本当のバケモノ
それは、一瞬の出来事だった。
私を振り返った與捜査官の後ろで、女が笑った。唇の端が裂かれるように、頬の肉が引き攣るほど吊り上がった笑みが、狂気を象った瞬間——女の足許から灰白色の影が溢れ、與捜査官の四肢を床へと縫いつけていた。
私が驚愕に息を詰めたときには、ぞっとするような、湿った音が鳴った。肉の内側で何かが潰れ、骨が擦れる音。ゴキ、ぐしゃり、と音を立てて與捜査官の首が、不自然な角度にかしいだ。
悲鳴をあげる間さえなかった。
気づけば、世界は真っ赤に染まっていた。
鋭い音が頭の内側を貫く。きぃん、と。金属が擦れ合うような、不快な高音が鼓膜を刺した。
私が踏み込んだのは、ただのホテルの一室だった。少し暗いだけの、隣室とよく似た内装だった。確かにこの目で見たはずだ。
なのに、この一瞬で室内は変容していた。周囲が遠のき、世界が閉ざされたかのような——いや、違う。
私たちが、世界から弾き出されたかのようだった。
頭が痛い。
ひどい耳鳴りと眩暈がする。息を吸おうとしても、空気がどこか遠い。薄く吸い込んだ空気は錆びた鉄の匂いがした。身体の重心が定まらず、まっすぐに立てているのかも分からない。
胸の奥が締めつけられ、鼓動は無秩序に跳ねる。背筋を這い上がる悪寒が、全身を麻痺させるようだった。逃げ出したい——そう思うのに、足は凍りついたように動かない。闇へと呑み込まれそうな閉塞感に打ちひしがれ、ただそこに立ちとどまるだけで精一杯だった。
平衡感覚を失い、狂いそうな意識のなか……すぐそばで、何かが動く気配を感じた。
揺らぐ視界で、正体を捉える。
與捜査官に跨がっていた女が、立ち上がっていた。垂れる両腕は異様な角度で折れ曲がり、本来あるべき形を喪失している。関節とは違う箇所で突き出た骨が、皮膚を内側から押し上げ、歪な影を作っていた。
ゆうらりと、女は振り返る。
その顔には、いまだ微笑が浮いている。
美しかったはずの髪は乱れ、引き攣る唇は耳まで裂傷を広げていく。般若の形相をした女は、私に手を伸ばすようにして歩を進めた。
裂けた唇の奥から、金切り声が鳴り響いた。
「ゆぅぅるルさなぁァァいいイ」
頭に直接響くような声が、赤い大気に轟く。吐き出される呪詛は布を裂くような音をして、いっそうの耳鳴りを招いた。
床を掠めるように動く女の足からは、灰白色の人影だったモノが溢れている。ぐにゃぐにゃと奇怪に蠢いて、細い音で囁いていた。
コワイ コワイ
イタイ イタイ
途切れとぎれに、すすり泣くような声が混ざり、空気の奥でしゃくりあげる嗚咽が漏れる。
タスケテ タスケテ
カエシテ カエシテ
さざめいていく人影と共に、ねじれた腕が、私に伸びてきて——
ガクンっ、と。女の顔が不自然に揺れた。
突とした動きに、私の肩も大きく跳ねていた。
女は壊れた人形のようで、ぎこちなく動きを止める。何かに足を引っ掛けたかのような動きに、私はハッとして視線を足許へ落とした。
「あ〜、いってぇ……」
掠れた声。声帯が軋むような苦しげな響きなのに、その声音は相も変わらず軽薄さを感じさせた。
女の足を引き留めていたのは、床に横たわる與捜査官の手だった。
蠢く人影が、攻撃の矛先を鋭く彼に戻す。しかし、與捜査官の手が女の足首を捕らえたまま、無雑作に振り投げるほうが早かった。
宙に弧を描いた女の体が、床に激突する。ぐしゃっと潰れるような鈍い衝撃音。
唖然とする私の目の前で、與捜査官は跳ねるように立ち上がった。
「首の骨、折れたじゃん」
手を当てて、首をさする。彼は寝違えた程度の軽い雰囲気で愚痴をこぼした。
一秒だけ、耳鳴りも眩暈も遠のいた気がする。彼の平然とした姿に、私は呆気にとられていた。人間って、あれだけ盛大な音を立てて首の骨が折れても平気なんだっけ。
「そ、捜査官さん……?」
