非は誰に
夢ではない。
見知らぬ家で見た赤い闇の白昼夢とは違い、私は確かな意識下で異様な生き物を目の当たりにした。
——バケモノが、いた。
「今のは……」
與捜査官の腕から解放された私は、呆然とした声で答えを求めるように彼を振り返った。
與捜査官は警棒を縮小させて腰のベルトに戻していた。ジャケットに覆われる警棒が完全に見えなくなってから、ゆっくりと顔を上げる。
「……お前の不注意でどんな目に遭おうが、お前の勝手だよなぁ」
声が低く落ちる。こちらを見下ろす金の眼には、思わず息を呑む迫力があった。
「夕暮れの無人公園に行こうが、他人の警察手帳を盗んでトラブルに巻き込まれようが……酷い目に遭いてぇなら好きにすりゃいいんだわ、お前の命なんだから」
「そのっ、警察手帳は返すつもりで……!」
ダンっ、と壁を蹴る音が廊下に響き渡った。
與捜査官の長い脚が、私の横を抜けて壁を突いていた。
本能的に身を縮めた私の頭から、とっさに返そうとした言い訳が吹き飛ぶ。
「——お前のせいで、アイツが人殺しになるとこだった」
吐き捨てられたセリフには強い非難が籠もっていた。
萎縮した私に、彼は意外そうな顔をする。
「へぇ〜? これは怖いのか。前の脅しも公園の事件も響いてねぇのになあ」
彼は呟いて脚を下ろした。独り言のように「これ脅迫罪になんの?」と、宛先のない問いを漏らしてため息をつく。
與捜査官から怒りのオーラが消えた途端、私の頭の中で小さな炎が弾けた。
「お、お言葉ですがっ……先ほどの捜査官さんの言葉には納得できません!」
「……は?」
口を衝いて出た反撃の意思。訝しげな彼を見上げて私は声をあげた。
「不用心に無人の公園を歩いて殺されたとしても、悪いのは手を出した犯人のほうです。被害者のせいで殺人鬼が生まれるわけじゃない!」
「なに開き直ってんだよ……ってか違ぇじゃん。俺が言った『お前のせいで』ってのは今回のほう。お前が馬鹿なせいで白月が人殺しになるとこだったって言ってんの」
「しらつき——それって今のバケモノのことですよね? 私いま食べられそうになりましたけど、そんな危ないバケモノがいる部屋のドアが簡単に開いちゃうのはどうなんですか。そちらの管理問題になりませんか」
「管理してんの俺じゃねぇ……」
「——では、管理している方の責任であって、法のもと私はただの被害者では」
與捜査官が唇を引き結んだ。考え込むように瞳を横に流してから、
「いや、お前が緋乃縁の警察手帳をスったとこに非があるじゃん」
「この警察手帳のことでしたら、私は拾いました。落とし物として届けるところです」
「はぁ〜?」
「本当ですもん。近くの交番に届けるべく外に出ようとしたら迷ってしまい、そこの非常口らしきドアから外に出られないかな? と、試しに警察手帳をお借りした……だけです!」
偉そうな顔で強引に押しきった。與捜査官は片眉を上げたけれど反論しない。私の行動に筋は通っている。心のほうに虚実が混じっているが。
押し黙った與捜査官に、私は咎める瞳を返した。
「被害者のせいで殺人鬼が生まれるような言い分は、撤回してください」
凛として唱える。
仮にも警察官だというのなら、謝罪と合わせて撤回してくれるだろう——と、思ったのだが。
「……聞いてます?」
「撤回は……いや。むり」
「はい?」
「無理。撤回すんのやだ」
「はいぃ?」
ひらっと手を振り私をあしらうと、與捜査官は踵を返して廊下を歩き始めた。
「あ、ちょっと! 待ってください! 私、迷子なんですっ」
「その歳で迷子かぁ〜」
置いていく気満々のスピードで去っていくので、私は慌てて暗い色の背中を追いかけ——
しかし、ビタッと止まった與捜査官の背にぶつかった。
「あたっ」
衝撃を受け止めたのは鼻。またしても鼻頭。先ほどの年寄り青年よりは硬くなかったが、それでも痛い。
振り返った與捜査官は痛みに呻く私など見えていないようで、
「忘れてたわ、これ貰っとく」
しれっと私の手から警察手帳を抜き取った。
「だめ! それは私が拾ったんです!」
取り返そうと伸ばした手は躱される。高く上げられた警察手帳を目掛けて飛び上がるが、まったく届かない。
「俺が持ち主に返しといてやるから」
「違いますよね? 警察手帳を落としたという警察官の不祥事を隠蔽しようとしてますねっ」
「おぉ、察しがいいじゃん。お前ほんと優秀だな〜?」
あはは。馬鹿にした笑い声を廊下に響かせながら、與捜査官は私をよけるように歩行を再開した。
「返してください」
「これ、お前のなの?」
「そういう意味じゃなくてっ。ちゃんとした警察官の許に届けるまでは私が、」
與捜査官の前方に回り込んで手を上げた。
すると、警察手帳を掲げるのとは反対の長い手が伸び、私の手首をひょいと掴んだ。宙吊りみたいに引っぱり上げられて、爪先立ちになる。
「は、放してください」
私の訴えを無視し、與捜査官は目をすがめ、
「それ、誰?」
金眼のほうで虚空を捉えるように尋ねた。
数秒、ぽかんと口を開いて私はアホな顔を晒す。彼の目は私の肩越しに背後を見ていた。與捜査官の視線をなぞって振り返り確認してみる。当たり前だが誰もいない。
「えーっと……?」
「お前、親でも亡くした?」
不意打ちの質問に、さっと鳥肌が立った。
「なんで……」
「あぁ、やっぱそう? 緋乃縁が言ってた護りの影って、これのこと」
しげしげと見る與捜査官の金眼は何かを捉えている。確かに捉えている。ただ、私が振り返ってもそこには何もない。
首筋から、冷たい血が流れ込むような思いがした。
「俺を公園に呼んだのもこれなんだよな〜」
「へ、変な冗談はやめてください」
「冗談? お前、まだ信じてねぇの?」
「信じるも何も……」
喉の奥で声が震えた。
もう一度、自分の背後を振り返ってみるが誰もいない。仄暗い廊下が続いているだけだ。
「……ま、見えねぇもんは信じられねぇか」
フッと、與捜査官は諦念を零すように息を吐いた。馬鹿にするようなセリフとあいまって嗤ったみたいに見えたが……声は妙に静かな響きだった。
まるで、羨むような。
手が離れる。廊下に踵をつけた私の横を、與捜査官はするりと抜けていく。
すれ違いざまに、呟きをひとつ。
「送る」
「……えっ?」
振り返りながら訊き返した私に、與捜査官は首だけ回して目を返した。
「ごちゃごちゃ言ってたけど、お前、逃げようとしてただろ。また事件を起こされると面倒だから、家まで送ってやるって言ってんの」
「……帰って、いいんですか?」
「い〜よ。お前は向いてねぇ」
「向いてない?」
「そ、向いてない」
「?」
疑問の意は流される。與捜査官は前を向いた。
「お前を心配するヤツがいたんだ。今後はもうちょい慎重に生きとけよ」
ははは、と。皮肉に混じる吐息は今度こそ笑いの音をしていた。
嘲笑と呼ぶには、ほんのすこし弱々しかったけれど。




