衝動
無機質な空間に、鈍い衝撃音が響き渡る。
広大な部屋は冷ややかだった。壁も床も、暗い寒空のように冷たい灰色をしていた。
余計な装飾は一切なく、ただ機能性だけを追求した空間。高い天井には白い照明が並び、シャープな光を散らしている。
音を響かせているパンチングバッグは、布製の袋ではない。円柱型の金属ブロックだった。吊るされたそれが、低く唸りながら揺れている。
頑丈な表面にはいくつもの凹みが刻まれ、打撃の痕跡を生々しく残している。その異常なパンチングバッグを、與が容赦なく殴りつけていた。
拳が何度も打ち込まれ、金属の塊が重い音をあげる。吊るし上げる鎖は衝撃で激しく揺れ、ガシャンガシャンと不穏な音を立てた。
呼吸も荒らげず、怒声も吐かず。
拳を叩き込むたび、金属の芯を伝って自分の骨の奥まで振動が響くのに、それすらも意識の外。
與は感情から逃げるように、ただ打ち続けていた。
渾身の力が入ったのか、金属製のパンチングバッグが不快な軋みをたてて傾いた。支えの鎖が悲鳴をあげる。
與はゆっくりと拳を下ろし、黙って自らの手を見つめた。裂けた皮膚からじわりと血が滲んでいる。
それを拭おうともしなかった。静かに息を吐き、また拳を握る。再び構えたが、その拳は振るわれることなく止まった。
いつのまに居たのか。
気づけば場の空気がわずかに濁っていた。まるで、見えない毒が溶け込んだように。
その濁りの正体を探るより早く、クツクツという笑い声が背後から聞こえた。
「——ご乱心じゃのう?」
振り向きざまに、與は鋭い目を送る。
入り口のドア横に、壁へと寄り掛かる緋乃縁がいた。
赤い眼を細めて、緋乃縁は與を眺めていた。
無言で睨みつける與に対して、緋乃縁は穏やかに、しかし冷然とした微笑みで話した。
「むかし、知り合いの鬼が言うておったのぅ? 『お前が血を好むように、俺もまた好みがある』……と」
静かに言葉を紡ぎながら、緋乃縁は與の反応を見つめている。
声には感情の色が薄い。とぼけた独り言のように、それでいて確信を持った口調だった。
赤く囲われた瞳は、冷徹に與を見据えたまま、含みのある光を宿している。
「——処女の涙は、天上の美酒にも勝るのかえ?」
與の顔が、一瞬、強張った。
瞳には理性が一度浮かびかけたが、それすらも焼き払うように、怒りが喉奥を突き上げる。
踏み込んだ足。與の肩がわずかに引かれ、拳の筋が浮く。鋭く振り抜かれた拳が空気を裂いた。
躊躇のない一撃だった。
反射的でありながら、抑えようのない激昂が込められた拳は、重い音とともに緋乃縁の手によって受け止められた。金属のパンチングバッグよりも遥かに重い。空間を揺らした音は、鼓膜を圧迫するほどに深く強く響いた。
音に合わず微動だにしなかった緋乃縁が、距離の詰まった與に目を返す。
「……『まじりもの』が、私を傷つけられると思うたか?」
時代を超えて響くような、重みのある声音で発せられた。
室内を支配する張り詰めた空気に、與の舌打ちが浅く鳴る。與は緋乃縁の手を払うと、不愉快な気持ちをあらわに顔をしかめた。
「喰っちゃいねぇよ、勘違いすんな」
唐突な與の弁明に、緋乃縁が首をかしげる。
「喰い殺した——とまでは、私も言うておらんじゃろ?」
「疑ってんだろ」
「誤解じゃのぅ……殺人の容疑までは掛けておらんよ」
「どうだかなぁ~?」
緊迫した空気が、潮が引くように消えていく。
緋乃縁に背を向け、数歩ほど離れた與は、腰の帯革から警棒を抜いた。瞬時に伸ばしきると、それを手に緋乃縁へと半身を返し、鋭く瞳を流す。
「これなら、俺でもあんたに、傷ひとつくらいは付けられんじゃねぇ~?」
「ふぅむ……近頃の若造は礼儀がなっておらんのぅ? 年長者を敬う心が足りぬ」
「言ってろ」
空々しく嘆いてみせる緋乃縁に、與は悪態を投げて警棒を仕舞った。本気で殴りつける気はなかった。
「——で? 何しに来たんだ?」
本題を求めて問うた與は、緋乃縁の用件を推測していた。どうせややこしい事案を持ってきたのだ。それか、雑務の押しつけ。
「こんぴゅーたは難解じゃて」などとふざけた泣き言を言う、この年寄りぶりっ子は。
「おぉ。そうじゃった、そうじゃった。おぬしを呼びに来たのじゃった」
うむうむと大仰に頷くと、緋乃縁はくすりと笑んだ。
「おぬしが喰い殺しかけたお嬢さんが、先刻から捜査室におるのじゃが……おぬしも自己紹介をしたらどうじゃろう?」
数秒、聞き流してから、與は思いっきり振り返った。
「はっ?」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのように、口を開けて間の抜けた声をあげた與。なんの話だ、と困惑する間もなく、緋乃縁が顎に手を当て、深々と思案する顔を見せた。
「歓待の宴——いわゆる歓迎会とやらが要るのではないかえ? これを機に、幹事というものを務めてみたいのぅ……」
すっとぼけた希望を吐く緋乃縁から、得られる情報はない。
常日頃、場を攪乱するだけで、緋乃縁が有益な情報を与えることなど基本はないのだ。




