いつもの朝に
朝美 楪は閑静な住宅街にある戸建てに住んでいる。今は亡き両親と妹の蓮花を合わせて四人暮らしだったため、現在は部屋を持て余している。掃除が行き届いていないともいう。
二階にある両親の寝室と一階の和室は長らく放置されていて、楪の生活に関わるのは主に一階のリビングダイニングと二階の個室。二室ある六畳の個室は楪と蓮花の部屋になる。
今朝も楪の部屋に掛かるカーテンが真っ先に開き、彼女はそっと廊下を歩いて蓮花の部屋をうかがった。
部屋の前の廊下には、昨夜用意した夕食のプレートがそのままだった。想定外に帰宅が遅れたことを省みつつ、プレートを取りあげて階下へと向かった。
私の朝は朝食作りから始まる。
かつお節と昆布の合わせ出汁に、わかめと賽の目に切った豆腐を入れ、味噌を溶く。卵焼きは母の味を継いで甘めに。グリルで焼いた鮭と、フルーツのぶどう。昨夜の分を取り戻すべく栄養たっぷりに仕上げる。
プレートに料理のお皿と椀を載せ、炊きたてのご飯を茶碗に盛って置けば、完璧。蓮花の好きな朝食セットの出来上がり。
美味しい匂いを抱えて階段を上がった。
「蓮ちゃーん、起きてる?」
呼びかけてから、ゆっくり十秒。
「お姉ちゃん、うるさい」
布団越しなのか、くぐもった声で低く返事があった。今日の元気は三十点くらい。赤点まっしぐら。
「昨日、遅くなってごめんね? お腹すいてると思ったから、朝ごはん多めにしたよ。蓮ちゃんの好きなぶどうもあるよ」
好物で釣ってみたが反応はない。以前、私が蓮花の引きこもりについて叱ったのを、きっとまだ根にもっている。
「……ごはん、置いておくから。ちゃんと食べてね?」
部屋から出そうと焦ってはいけない。優しく優しく声を掛け、蓮花本人が思い詰めることのないよう配慮する。
先日読んだ『引きこもりのための対応マニュアル』を念仏のように心で唱えながら、一階へと戻った。
四人掛けのダイニングテーブルの上、自分の朝食を用意し席に着く。リモコンでリビングのテレビをつけ、
「いただきます」
ひとり手を合わせて、食事を開始した。
すこし寝不足の体に出汁が染みる。鮭の焼き加減が絶妙だと自画自賛していると……ニュースで昨日の事件がさらりと流れ、思わず箸が止まった。
《——調べに対し、男は容疑を認めているとのことです。警察は蘭市での連続暴行殺人事件との関連も——》
護送車に乗るところを映し出された男の顔は、よく見えなかった。うつむく顔には髪が垂れさがり、表情も分からない。
映像には卒業アルバムから取ってきたような写真が重なっていて、そちらは朗らかに笑っていた。ニュースキャスターによれば歳は二十五と、映像の印象よりも若い。髪の隙間から覗く男の痩せこけた頬は、昨日の面影を打ち消すほど弱々しく映った。
目を落とすと、箸を握る手が震えていた。
——もし、あの赤い彼が助けに来なかったならば。
昨日のことを思い出す。
地面に横たえた犯人の身体を、警察が来るまでの短いあいだ、じっと息を殺して見つめていた。
固く拳を握りしめ、ただひたすら肩を震わせることしか——できなかった。
自分が、情けない。
「……しっかりしろ、お姉ちゃんだろ!」
自分を叱咤するため声を出し、震えを抑えようと箸を握りこんだ。壁に飾られた家族写真を覆うガラスには、キリッと締まった私の顔が映っていた。パジャマじゃなかったら、かっこよかった。
(さて、そろそろ着替えてメイクしないと)
ニュースの話題はすでに切り替わっていた。
ごちそうさまの手を合わせて立ち上がる。食器をシンクに運んで水だけ注いだ。食洗機は夜に後回し。
今日は職場に連絡して休みを取っていた。午前中は警察の事情聴取に行かなくてはいけない。有休を取るのも、ゆっくりとニュースを見ながら食事をするのも久しぶりだった。
