特異事件捜査室
特異事件捜査室。
これは警察庁が創設した国直轄の捜査部署で、外部に独立して設置されている。首都圏を中心に、全国へと散らばる『特異な事件』を捜査・調査するため設けられた。
昨今の世論を受け、『気掛かりな事件』や『捜査を不要とした事案』を精査することで、犯罪死の見逃し防止を主目的としている。
——表向きは。
オフィス街に並ぶ、どこにでもありそうな高層ビルの一室。半透明のスライドドアから入るのは、特異事件捜査室の室長である菫連木 冴であった。
童顔の彼は二十代によく間違えられるが、三十を優に越えている。明るめの髪色は生まれつきのもので、温和な容貌と相まって職業を一切感じさせない。
彼は警察官、警視正のキャリアである。
「與さん、ちょいと起きてくれるか」
菫連木は窓に垂れる縦型ブラインドの遮光を解き、室内を進む。中央のミーティングテーブルを過ぎて奥の可動式の棚までやってくると、壁沿いの長ソファに目を落とした。
濃紺のミリタリージャケットを頭から被った、長い体が寝そべっている。頭は肘置きを枕にして、伸びた脚は反対の肘置きから飛び出ていた。
こんなところで、よくもまあ眠れるものだ。菫連木は呆れ半分、感心しながらジャケットを引っ剝がした。
「おはよう、與さん」
「あ~~?」
長ソファで寝ていた男は、目をすがめて低い唸り声をあげた。髪は赤銅色。左右で色が異なるオッドアイは、右眼が暗く、左眼が金。ただし、この左眼は普通の人間には知覚されにくい。通常は意識に入らず、彼のオッドアイに気づく者は少ない。ヘアカラーは人工のカラーリングなので、普遍的に派手な赤髪と認知される。
菫連木は、わざとらしくため息をついた。
「あーじゃないのよ。昨日の話を聞かせてもらうから、起きてくれんかい?」
「きの~?」
「昨日。お前さん、例の現場から引き継ぎせずに帰っちまっただろ?」
「………………」
細めたオッドアイを、ぱちりぱちり。寝ぼけた頭は動き出したのか、赤銅色の髪をした男——與 代籠は、理解がいった顔でむくりと上体を起こした。
「なんだよ、別に問題ねぇだろ~? 俺が関わったことは記憶から消してきた。犯人を捕まえたってめんどくせぇだけ……。これ以上、仕事が増えるの怠ぃんだよ」
「あれほど騒がれてた事件なんだから、手柄をネタになんでも交渉できただろうよ」
「あ~……そぉ」
「ああそう、で済まないからな。そもそもお前さん、ちゃんと消してないんだから……大分ややこしいことになってんのよ」
「はあ?」
眉間に筋を作った與は、昨日の記憶を辿りなおした。
「……あぁ。犯人のほう、消すの忘れてたわ」
長い髪の女には催眠を施した。だが、殴り飛ばした男の始末は失念していた。真顔でぼやいたあと、與は立ち上がった。
「俺が、もっかい行ってくればい~んだろ。今どこにいんだよ」
「被疑者の男なら、連続事件じゃなく昨日の件での被疑者として、留置されてますよ」
「ふ~ん。留置施設全員から俺の侵入記憶を消すのは、骨が折れんなぁ……?」
「いや、無理でしょうよ。あそこのカメラ、何台あると思ってんだい?」
「あ~……そっちは壊しとくわ。物理的に」
「そりゃ困るな。與さんが暴れたら、ちょっとしたテロになっちまうよ。税金の無駄遣いだ」
腕を組んで吐息する菫連木を、背の高い與は細い目で見下ろした。
「なら、どうしろってんだ?」
「まぁ……そっちはひとまず置いておくとしよう。連続事件のことは話し始めたそうだが、なんで捕まったのか記憶は曖昧らしい。殴られたことも、與さんの顔も覚えてないそうだ。問題は……被害者の子かな」
「女のほう?」
首をひねった與に、菫連木は話のズレを理解した。
——犯人のほう、消すの忘れてたわ。
與はそう言った。犯人のほう。
「……與さん、女の子のほうも記憶が残ってんだよ。取り調べで話していてな。『赤い髪のひとが倒した』、『左眼の色が違う、薄い色の猫みたいな眼』って……これ、どう考えても與さんだろ?」
そんな馬鹿な。困惑に駆られた與の顔を、菫連木が意味ありげな微笑で見上げてみせる。
「過剰に暴力を振るった事実を隠せてない。しかも、被疑者を拘束もせずに放置して帰る。……俺が連絡を入れてんだからさ、赤い髪ってので與さんに行きつくわけよ。これは與さんの落ち度だよな?」
「……あ~あ、せっかく犯人を見つけてやったのにな~……。無視してさっさと帰りゃよかった」
「こらこら、極端すぎるだろ。普通に市民を助けたのは殊勝なことだ。でもな、もうちょい、やりようがあるだろ? ……って話なんよ」
「冴は、」
「——菫連木」
「……菫連木室長は、多忙な俺の仮眠を邪魔してまでお説教に来たか? ミスを消してこいって話じゃねぇなら、具体的な指示を寄越せよ」
菫連木は手にしていたジャケットをソファの肘置きに置いた。空いた腕を組んで、瞳を上に與の目を見返す。
「『金眼』が意識に残ってるなんて稀だ。あっちの捜査から横取りするようで悪いが、一度その子をこっちで確認してみたい」
「つまり?」
「住所も職場も知れてるから、與さん、その子を連れてきてくれんかな?」
菫連木は胸の内ポケットに手を差し込み、小さなメモ用紙を取り出す。
「え~っとな、名前は……朝美 楪さん」
ひらっと掲げられたメモを受け取り、與は読み仮名を目でなぞった。
「あさみ……ゆずりは」
名を唱え、與は記憶から女の顔を浮かべた。
下草の付着した乱れ髪。服が乱れていなかったのは、男が事に及ぶ前だったのか……それにしても。
抵抗したなら、もっと乱れているべきではないか?
記憶の中で被疑者の男をあらためるが、女性の抵抗によく見られる引っ掻き傷はなかった。恐怖から抵抗できなかったのか——。
與の思考は、菫連木が割った。
「助けたお前さんが迎えに行けば、素直についてくるだろ?」
「どうだかな~?」
「ん……?」
與は肩をすくめると、ジャケットを取ってドアへと歩いていく。
素直に、ついてくるだろうか?
あの女は、與が差し出した手を頼りにしなかった。震える手は宙に、恐れを含む眼差しで與を見ていた。まるで、化け物を見るみたいに。
「……まぁ、抵抗したら攫っちまえばいっか~」
勢いよくジャケットを羽織る與を見送りながら、菫連木は「ご苦労さん」とねぎらいを掛ける。
「……んん? 攫う?」
疑問に思って確認したときには、夜色の背中は磨りガラスの向こうへと消えていた。