ひとりの朝に
久しぶりに深く眠った。
朝、目覚めた瞬間の感覚はどこか不思議だった。長いあいだ沈んでいた水面に、ふっと浮かび上がったような、重さも苦しさもない静かな目覚めだった。
カーテンの隙間から射し込む朝の光は柔らかく、部屋の空気はひんやりと澄んでいた。
布団の温もりが心地よい。睡眠時間は短いから、今ならまだ眠れるかもしれない。けれど、それができるほどには身体が軽く、意識ははっきりとしていた。
こんなふうに眠れたのはいつぶりだろう。思い出せないほど遠い昔のことのような気がした。
長らく、夢と現実の境が曖昧な夜を過ごしていた。
静寂のなか、遠くから鳥のさえずりが聞こえる。世界は何も変わっていないはずなのに、ほんの少しだけ違って見えた。
胸の奥は、まだどこか沁みるような気持ちがする。
けれど、それに押し潰されることはなかった。
——お姉ちゃん。
頭に思い浮かぶのは、優しい声だけ。
その響きを胸に、私はカーテンを開いて階下へと向かった。
私の朝は朝食作りから始まる。
かつお節と昆布の合わせ出汁は、澄んだ黄金色。そこに、わかめと賽の目に切った豆腐を入れ、味噌を溶く。卵焼きは甘く。グリルで焼いた鮭と、フルーツのぶどう。
プレートに料理のお皿と椀を載せ、炊きたてのご飯を茶碗に盛って置けば——完璧。蓮花の好きな朝食セットの出来上がり。
ただ、今日は蓮花の部屋まで運ばなかった。ダイニングテーブルの上に、二人分を向かい合わせで並べた。
蓮花のために作るのは、これが最後。
「……いただきます」
ひとり手を合わせて、食事を開始——するはずが、背後のモニターから来訪のしらせが鳴った。
こんな朝っぱらから、誰が?
疑問に首をひねりつつ振り返る。外部カメラを映したモニターには、
「あ」
黄金色の眼が、あった。
玄関に迎え出たところ、朝日の似合わない派手な頭髪の長身が立っていた。
「捜査官さん、おはようございます……? どうかしました?」
「ん~……事後確認?」
「じごかくにん?」
「今回は独断行動だからな~、俺が様子を見に来てやったわけ。俺、いちおう——」
「警察官ですもんね」
與捜査官の主張を先取りして唱えると、彼は唇をへの字に曲げた。
「……お前やっぱそういうヤツだよなぁ。儚さなんてカケラもねぇな~?」
「はい?」
けらけらっとした笑い声を鳴らして、與捜査官は機嫌のよい顔を見せた。意味が分からない。分からないが、なんとなく貶された気はする。
「つぅか、美味そうな匂いすんなぁ。朝メシ?」
「あ、ちょっと!」
與捜査官は勝手にドアを大きく開くと、私の許可もなく中へと入ってきた。ドアのチェーンを付け忘れていた——と反省したが、違う。チェーンは五時間ほど前、この男に千切られていた。
家人のように遠慮のない足取りでリビングへと向かっていく彼は、例のごとく脚が長いせいで私よりも速い。私がリビングに足を入れたときには、ちゃっかりとテーブルに着こうとしていた。
「へぇ~? 俺の分もあるじゃん。お前、ほんと優秀だな~」
「それは蓮ちゃんの——!」
ぱちん。私の言いかけの言葉に被せて、彼の手を合わせた音が響いた。いただきます。
言葉はなかった。一瞬だけ目を伏せた彼の所作が、葬送の祈りのようで——私は口をつぐんでしまった。
刹那の沈黙を挟んで、與捜査官は何事もなかったかのように箸をつけた。椀を手に取る姿勢は、意外にも行儀がよかった。
文句のタイミングを逃してしまい、しぶしぶ私も席に着く。言いたいことはあるが、とりあえず冷める前に食べようと思う。『温かいものは温かいうちに』朝美家の家訓でもある。
食事を始めた私の向かいで、與捜査官は手を止めていた。どうしたのかと目を投げると、丸い目で椀の中を見つめていた。まるで、思いもよらないものと遭遇したかのような、驚きの表情。
「……なんです?」
「お前、料理うまいな」
「………………」
そうくるか。
想定外の反応に、返す言葉が出てこなかった。
私は料理を褒められる機会がなかった。ひとりで自画自賛してみることはあるが、本心では、思い出の母のものと比べて未熟だと思っていた。
急な褒め言葉に、うまく返せる愛嬌もない。無言の私を放置して、與捜査官は独り言のようにこぼした。
「警察官の伴侶に向いてんなぁ……?」
「………………」
反応に困ることを言った。聞こえないふりをして、私は箸を進める。
しばし食器の触れ合う音だけが、食卓に響いていた。
黙々と料理を口に運びながら、時折、與捜査官の姿を視界の端でうかがう。
