つけて、外に出してくれた」
静かな衝撃が、私の胸に波紋を広げた。
言葉が出ない。私は白月の顔を見つめていた。
「……でも、不幸だったわけじゃないから。地下にいただけで、ちゃんと育ててもらった」
白月は、私を安心させるように笑みを浮かべる。自分の身の上が、特別なことではないかのように笑った。
「捜査官になるのは、反対されたんだ。スミレさんが説得してくれた」
ふっと、小さく息を吐く。かすかに眉尻を下げた笑みは、どこか申し訳なさそうにも見えた。
「——だから、おれは、ちゃんと人間としてやれるって証明するために、がんばらねーと」
白月の瞳が、変わる。
引け目を滲ませていた笑顔が引き締まり、伏せられていた睫毛が、すっと上がった。私を見返す目に、揺るぎない意志が灯った。
「まともな警察官になる!」
決意のこもった言葉が、卓上に響いた。白月の目は過去を振り返るのではなく、まっすぐに前を見据えている。
強く明るい双眸を前に、私も応えるように笑っていた。
「私も、白月くんに負けないよう、頑張ります」
「おぉ! 一緒にがんばろう、ユズさん!」
「えいえいおー!」
「おー!」
それぞれのグラスを手に、誓いの杯を交わす。與から「お前、酔ってんな?」と小さな指摘があったが、聞き流しておいた。
宴はその後も続き、気づけば卓上の料理も片付いていた。
與は延々と呑んでいた。デザートのシャーベットを私と白月が食べ終えたときにも、新たに追加で注文していた。
「ヨルさん、呑みすぎ」
「ここ、旨そうなのが山ほどあんだよ。どうせ冴の金だ、全部いってやろぉ~」
上機嫌な與の声を背に、私は外へと足を向けた。
東屋まで続く板張りの渡り廊下を進むと、露天風呂の縁に腰掛けた椿がいた。彼は彼で勝手に頼んだ日本酒を飲んでいる。
グラスを傾けていた椿は、庭園を眺めていた瞳を私に流した。
「寒くないかえ?」
「……寒いですね」
夜風は冷たく、冬の訪れを予感させる。アルコールで火照った肌が一気に冷えた。ひとりの椿を気にして出てきたが、やはり戻ろうかと思い始めていた。
身を縮めた私を笑いながら、椿は自身の横を勧めた。
「湯に足を入れておくとよいじゃろう」
「………………」
戻りますのタイミングを逃した。
並ぶのは気が引けたので、角を挟んで座る。湯につけた私の足は、じんわりと熱に染まっていった。椿の足は夜風に晒されていたが、彼は微塵も震えるようすがなかった。
行燈の光を淡く含みながら、湯気が静かに立ちのぼる。
グラスの縁をなぞるように、椿はゆっくりとそれを傾けた。切子細工が光を反射し、美しく輝く。
「……あれは、いつのことじゃったかのう」
赤い眼が、そっと細められた。ほろ酔いなのか、それとも過去を思い起こすせいか、その表情には遠いものを見るような色が滲んでいた。
「これとよく似た酒を飲んだ。舌に心地のよい旨みがある、辛口の酒じゃった。……白の妖狐が、得意げに持ってきたのじゃよ。人間からの供物じゃと言ってのぅ……」
椿の黒髪が肩を滑る。彼は懐かしむようにグラスを揺らし、ひとくち含む。
「妖狐は、遠い昔に一人の漁師を救ったそうじゃ。漁師たちは感謝して祀り、妖狐も誇りに思い、その後も人々を護っておった。言い伝えがいつまで残っておったかは知らぬがの……『白狐の舟渡し』といってのう」
静かに紡がれる言葉。
夜闇に溶けるようなそれは、消えてしまった誰かを想うように儚く響いた。
「取るに足らぬあやかしが、神であろうとしておった。それはもう、懸命にのぅ……どこぞの狗に、よう似ておる」
グラスを傍らの盆に置き、椿は静かに目を伏せる。
「人々からの感謝がなくなり、伝承も忘れられたが……残る力で、妖狐は、島に流れ着いた亡者の影が消えるのを見守っておったのじゃろう。言い伝えどおり、舟渡しのつもりじゃったのかも知れぬ。ただ消えゆくのみの影を、あの世へと運んでやりたかったのか……」
遠い遠い、悠久の記憶。その片鱗を探すように、椿はグラスの煌めきを見ていたが……やがて薄い息を落とし、残る酒を飲みきった。
「つまらぬ話を聞かせたのう」
話は終わりだと言うように、椿は浅く微笑んだ。
私はゆっくりと瞬きをする。胸の奥で、語られた物語の余韻がそっと沁みていった。
「いえ……」
それだけを返しながら、私は言葉を探した。何かを伝えたかったが、それを形にした瞬間、薄っぺらいものになってしまいそうで……言葉を呑み込んだ。
少しの沈黙ののち、私は口を開いた。
「言い伝えの物語を、私に教えてくれませんか? 『白狐の舟渡し』も、簿冊に残しておきたいと思います」
忘れられないように——。
そう告げると、椿は驚いたように一瞬瞳を開いてから、ふっと表情を緩めた。
「欣快の至りじゃ。ぜひ語ろうぞ」
瞳の奥に、行燈の光が映る。赤い眼差しをあたたかく染め、その口許には、今まで見たことのない柔らかな笑みが浮かんでいた。




