護るひとたち
警護の対象である青年は、独り暮らしの大学生だった。
だが、私が足を踏み入れた部屋は、場違いに洗練された空間だった。
高い天井に、広々としたリビング、革張りのリクライニングチェア。間接照明の仄かな光が、広々とした空間をシックな雰囲気に包んでいる。キッチンには最新の家電が揃い、シンクやコンロにはほとんど生活感がない。住人がどれほど自炊しているのか疑わしい。
大学生の部屋にしては、明らかに不釣り合いな高級感。それが、この部屋の持ち主の背景を誇示している。
——そんな高級ルームの暗がりで、私はアンパンを食べていた。
「與くん、見ました? ご子息のさっきの顔。私を見て『こいつに警護なんて無理だろう』って、絶対に思ってましたよね」
もきゅもきゅとアンパンを頬張るあいまに文句をこぼす。コンビニで買ったアンパンはパサついていた。そこに素敵なキッチンがあるというのに、どうして私は乾いた菓子パンをかじっているのだ。
「お前に警護が無理なのは事実だろ~」
ため息まじりの声が空気を揺らす。キッチンのカウンターチェアに座る私の横で、與は紙パックに刺さったストローを咥えつつカウンターに寄り掛かっていた。
「ってかさぁ……なんでアンパンと牛乳? 差し入れにマシなもん、もっと売ってんだろ」
「警護には『アンパン・牛乳』と、昔から聞きます」
「それ、張り込みじゃん。……いや間違ってんのそこじゃねぇわ」
ツッコミどころに悩む與ではなく、私は隣の部屋に繋がる開かれたドアを見ていた。
対象の青年がベッドにいる。彼は、ここ数日、祟りの恐怖から眠れていないと言っていたらしい。彼がこうして休めるようになったのなら、警護の価値はあるのだろう。パサパサのパンくらいは我慢しよう。
「死者の影は、どうなんです?」
囁き声で、與へと尋ねた。薄暗いなか、金の眼がこちらへと流れる。
「——いる。取り憑くってほどじゃねぇけど、ちらほら薄い影が纏わってんなぁ」
「退治しないんですか?」
「あの程度の影響なんて、たかが知れてんだよ。片っぱしから叩き潰してもい~けど……」
與は、腰に提げた警棒に指先で触れた。
大きな手に重ねて、私は鬼の姿を思い出す。彼によって掻き消される影の断末魔が、記憶から響いた。
與は言葉を続ける。
「それじゃあ解決しねぇ。他のヤツらが本当に祟りで怪我したなら、本命は別だ」
対象の友人たちは、階段からの落下事故、暴行事件、交通事故、工事現場での重機事故……と、巻き込まれの不穏な連鎖が続いている。それらの被害は順に重くなっているのだ。最後となる彼は、命すらも危ぶまれる。
「本命って……例えば、なんです?」
「可能性としては——」
與の声に、ベランダの窓が開く音が重なった。大きな窓から室内に入ってきたのは、白月だった。
彼は警護の一環で外の匂いを嗅いでいた。人を超えた嗅覚を持つ彼は、怪異の存在を匂いで識別できるらしい。
與の意識は白月に向いていた。
「どうだ?」
「今んとこ、何も」
「あ~、やっぱ長期戦になりそうだな。めんどくせぇな〜……」
與はうんざりしたように顔をしかめた。その発言を非難するには、私の立場は弱い。今の私は雑用係。付ききり状態の與には同情もする。
「與くんは、今のうちに少し眠っておいたらどうです? そこのイスで。異変があったら、すぐさま私たちがしらせますよ」
私は、リビングにあるリクライニングチェアを示した。無駄に大きいのだから、これくらい役に立ってくれてもよいだろう。
しかし、與は拒否した。
「俺が仮眠を取るのは日中。白月が、安全なとき」
與の言葉に、白月の表情が曇った。
白月はパーカーのフードを被っていた。月の満ち欠けや月光の影響を受けると聞いているが、私から見える範囲では何も変化はない。今夜が曇り空だからなのか。