別れてから数時間しか経っていない。彼は少しでも眠ったのだろうか。帰宅したのかどうかさえ分からないが、服装は違うように思う。濃紺のミリタリージャケットは同じ。
ひたりと、目が合った。
「………………」
「………………」
言葉なく重なった目に、一切の動きが止まる。最初はなんの感情も浮かばない、ただの視線の交錯だった。
けれど、数秒の沈黙ののち、彼の眉がかすかに寄った。ほんのわずか、目の奥に曇りが差したような変化が。
「……撤回する」
脈絡なく、彼は言った。
意味を掴めずに、私は首をかしげる。彼は私と目を合わせたまま続けた。
「被害者のせいで、犯罪が生まれるようなことを言った。あれは撤回する。……お前の妹が亡くなったのは、犯人のせいだ。妹のせいじゃねぇよ」
彼の声は、深く響いた。表情は真剣で、慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
ほんの一瞬、彼は目を伏せて拳を握る。ゆっくりと目を上げて、私をまっすぐに見つめた。
「お前のせいでもない」
重ねられた言葉は、ただの音ではなく、確かな温もりをもって私の心に触れていた。
なんと言えばいいのか、うまく言葉が出てこない。結果的に、私は苦笑みたいな顔をしていた。
「……捜査官さんは、私の後ろに、お母さんたちが見えるんですよね?」
ずれた話題に疑問を感じたのか、與捜査官は眉を上げる。無言だったが、私の肩あたりに流れた彼の目が答えを告げていた。
胸が重たくなるのを感じながら、それでも私は尋ねた。
「妹を護れなかったダメな姉を、お母さんたちは怒ってませんか」
訊かずにはいられなかった。
私の後ろに両親が、もしくは母か父のどちらかがいると思うと、ひどく怖かった。一度は目を逸らそうとしたが、朝の陽光に包まれる今なら、事実を受け入れられそうで、自然と尋ねていた。
彼の口から答えが出るとは思っていない。だから、彼の正直な瞳を見ていた。
しかし、
「お前の母親、髪、短かったの?」
「……はい?」
観察する私の目をよけて、與捜査官は自分の背後を振り返った。唐突な質問に面喰らう私を置いて、背後の壁に飾られた家族写真を確認していた。
「これ、どれが誰?」
「……見たら分かりません?」
「左右の端にいるのが親?」
「そうです」
「お前は右だよな?」
「そうですね」
「じゃ、左が妹」
「……そうですが?」
なんの話をしている?
相当の覚悟で尋ねた私の緊張感が、ゆるゆると奪われていく。
家族写真を眺めていた與捜査官は、こちらに顔を戻した。
「勘違いしてたわ。お前のそばでお前を心配してんのは、妹だな」
さらりと、衝撃的なことを言った。
「えっ!」
「あ~、期待すんな。お前が思う幽霊じゃねぇよ。……俺、説明してなかったっけかぁ? その影は残留思念だから、魂はねぇ。ほとんど消えかけてるし、俺から見ても掠れてんの。雰囲気くらいしか分かんねぇけど、写真を見る感じ、妹だな~」
ぱくっと卵焼きを口に入れた與捜査官。肩越しに振り返って目を凝らす私に、軽い口調で説明を寄越した。
だが、説明が足りていない。私はそわそわとして、自分の背後と與捜査官の瞳を交互に探った。追加の情報を待っていた。彼は咀嚼しながら私を見ている。その瞳からは何も読み取れない。
「あのっ……」
蓮花は、本当に私に怒っていませんか。
消えたはずの不安が浮かび、確かめたくて私は口を開いたが、彼のほうが早かった。
「それは、最期の思念だ。妹は死ぬ間際まで、お前を強く気にしてたんだろ。……ナイフを突きつけられても、あれだけ抵抗したのは……死の恐怖よりも、お前が責任を負うことを恐れたんじゃねぇのか? 『私のせいで妹が被害に遭った』って、お前が後悔するほうが、怖かった。……お前がそういう性格なのは、妹もよく分かってただろうしな」
語られる真実に、喉の奥で言葉が引っ掛かる。何か言おうとするほどに、うまく声にならない。
「かといって、亡くなったのはお前のせいじゃねぇから——あ?」
話の途中で、與捜査官は急に片眉を跳ね上げた。戸惑う私とは目を合わさず、私の奥を見つめている。
「あ~……違うか。違わねぇけど、違うか」
「……?」
與捜査官は眉間に溝を作って、考え込む顔をした。言葉を探すように視線でテーブルの上をなぞってから、私の肩へと戻り、
「帰りたかったのか……そりゃそうだわ。『大好きな姉ちゃん』のとこに、帰りてぇよなあ? 最期は、やっぱ、一番好きなやつを想うよな」
