お姉ちゃん
與は、壁に打ち付けられた頭が痛むのを感じた。
腕もどこか折れている。背中もやられている。
——甘く見ていた。
楪と別れて捜査室に戻ってから、あらゆる手を使って事件の詳細を把握した與は、菫連木の許可も取らずにここへ戻ってきていた。
何かがおかしいと感じていた。性格が控えめなわけでもないのに、存在が抜け落ちるような儚さ。持ち前の気質と彼女が纏う雰囲気の齟齬。
與の頭には、生命力の感じられない楪の姿があった。
——何かに、精気を吸われている。
その何かは、すでに予想がついている。
翌日まで待つ、そんな選択肢はなかった。
うなだれていた顔を上げ、軋む身体を無理やりに立ち上がらせる。與は開かれたドアの先を見た。闇に慣れた目を白が貫く。
世界は裏返っていた。周囲は果てなく遠ざかり、赤い闇に囲われる。
赤き世界の中央に開かれたドア。なんの変哲もない眩しい部屋のなか、ベッドの上に、それは在った。
黒い影。しかし、ただの影ではない。形を定めず、微細な粒子の群れがざわざわと蠢いている。
まるで小蠅が無数に群がっているかのように、不規則なノイズがちらつき、時折その輪郭は不明瞭に歪んだ。
影は、断続的にブツブツと音を発している。微細な粒子のさざめきの中に、誰かの呻き声や嗤う声のようなものが混じり、存在しないはずの無数の気配をざわめかせる。
楪は、応えるように影へと頷いていた。
「蓮ちゃん……うるさく言って、ごめんね? お姉ちゃん、『外に出よう』なんて、もう言わないから。ずっとここに居てくれていいから……ね、私がずっと護ってあげるから」
幼子に掛けるような甘やかな声で、楪が語りかけている。
——朝美 蓮花は、長年、自宅に引き籠もっていた。
彼女が殺害された事件の日、彼女は楪との口論から自宅を飛び出した。だが、行き場がなかったのか、自宅から離れた公園で独りいたところを、犯人に襲われたとみられている。
それまでの二件の事件と異なり、性的暴行ではなく——殺されている。犯人は、朝美 蓮花から激しい抵抗を受け、脅迫で突きつけていたナイフを刺してしまったと供述している。
「近づくなっ……」
影に触れようとしていた楪を止めようと、與は手を伸ばした。
近寄る與を察した楪は、勢いよく振り返った。
跳ね上がった楪の腕が、ひらめく。
空気を切り裂くわずかな音を発して、銀の刃が、與の目前に鋭い一閃を走らせた。
「来ないでっ!」
叫び声をあげて牽制した楪の手には、折りたたみ式のナイフが握られていた。
與にナイフの先を向けたまま、楪は悲しみに顔を歪ませる。
「約束したじゃないですかっ……」
喉が張り裂けそうな声で、楪は訴えた。
「蓮ちゃんには、会わないって……約束したのにっ……」
——蓮ちゃんに手を出そうとしたら、私が止めますからね。なんとしても。
與は車中の会話を思い出しながら、楪の震える手を眺めた。握られたナイフを目にして、そっと眉を寄せる。
「やっぱり……お前だったか」
そのナイフは、楪が羽織るコートのポケットに仕舞ってあったようだった。
そして、その折りたたみ式のナイフを見るのは、與は二度目だった。
「……それ、昨日の公園に落ちてたな」
ひくりと、楪の肩が反応する。與を見つめる瞳が、楪の動揺を映した。
「——お前、あの公園に、わざと居たな?」
揺れた瞳を見つめ返しながら、與は核心を突いた。
事件の報告書には、犯人が所持していたのは固定刃の小型ナイフとあった。與は写真も確認した。昨日の公園で與が見た物ではない。
他の凶器は資料に挙がっていない。それはつまり、あの場にいた誰かが隠蔽した可能性を示唆する。
もとより、折りたたみ式のナイフの持ち主は——。
楪の顔から、血の気が引いていく。小刻みにわななく唇は色を失い、答えることもできずにいる。
與は静かに続けた。
「偶然じゃないんだろ? 頻繁に——いや、もしかしたら毎日、あの時間、わざわざ公園に立ち寄ってたんじゃねぇのか」
「………………」
「犯人は、現場に戻る。あの公園は、唯一、犯人が目的を達成できなかった場所だ。執着があってもおかしくねぇな?」
「………………」
「髪をおろしてたのは、妹に似せたかったからか? 昨日と今日で、雰囲気が違ぇよな。犯人をおびき出して……お前、殺そうとしてたか」
「私はっ——」
ふいに声を張りあげた楪が、強くナイフを握りしめた。言い返そうとしたが言葉を詰まらせ、本来の思いを呑み込んでしまったかのように声量を弱めた。
「だって……蓮ちゃんが、怒ってるんです」
楪の瞳が、與を見上げている。
「私が叱ったから……蓮ちゃんが、あんな目に遭って……こ、殺されてっ……」
見上げる双眸は、張り詰めた糸のように危うい緊迫感があった。
「ずっと、怒ってるんです……『お姉ちゃん、うるさい』って……ずっと、怒ってるんです。……だから、私も同じ目に遭えば……それか、ちゃんと復讐してあげたら……」
楪は、ナイフを握る手を見下ろした。銀の刃を、まるで一筋の希望に縋るような目で見つめた。
「そうしたら、きっとまた、いつもみたいに……『ごめん』って。『お姉ちゃん、だいすき』って……言ってくれるはずなんです。……蓮ちゃんは、昔から……優しいから、」
——赦してくれるはずなんです。
最後の言葉は、うまく音に成らなかった。
胸の想いに声を詰まらせた楪は、掠れて裏返った訴えをこぼし、唇を咬み締めた。
伏せていた視線を、ゆっくりと上げる。
「捜査官さん、お願いです。蓮ちゃんを見逃してください。蓮ちゃんは、誰も傷つけたりしません。私が、護るから……お願いです」
楪の瞳に、決意の色が浮かんだ瞬間。呼応するように、影がざわりと揺らいだ。
ノイズのように蠢いていた黒い粒子の群れが、楪の足許へとしがみつくように寄り、輪郭を濃くしてゆく。
それは、彼女を護るように立ち昇り、一瞬だけ女の顔を象った。
だが、それと気づいたときには、また無数の粒子に還って消える。
楪の口から、低く強い声が漏れる。
「蓮ちゃんを殺すなら、私が、あなたを殺します」
言葉とともに、影のざわめきは倍加した。
異様な湿度を帯びた空気が、與の肌に纏わりつく。
枯葉が擦れるような叫び声がする。彼女に庇われた影は、強く黒を増した。
與は目の前の光景を見つめる。ホテルの駐車場で見た、彼女の泣きそうな顔がそこに重なる。
闇の粒子を背負った楪の瞳に、ためらいはなかった。




