黄昏のバラッド
窓の外で日が暮れる。報告書を仕上げていた手を止めて、私は顔を上げた。
本日加入したばかりの特異事件捜査室は、現在メンバーが不在だった。菫連木さんも、與くんも、それぞれ別の場所に出向く話をしていたかと思う。外出までの時間、二人は今回の私の件について話し合っていた。
「……だから、姉が作る毎日の食事が、供物になってたんじゃねぇの」
「それにしちゃあ、随分と力を持ったもんだな。初手で與さんを吹っ飛ばしたんだろ?」
「あいつ、ほんとに全部喋ってんじゃん……俺の独断っつったのに……」
「あのねぇ、報連相を怠るのは、本当にやめてもらえんかな。與さんの悪いとこだからな? それで何かあったらどうすんだい?」
「うるせ〜なぁ……」
「まぁ……説教ばかりもあれだから、良いとこも挙げとくか」
「あ〜?」
「今回は暴力的解決じゃなく、平和的に解決したんだってな。よくやった、朝美さん」
「そこは俺じゃねぇの?」
会話の断片が耳に残っていた。けれど、彼らが戻る時間も、自分の退勤時間も知らない。
「朝美さんは、ひとまず事務補助員な」と菫連木さんに言われたが、じつはそれもよく分かっていない。書類仕事が主だろうとは察している。
私が作成した報告書は、簿冊に収まろうとしていた。ぱらりと本紙をめくって確認していると、背後から声が。
「——ほう、片付いたか」
年寄りめいた口調が、私の耳許に掛かった。イスの上、私は小さく飛び上がる。彼の存在を忘れていた。
「びっ……くりしました」
首を回してみれば、背後からこちらのファイルを覗く椿くんがいた。(椿くんと呼んでおくれ、と本人に言われたが、しっくりきてはいない)
文字を追う瞳は、真紅の虹彩に囲われ、その肌は蝋細工めいて滑らかだった。こうして静止していると、精巧な人形のようにも見える。
椿くんは、唇の端を薄く上げた。
「これはまた、殊のほかよくできておるのう」
賛辞を口に、彼は傾けていた身を起こした。
高く離れた赤い眼に、少しほっとする。
「そうですか? そんなによくできてますか?」
「うむ。彼の者も、こうして物語を紡げたことに満足しておろう」
「…………?」
自然と首をかしげていた。疑問をもった私に、椿くんは説明を加える。
「怪異は、それぞれに物語を持っておるじゃろう?」
「物語……ですか?」
「そうじゃよ。いにしえから伝わる口遊みや、新たに生まれる流説。怪異にまつわる物語は、人を介して拡がってゆく。多くは時のなかで忘れられていくものじゃが——おぬしの『大切な子』は、こうして密やかに収められ、永久に存在し得る。……たとえ、おぬしが忘れてしまっても」
語る声は朗々として、旋律を紡ぐように響いた。
声質が幻のようで頭を通り抜けていくが、五秒ほど黙考してから私は応えた。
「私の妹は、ずっと私のなかで生きている——ってことでしょうか?」
「いいや。作り手のもとを離れても、脈々と語り継がれるバラッドのように……おぬしから離れてもなお、在り続けるという話じゃよ」
「………………」
漠然とした話に耳を傾けながら、仕上がったファイルを抱えて立ち上がった。片付ける場所は、部屋奥にある可動式の棚——ではなく、その可動式の棚の、さらに奥。壁の中。表はカモフラージュのため、事件を無難に纏めたファイルしか並んでいないらしい。
「——あぁ、私が開けて進ぜよう」
壁に向かった私に対して、椿くんは急に慇懃な振るまいで歩み寄る。
彼が壁へと警察手帳をかざすと、かすかな電子音のあと、壁の表面がスライドドアとして開いた。隠された小さな倉庫に、書架が並んでいる。中は暗かったが、捜査室の照明が届くので、電気を灯すほどでもない。私はスイッチを探すことなく入室した。
ファイルを棚に収める。ふと、視界の光が翳った。
入り口を振り返ると、椿くんの体が明かりを妨げるように立ち塞がっていた。
「おぬしは、あまり闇を恐れぬようじゃのぅ……」
「はい?」
彼の口から零れた声は小さく、不明瞭だった。
聞き直すために近寄ると、彼は陰を纏う顔で静かに話した。
「あの者に気を許すのは、いささか早計ではないかえ? 私は警告したはずじゃがのぅ……?」
「……與くんのことですか?」
「他に、誰がおろう?」
彼の声は淡々とし、かすかに漂っていた笑みすら跡形もなく消えていた。冷ややかで感情の読めない声が、暗く狭い倉庫内に反響する。
冷たさを帯びる彼とは相反して、私の胸には熱が灯った。
「私は、私の目で見たものを信じます」
「……ほう?」
「なので、警告は要りません。ご心配なく」
私は不動の彼をよけて横を抜けようとしたが、肩がすれ違う瞬間、するりと手を取られた。吸いつくように絡まった手に振り返ると、赤い眼とぶつかる。
温もりのない瞳が、私を見下ろした。
「その運命を手繰り寄せるならば、その果てで、おぬしは鬼に喰われるじゃろう。それを知ってなお——あの者の手を取るか?」
静かな声の奥底には、冷たい針のような鋭さがあった。幻の旋律を奏でるような声で、彼は私の胸に恐怖を突きつける。昨日と同じように。
ただ、昨日と違って、私の胸は震えはしない。
「與くんは、バケモノじゃないですよ。——警察官です」
絡みつく手を振り払う。当たり障りなく微笑んでおいた。
テーブルに戻ろうと足を進めて、私は捜査室の入り口に長い人影を目にした。
開いたドアから、夕焼け色の髪が顔を出した。
「おかえりなさい」
声を掛けると、與くんは一瞬だけ瞳を揺らした。ついで眉間に小さく皺を寄せ、居心地わるそうに肩をすくめつつ吐息する。
「仕事、終わったよな。お前、もう帰れる?」
「もう帰っていいんですか?」
「そ。……じゃ、送ってくから」
「え? ひとりで帰れますよ?」
ここまで来られたのだから、帰るのもさして問題ない。
当然の気持ちで返したのだが、與くんはこちらの意見を取り入れることなく、ドアへと向かおうとしている。戸惑う私を首だけで張り返ると、細い目を落とした。
「お前を独りにしとくと、どうせまた妙な騒ぎ起こすじゃん。面倒くせぇから送ってく」
「與くんって、いちいち失礼なことを言わないと死んじゃう病気か何かですか?」
「お前も大概だけど?」
悪態には悪態を返し、帰宅の準備をととのえる。なるべく急いで、私を悠長に待つ気のない夜色のジャケットを追いかけた。
「お先に失礼いたします」
背後の、いまだ奥の壁にいた椿くんに挨拶を送ると、彼は片手を上げて薄く微笑んだ。
彼の唇はかすかに動いた気がするが、挨拶を返したにしては長かった。
「バラッドというものは、大抵、破局で終わるものじゃからのぅ……」
窓の外、夕暮れの空が燃えあがる炎のように赤く染まり、雲の端が黄金色に縁取られている。空の高いところでは、藍色が広がり始めていた。
刻々と色を変える空は、無音のままに夜の訪れを告げていた。