そう言って彼は、ふっと息を漏らすように笑った。
彼らしくない優しい笑い方で、どこか脆く、見ているほうは胸が詰まるような——そんな笑顔を、虚空に向けていた。
戸惑いのまま止まっていた私に目線をずらして、彼は笑顔を作り変える。今度は、彼らしい上から目線の笑みで、
「お前は、ダメな姉じゃねぇだろ。むしろ、毎日これだけ美味いメシを作ってたんなら、優秀な姉ちゃんじゃねぇの? 親も妹も、誰もお前を怒ってねぇ……つぅか、お前、充分に愛されてたんじゃね~? 家を見たら、それくらい分かんの、俺は」
彼は、飄々とした調子で言った。まるで何気ない会話の一部であるかのように、あっさりとした響きで投げかけた。
軽薄な響きだけれども、言葉に嘘はないと分かる。軽い口調の奥にあるものが、私には、もう分かる。
——充分に愛されてた。
ぐっと、胸の奥が熱くなった。込み上げてくるものを抑えようとしたのに……どうしても、耐えきれない。
視界が滲む。軽薄な雰囲気に合わせて軽く笑うはずが、気づけば涙が零れていた。
両親のときも、蓮花のときも、泣かなかった。
家族を喪ってから、一度も泣かずに独りで頑張ってきたはずが——いま、ふいに耐えられなくなった。
溢れる涙をどうすることもできず、彼の顔から目を下げる。
滲む視界に入ったのは、朝食のプレート。蓮花のために作った食事は、きれいさっぱりと完食されていた。長く空になることがなかったそれが——胸にとどめを刺した。
悲しい、寂しい——会いたい。
ずっと押し殺していた気持ちが、堰を切ったように瞳から溢れていく。
食事の手を止めて、私は泣き続けた。どうしようもなく流れていく涙に、今はただ身を委ねるしかできなかった。
どれくらいそうしていたのか、自分でも分からない。
ただ静かに涙を流し続け、時間の感覚は失っていた。
ガタリと、イスの脚が床を擦る音に、小さく跳ねるような感覚で意識を引き戻された。與捜査官が立ち上がっていた。
そのまま、彼は私の傍らまで歩いてくる。私は涙を残した顔で見上げた。私の思考は止まっていて、茫然とした心地だった。いきなり泣いてしまった恥ずかしさも抜けていた。
ぼやけた視界で彼の顔を捉えようとしたけれど、瞳が焦点を結ぶ前に、身を屈めた彼が私へと顔を寄せていた。
ふと、異質な感覚があった。そこにいるのは與捜査官のはずなのに、別人のような。気づけば彼らしい軽薄な雰囲気が消えていた。
ふわりと現実感が遠ざかり、妙に静かな空気の歪みが生まれる。
なんなのか。反応できずに固まっていると、彼の指が、そっと私の顎に触れ——
吐息が、頬に掛かった。
心臓ごと動きを止めた私の頬を、熱く濡れた感触が、細く撫であげる。
涙の軌跡を辿るように、彼の舌先が、肌を伝う涙を掬った。
「え……?」
私の口から落ちた音は、「へ?」に近かったかも知れない。驚きに息を呑むよりも、あっけに取られる気持ちのほうが強かった。
それでも、私は反射的に顔をのけぞらせてはいた。
涙の止まった目と呆けた顔で、彼を見返す。間近で見た彼の顔には、やわらかな恍惚があった。
現実の感触を忘れたかのように、焦点の合わない瞳には夢心地の余韻が漂っている。わずかに細められた目尻には熱が籠もり、狂気の混じる色香を帯びていた。
彼に限らず、相手が誰であっても目にしたことのないその表情に、ぞくりと言い知れない感覚が走った。
「捜査官さん……?」
恐るおそる呼びかけると、一瞬遅れで彼の瞳に光が入る。蕩けるような表情には動揺が差し、彼の顔は凍りつくように色をなくした。
なにか取り返しのつかない一線を越えてしまったかのような、そんな強い衝撃を見せると、與捜査官は弾けるように私から距離を取っていた。
「ぁ……えっと、だいじょうぶで……?」
大丈夫ですか?
そう訊くのは、変じゃないか? なぜ私が案じるのか。泣いたのも私であるし、こんなふうに身を離すようなことをされたのも私では?
違和感に口をつぐむ。腑に落ちない彼のリアクションに少しばかり考えていると、その隙に……逃げた。彼が。
「えっ!」
疾走した與捜査官の残像に目をみはり、私が大きな声をあげたときには、玄関のドアが閉まる音がしていた。
部屋には、陽に包まれた静寂だけがあった。
いまだ動けずにいる私は、ぽかんとして頬に手を当てる。涙で冷たくなった肌には、なぞる舌先の感覚が残っている。
何が起こったのか、混迷とした思考で自問自答するが、まったく分からなかった……。




