ひとあらざる
女がいた。
光度を落とした暗めの部屋。中央で佇む女は茫然としていて、反応を見せることなく静止していた。與から見えたのは横顔だった。うつむく角度のため、長い髪に表情が半分ほど隠されていた。
(人間じゃん……)
うんざりと息をつく。與の眼をもって注視したが、やはり女は人間であると見える。他人に取り憑いた影が見せる、揺らぎやブレがない。取り憑きの場合、別人だったり獣だったりと二重の影が揺らぐものだ。
とはいえ、女には首絞めの容疑が掛かっている。與も記憶にある女だと認めた。こんなところにいる理由は知らない。殺人を犯したのなら、普通は恐慌をきたすものだが……殺害の興奮冷めやらぬままに男との逢瀬を望んだのなら、狂ったサイコキラーではないかと邪推していた。
「あ〜、お邪魔してすみませんねぇ? 乱闘の音が聞こえたもんで。軽く話を聞かせてもらっても?」
面倒くせぇなと思いつつも、與は警察手帳を取り出して身分を表明し、室内へと足を入れた。
女は薄い下着のようなワンピースで、武器を所持しているようすはない。與の入室に構うことなく、女は少しうつむいた顔のまま、ただ自身の掌を不思議そうに眺めていた。
(抵抗なしか。公妨で逮捕も無理。どうすっかな……)
與は指先で耳後ろを掻き、くしゃくしゃと髪を乱しながら距離を詰めていく。策は浮かんでいない。逃げ出した男とのトラブルを理由に警察へと引っぱれるか。
思考の隙間で、與は女が眺める掌を目に入れた。楪の言うように、また男に危害を加えようとして抵抗され、怪我でもしたのだろうか。明らかな跡があればトラブルの証拠になる。
與の目論見は外れた。女の掌に怪我はなかった。弱々しい照明を拾って浮かびあがる掌は、白々として傷ひとつない。
ただ、光を受けた皮膚はどこか妙な艶を帯びていた。生身の肌なら、もっと湿った温かみのある質感になるはずだ。なのにそれは、乾いた革細工めいて照明を弾いている。與の眉間にわずかな皺が寄った。
「……?」
ふと、奇妙な感覚があった。與が見下ろした掌に怪我はなかったが、何かがおかしい。間違い探しのようなちぐはぐ感。これは、何か。
女の顔を見る。女の目は、あどけなく手を眺めている。そのまま、瞬きひとつなく、瞳孔も固定されたまま。生きた眼にあるはずの細かな揺らぎがない。不自然なほど静止した瞳だった。
視線を辿って再度見れば、女の指はぴくぴくと痙攣を繰り返していた。まるで、腕に力を入れてみるが上手に動かせないかのような、不自然な動きをしていて……
気づく。女の手首が、あらぬ方向にねじ曲がっている。本来の腕の向きから一周したかのように、ねじ上げられた皮膚が手首に皺を作っていた。
——折れている。
與が認識した、その一刹那に、
「捜査官さん?」
廊下から、楪が顔を出していた。
すっかりと存在を忘れていた楪の登場に、與の意識が背後へと向く。顔も振り返っていた。
「お前はあっち行ってろよ」
ぞんざいな與の口ぶりに、室内へと足を踏み入れた楪は、眉を少しばかり吊り上げたが、
「捜査官さん、下っ!」
大きく開かれた瞳で、悲鳴のような警告を発した。楪の叫び声が、脳を叩く警鐘に変わる。與は視線を床へ落とした。
何かが蠢いた——と、理解するより先に、與は床から飛び退いていた。一歩、逃れようとした與の足へ伸びた灰白色の影が、生き物のように絡みついた。
足を掬われ、バランスを奪われた與の身体が宙に浮く。一瞬の無重力の感覚。すぐさま背中を打つ衝撃が全身を駆け抜けた。
息が詰まる衝撃に耐えて見上げた與の目前には、女の顔があった。白く浮きあがる肌に、裂けるような唇で笑う顔——いや、実際に唇は端が薄く裂けた。
與の腹にまたがった女は、両手で体重を掛けるように與の首を絞めつける。ねじ曲がった手と、正常な手。與の耳許で、両の手がゴキゴキッと嫌な音を立てる。
女の背後に広がる世界は、血の膜を張ったように赤く、裏返っていた。まるで現実という皮膚が捲れあがり、肉の内側を晒したかのようだ。
女自身の腕さえも耐えきれないほどの異常な力が掛かる。
床に叩きつけられたときの音が耳に残るなか、與は自分の首が折れる重い音を聞いた。