身支度を済ませ、「いってきます!」と二階にも届くくらい大きな声を出し、家を出た。背中でポニーテールが揺れる。長く伸びた髪。出かけるときはいつも高く纏めることにしている。
門戸から通りに足を踏み出したところで、
「すみません、ちょっとよろしいですか?」
私に声を掛けてきたのは、シンプルなスーツに身を包んだ女性記者だった。
名乗る前に記者と察したのは経験則もあるが、女性の後ろにつく若い男性がカメラを持っていたからだ。
人当たりの良さそうな女性が、名刺を差し出してきた。
「事件について、お話を——」
私の目は女性記者を見ていなかった。話し言葉も聞こえていない。
女性記者を通り越して、その後ろの若いカメラマンも越えて、見ていたのは。
晴ればれとした秋の朝日に照らされる、赤銅色の髪。昨日よりも落ち着いて見えるカラーは別人かと思えたが——長いシルエットは記憶にぴたりと当て嵌まる。
彼の特異な左眼は、遠目にも捉えられた。
明るい金の眼が、眩しさに目を細めるようにして私を捕らえた。
「——あさみ、ゆずりは?」
住宅街に満ちる澄んだ空気に、絡みつくような彼の声は異質な不協和を生んだ。違和感に気を取られて、互いに名を知らないはずの彼が、私の名前を口にした不自然さには気づかなかった。
長い脚はするりと距離を詰め、振り返った記者たちを無視して間に割り入る。私を見下ろした彼の唇は弧をえがいた。
「お前、タイミングいいな~?」
機嫌よく笑う彼は、首を小さく傾ける。
「俺の手を煩わせずに、自分から出てくんの優秀だわ。このまま素直について来てくれんの?」
「……あなた、昨日の」
「へぇ~? ほんとに俺のこと覚えてんじゃん。どうなってんだ?」
彼は黒っぽいジャケットに両手を突っ込んだ状態で、私の瞳を覗き込むように顔を寄せた。
「眼も見えてんなぁ……」
猫に似た金の眼。吸い込まれるように縦長の瞳孔を見つめていると、彼の囁く吐息が顔に掛かった。
「あ〜……催眠より恐怖が勝った? ……つぅことは、そんなに俺が怖かったか」
彼は興味深くこちらを眺めていた。横で呆気にとられていた記者が「ちょっと、あなた!」と意識を取り戻す声に被せて、
「ま、いっか~。分析は後にして、さっさと戻ろ」
ぱっとポケットから取り出された彼の両手。
『敵意はありません』のポーズかと思った——次の瞬間、私の脇にするりとその腕が滑り込む。
「えっ……わわっ?」
何が起きたのか。気づけば身体がふわりと浮いていた。
跳ね上がった視界に、空と、黒い背中と、灰色のアスファルト。足許が消え失せ、心臓がギュッと縮こまる。
虚を衝かれた私を、幼児を抱えるみたいにして——いや、米俵を担ぐような要領で、彼はひょいっと肩に乗せた。
宙吊りの視界は、大きな背中と地面で埋まる。
「対象確保~っ」
ぎゃはは! 弾ける笑い声が通りに抜けていく。
慌てて降りようとしたけれど、がっしりと腰に回された彼の腕はびくともしない。
「えっ、えっ?」
ひっくり返った頭を正常の向きに、身を起こすよう頑張るが、駆け出した彼の足が——速い!
起こそうとした上体は彼の背中に引き戻される。ナイロン地のジャケットに、顔面をしたたか打ちつけた。
「じっとしてろよ。あんま暴れると落ちるぞ~?」
からかうセリフの奥で、女性記者の狼狽した声が遠ざかる。
垂れたポニーテールが後ろ髪を引かれるように靡いたけれども、私の意思では何も止められない。
口を開けば舌を噛みそう。でも、薄く開いた口で必死に訴えた。
「た、たすけてっ……!」
通学や通勤のひとたちは、誰ひとり助けるでもなく、ただ視線を投げるだけ。好奇の目に晒されながら、駆け抜ける私の願いはどこにも届かず。
秋晴れの空の下、どうしようもなく攫われていった。