白月の顔色には気づかず、與はカウンターへと背を反るように大きく寄り掛かった。
「眠るよりもシャワー浴びてぇ~。ずっと磯くせぇの、不快すぎてイラつく」
「與くん、もっと牛乳を飲むといいですよ」
「は? なんで?」
「イライラにはカルシウムって言うじゃないですか」
「それ俗説……お前、全部がなんか古い」
「人に向かって古いとはなんですっ。潮風を受けたのは私たちも同じなんですからね。そんなに不快なら、シャワーくらい借りればいいじゃないですか」
「俺の話、ちゃんと聞いてたか~? 俺がすぐに攻撃できる状態じゃねぇと駄目だっつってんの」
「すっぽんぽんで退治したらいいじゃないですか、いざとなったら」
「そんときは、お前セクハラで訴えるわ」
「なぜ私が訴えられる側ですか!」
こそこそ声で言い争う。
アンパンを口にした白月が笑っていた。
「ヨルさんとユズさん、仲いいな」
白月の意見に、與とふたりで「どこが(です)?」とシンクロしてしまい、互いに細い目で睨み合った。
白月は笑い声を噛み殺しながら見ていたが、ふと、笑みを弱めて眉を下げた。
「おれのほうは……」
白月の言葉が、薄明かりに溶ける。言葉は途切れたが、彼が思い浮かべたものが、私には分かった。
「椿くんは、どうして捜査官をしているんでしょう……?」
白月の気持ちを汲んで、その名を出した。
與が疑問に眉を上げる。
「緋乃縁? なんでそんなこと知りてぇの?」
「いえ、大して知りたいわけでは……」
「はあ~?」
口角を引き攣らせた與を見て、反省した。今のは私が悪かった。深く考えず頭に浮かんだまま喋っていた。
言葉を濁した私を見て何を思ったのか、與はわずかに表情を締めると、一段低い声で話した。
「緋乃縁が何か、お前、知らねぇよな?」
「椿くんのことなら、室長から鬼と聞いていますよ? 人を殺すことはないと……」
「吸血鬼——文字どおり、血を吸う鬼だ。殺されねぇからって、あんま油断してんなよ」
ひたりと、肌に張り付くような危機感を覚えた。
赤い虹彩が頭によぎる。蝋人形のように滑らかで、冷えきった肌の感触。
「……それでも、椿くんも警察官ですよね?」
「警察としての信条なんてねぇよ。緋乃縁は、冴が交渉して連れてきたヤツだ。交渉材料は知らねぇ」
「………………」
「何を期待してんだ? 俺らにまともな警察像を求めんなよ」
與が突き放すように吐き出した言葉に、私は口を閉ざした。反論はしない。むやみに口を出すべきではないと思った。その言葉すべてが、與の本音ではない気もした。
ただ、白月は口を開いた。
「おれは、まともな警察官になりたい」
空のパン袋を、くしゃりと握る。白月の主張には、與も何か心に刺さるものがあるのか、少しばかり瞳を緩めた。
「白月は、よくやってんだろ」
與の言いぶりには、『人じゃないのに、よくやってるだろう』との響きがあった。事実、その意味で言ったのだろう。
けれども、それは……白月の求める言葉だろうか。
——おれだって特異の捜査官だからな!
朝、誇らしげだった白月の顔が、胸裏に蘇る。
白月の背後、大きな窓の向こうには夜景が広がり、静かに輝く街の明かりがガラスに映り込んでいる。
ありふれた明かりを脅かす怪異の存在も、護る怪異の者たちがいることも、人々は知らない。
私だって、知らなかった。
「白月くん、私は……」
彼に掛けようとした私の言葉は——途絶えていた。
與と白月、二人の顔が、瞬時に張り詰めていた。
ふいに白月が、鼻で深く息を吸う。かすかな空気の変化を嗅ぎ分けようと集中したのか、瞳を閉じた。
「——来る」
低く押し殺した白月の声が、空間に沈み込むように響いた。
その一言は、確かな予兆だった。
與も一切の無駄を省いて警棒を手にしていた。
嵐の前の静けさに、私の心臓は痛いほどに拍動していた。