放心状態で呼びかける私に、與捜査官は目を流しかけたが、引き戻されるようにして奥を見据えた。
ざわざわと揺らめく人影たち。それらに支えられて、女が緩慢な動きで立ち上がった。
女の顔が、こちらを向く。今度こそ、私は叫んでいた。
女の体はひしゃげていた。全身の骨が折れたかのように歪んだ四肢は、人体としてあるまじき方を向いている。頭部は大きく陥没していた。こちらに向かって笑う唇は大きく裂けて皮膚が捲れあがり、はみ出ていた右の眼球が床へと零れ落ちた。
くぼんだ眼窩は闇を見せる。人影によって宙に浮かぶ姿は不気味なマリオネットを彷彿とさせ、人とは思えない悪夢のような光景だった。
「へぇ〜、やっぱ人間じゃねぇのか。軽すぎるもんなぁ〜?」
與捜査官は、ハッと息を鳴らした。
笑った。あの恐ろしいバケモノを目に入れてなお、変わらない軽薄さで笑った。
バケモノを眺める與捜査官を見上げる。斜め後ろの私から覗く横顔、縦に割れた瞳孔の、金の眼。
笑う口角の上、その瞳が愉しげに細められると、刹那、光が刃のように走る。恐ろしく、ぞくりとするほど冷たい光。人の温もりをなくした、非情な輝きだった。
「怪異なら、手っとり早ぇわ」
独り言が落ちる。状況にそぐわない愉悦の顔が、私の背筋に冷たい戦慄を走らせる。
なにを言っているのか——。
突如、バケモノが弾け飛んだ。
飛び掛かってきた女を恐れて身構えた私だったが、攻撃は直線上に滑り込んだ與捜査官が受け止めた。彼はいつのまにか警棒を手にしていた。
「お前、邪魔。下がってねぇと、お前も殴っちまうぞ〜?」
私に向けて首を回した彼は、耳障りな笑い声を響かせた。不愉快な音は赤い世界にこだまし、奇妙なほどに馴染んでいく。
さも彼が、この世界の支配者かのように。
震える足で、後ずさる。もつれた足のせいか、眩暈のせいか——わずかに下がっただけで、私は後ろに倒れ込んでいた。
彼は、私が後退するのを見届けてはいない。バケモノと化した女を蹴り飛ばして距離を作ると、手にした警棒を大きく振りかざした。
高く上がった警棒は、空気を切り裂くかのような金属音とともに、バケモノの体へと直撃した。彼の背に隠れて見えなかったが、分かった。
音が。
ぐしゃりとした、音が。
皮膚が裂け、骨が砕け、鈍く潰れる嫌な音が——私の脳髄を重く震わせた。
一度きりではない。
何度も何度も振り下ろされる警棒によって、おぞましい音は重複した。
彼の脚のあいだから、崩れ落ちるバケモノの残骸が見える。叩き潰された粘土のような、醜い姿をした女の、暗い眼窩と目が合う。
巻き込まれて散りぢりになる人影たちが、かすかな声で囁きかけた。
——たすけて、たすけて、たすけて。
無意識に伸ばしかけた手が届くことなく、人影たちは細い余韻を置いて掻き消えていった。
残ったのは、原形をなくした女の本体だけ。いびつな造形をしたそれは、グロテスクな塊となって転がっていた。
不思議なことに、それは肉塊というよりは、人間の皮を被ったマネキンのような物体だった。皮膚と骨とのあいだ、血肉の代わりに、ぎっしりと樹脂のような物が詰まっていた。
「あぁ〜、楽に片付いてよかったなぁ?」
異形のそれと見つめ合う私を、彼が振り返る。
彼の瞳は、おや?と言いたげに下へと落ち、私を見つけた。
「お前、腰抜かしてんの?」
嗤う唇と、黄金に煌めく虹彩。
彼を印象付けるそんなものよりも、私の目は上を向いていた。
赤い前髪。金眼のちょうど上に当たる額の、生えぎわに。
鋭く突き出た角が、黒鋼の刃のように天を指す。
「手ぇ貸してやろうか?」
馬鹿にしたような声で差し出された手に、鋭利な爪が光った。
「——あぁ。お前、ちゃんとそんな顔もすんの」
赤い闇を背に、片角の鬼が嗤う。
私がどんな顔をしていたかは知らない。
ただ、
「やっと恐怖を思い知ったか」
震える私の手が、彼の手を取ることはなかった。




